後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔400〕『十五少年漂流記』の翻訳者の森田思軒をめぐる矢部顕さんの往復メールは読み応え充分です。

2021年09月20日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部顕さんからラボ教育センターのテューターとの往復メールが届きました。『十五少年漂流記』の翻訳者の森田思軒をめぐるやり取りは読み応え充分です。ブログ400号を飾るのに相応しい「力作」です。多少長めですがどうぞお読みください。
 先日『下山の時代を生きる』(平凡社新書、2017年)という鈴木孝夫さんと平田オリザさんの対談本を読んだばかりです。鈴木孝夫さんは矢部さんの文中にもあるように、ラボ教育センターの言語総研で数年同席していましたし、平田オリザさんは『演劇と教育』で連載を依頼したりしているので興味深く読みました。アマゾンなどのネットでの評価はかなり高いのですが、私自身は問題に感じるところも多々あり、いずれブログでも取り上げようかと考えています。

◆ラボ・テューターとの往復メール
『十五少年漂流記』と「たかしま海の学校」
―翻訳者・森田思軒の話題からはじまった海の学校のことなど―

●コロナ時代と鈴木孝夫

ラボ・テューターHN様
 毎日35℃以上の酷暑の夏が続いていましたが、昨日から一転して梅雨に戻ったような雨の日が、しかもあちこちで集中豪雨のニュースが聞かれる日々となりました。これは天災ではなくて人災かもしれません。
 今年2月に天寿を全うした鈴木孝夫という言語学者がいます。(本人が望んだ新型コロナに感染したわけでなく、まさに天寿をまっとうした老衰でした。93歳)。
 『ことばと文化』(岩波新書)は超ロングセラーで、人文科学、社会科学系の学者であの本の影響を受けていない人はいないと言われるくらいの名著で、世界的な言語学者です。
 専門分野は 社会言語学と一般に言われていましたが、晩年は「言語生態学」と本人は言っていました。彼の論考発言は、いわゆる言語学をはるかに超えたもので、地球環境問題と文化については30年くらい前、それ以前から、しつこく発表していたのですが、先進的本質的すぎて、それを理解する人は少数でした。
  わたくしは、定年になる前の10年くらいお付き合いをさせていただきました。ラボ言語教育総合研究所の代表をしていただいていたからです。その時わたしは研究所事務局長でした。
 その鈴木孝夫先生いわく、地球上には絶滅危惧種の動物や植物がどんどん増えているが、これまで人類だけが異常に増殖して、地球に負荷をかけ続けている。そのバランスが崩れる時が近く来る。地球はもう30年ももたないのではないか、と。異常気象や新型コロナウイルスの出現は必然である。「ウイルスに打ち勝つ」なんていう言葉は人間の傲慢さの表れでしかない、と。 「拝啓 新型コロナウイルス様」とひそかに呼びたいとおっしゃっていました。来年2月には『コロナ時代と鈴木孝夫』(松本輝夫著・冨山房インターナショナル)が発刊される予定です。
矢部 顕       (2021.8.13)


●『十五少年漂流記』の翻訳者

矢部様
 コロナ感染者数がとんでもないことになってきていますね。会場がどこも使えず、ラボの行事もパーティ活動もまた難しくなってきました。オンラインは活動に限りがあります。
 鈴木孝夫先生のおっしゃる通り、この異常気象と収まらないコロナ感染は、人類が地球に対して行なってきたことへのしっぺ返しなのでしょうね。鈴木孝夫先生についての新刊がでるのですね。楽しみです。『コロナ時代と鈴木孝夫』読んでみたいと思います。

 ところで話が変わりますが、『十五少年漂流記』の翻訳者の森田思軒という人をご存知ですか? ラボ物語ライブラリーの「テーマ活動の友」の解説にも書いてあるのですが、それまでは『二年間の休暇』と訳されていたタイトルを『十五少年』と翻訳し、明治の翻訳王と言われた人です。

 その方が笠岡市(*岡山県の西部の瀬戸内海沿いの市)の出身(1861年生まれ)で、笠岡にお墓があり、市の図書館内にも立派なコーナーがあるということで、今日、笠岡のラボっ子と見に行ってきました。
 若くして腸チフスで亡くなっておられるのですが、あの時代、あの小さな町からこんな立派な人が出たとは、書物や写真、持ち物などの資料を見てとても驚きました。
 図書館で借りた本『森田思軒』(谷口靖彦著、山陽新聞社刊)を読みますと、興味深いことが書いてありました。笠岡青年会議所が主催して十五少年の無人島体験(小学生11人、中学生8人)を行った、と。青年会議所は、市内小中学校32校に『十五少年漂流記』の図書を寄贈して、読後感想文を募集して274点が集まったそうで、その入賞者30人のなかから希望者19人で3泊4日の高島での野外生活の体験を行った、と書いてあったのです。これは笠岡青年会議所創立35周年(1992年)の記念事業として実施されたとのことです。

 今年の岡山地区の中高大生広場のテーマは、「十五少年漂流記」です。三月、広島での中国支部発表会は無事に開催出来るのか分かりませんが…
コロナ様、そろそろ子どもたちの成長の場もつくれる程度におとなしくしてくださいませ・・・。祈るばかりです。

ラボ・テューターHN  (2021.8.19)


●たかしま海の学校の思い出

ラボ・テューターHN様
 森田思軒が笠岡の出身で、図書館の資料コーナーが充実していることのお話をお聞きし、たいへん興味をもちました。また、笠岡の島で十五少年漂流記を体験させる試みがあったことなど全く知りませんでしたよね。その頃わたしは中部総局で働いていましたしね。しかも、ラボの海の学校を実施していた高島でとは驚きました。それにしても、おもしろいアイディアですね。企画した人はセンスありますねぇ。1回きりだったのかどうか。 ぜったい、また、復活願いたいですよね。
 笠岡諸島の高島は「ラボたかしま海の学校」が14年間ほど開催された島であります。またいつか『十五少年漂流記』にちなんだキャンプが出来るといいですね。
 私だったらこんなことをしたい。島興しとして地元に提案したい。行政にも働きかけて地域活性化のアイディアを提供したい。いろんなことが浮かんできます。それというのも、笠岡の沖合の高島での「たかしま海の学校」のスタッフとしての経験あるからです。
 たかしま海の学校は、9泊10日2班編成の長期キャンプでした。1980年~1993年まで実施されました。その前は、能登半島の穴水町というところで、19泊20日1班編成の長期キャンプで、1973年~1982年まで実施されました。 へいぐん海の学校(山口県柳井市の沖の平郡島)は1995年~2005年まで実施されました。ここまでは、子どもたちの宿泊は民泊(民宿ではありません)で地元の漁師さんの家に数人づつ受け入れしていただきました。
  その後は、かましま海の学校ですが、ここは島での開催ではないですね。倉敷市下津井のホテルですから、それまでとは全く形態としても異なっていますし、教育理念としてはどうなのでしょうか。沖合の釜島への一泊のテント泊のみですよね。  それ以前から、釜島での無人島キャンプを独自におこなっていたのは関西アウトドアスクール校長の二名さんという方です。早稲田の探検部出身の冒険家でわたくしの古い友人ですので、釜島には私も行ったことがあります。「へいぐん」の後の候補地を探しているということで、二名さんを紹介したのですが・・・・・
 1975年には、瀬戸内海の弓削島(愛媛県上島町)での海の学校は1回だけだったようです。これも19泊20日のキャンプでした。
 全国各地で開催されているラボ・キャンプは3泊4日で、全国の子どもたちが参加します。が、ラボ海の学校は長期のキャンプで、定員も100名に限定しています。ラボ草創期から19泊20日という、今では信じ難い長期のキャンプを考えたのは、私が想像をめぐらせると、以前にテューター教務研修でわたくしがお話したことがあります「児やらい」の理念があったからだろうと思います。
 あなみず海の学校19泊20日、たかしま海の学校9泊10日、へいぐん海の学校7泊8日。と、だんだん短くなっていっていますが、それだけ「児やらい」の理念を目指すのではなく、現実的になっていっているようで残念ではあります。かましま海の学校はもっと短いのでしたっけ? 5泊6日?
  かつて文科省が、子どもの1週間以上の長期キャンプの必要性を提案して、学校の先生だけでは実現不可能なので、対応スタッフを1万人公募して研修までやろうとしました。20年ほど前だったでしょうか。わたくしのよく知っているテューターのご主人が応募したことを本人から聞いたことがあります。会津若松市のテューターの連れ合いで、テューターだけでなく連れ合いともよく話をしていた人でした。文科省としては画期的な提案だったのですが、いつの間にか、うやむやになって実現しませんでした。まぁ、学校の先生は1泊2日の合宿も嫌がるようで、そんな人が多いと聞いたことがあります。
 わたくしは、20代の頃、あなみず海の学校、30代の頃、たかしま海の学校を複数回対応しました。ついでながら申し上げると、私は40代の頃、ごかやま山の学校(9泊10日1班編成)(於:富山県五箇山の相倉集落の合掌つくりの里)の対応も複数回したことがあります。
学校ですから他のラボ・キャンプのように「村長」「大統領」と呼ばずに、「校長」「教頭」という呼び方をしていました。「開営式」は「入学式」、「閉営式」は「卒業式」と言って、参加者には「卒業証書」が渡されました。
  校歌がありまして、「瀬戸内浮かぶ高島に、緑の帽子のラボっ子が・・・・・・・・」の歌を毎日毎日、唄いながら、民泊から浜辺の道を通って学校に登校するのでした。学校は廃校になった島の小学校で、小さな運動場、教室が3つ、小さな講堂、職員室、給食室がありました。
 宿泊は、高島の場合は、漁師さんの家に泊めていただく民泊で、食事は学校に登校して3食を給食室で民泊に取り組んでない家庭の島のおばさんたちがつくってくれました。シニアメイトや本部スタッフの準備期間中は、妹尾さんという方の島唯一の海苔工場の2階に大広間があって、その部屋を使用させてもらいました。
 プログラムは、水泳、魚釣り、島内探検、カブトガニ博物館見学、いかだ作り、カヌー体験、トロール漁船体験、塩作り、などなどで、島ならでは海ならではのプログラムで、テーマ活動は雨が降ったらやるといった程度でした。
 塩作りは、私がぜひやりたいと考えて始めたプログラムです。学校近くの浜辺にグループごとに塩田をつくり、毎日毎日、朝昼夕に海水をかけて、砂に海水の塩の結晶が付着していって、最終日に釜で煮込んで塩が出来るのですが、長期でかつ海のキャンプだから実現できたのでした。出来あがった海水からつくった本物の塩は、みんなで分けると一人分はわずかしかなかったのですが、お母さんへのお土産としました。ラボっ子たちは自分たちのつくった少しの塩を入れたビニール袋を大事に持って帰りました。
  このように書いていきますと、どんどん思い出してきてキリがありませんので、このあたりで今日は止めておきます。くわしくはまたの機会にでも・・・・
矢部 顕    (2021.9.6)


●森田思軒の生家探し

矢部 顕 様
 メールありがとうございます。
  実は昨日も中学生のラボっ子二人(一人は福山の子)と笠岡に行って、今度は森田思軒の生家跡を探してきました。ネットで見つけた写真を頼りに近くのお店の人に聞いたりして(その人も写真の背景の近くの場所しか分からなかったのでしたが)、ようやく小さな石碑を見つけた時はみんなで喜びました。
 笠岡図書館が閉館になっているので、思軒ゆかりの地を辿り、福山に住んでいるラボっ子にも笠岡という土地と思軒について知ってもらう良い機会となりました。

 さて、『森田思軒』の本の作者は、谷口靖彦氏という方ですが、ネットでこの本を調べていると以下の文章を見つけました。森田思軒についても分かりやすく説明してあり高く評価しておられます。
ご参考までに…
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 著者(1930-)は、元岡山県笠岡市職員。森田思軒研究者。本書あとがきによると、昭和54年に作家の野田宇太郎が「思軒の故郷」という一文を執筆するための取材に笠岡市を訪れた際、著者が市職員として応対したが、思軒に関する資料がほとんどないことに困りました。野田氏は、著者に対して、思軒研究の必要性を説き、自ら研究するように勧めたとのことです。それ以来、著者は思軒研究に志し、その成果が本書に結実したのです。

〈本の内容〉
 森田思軒(もりた・しけん)について知る人は今日では少ないかもしれません。しかし、戦前にはヴェルヌの『十五少年』(岩波文庫)の名訳者としてその名を知らぬ者はなく、生前には「翻訳王」として一世を風靡した、時代の寵児でした。明治30年(1897年)に36歳の若さで世を去ることなく、長生きしていたならば、森鴎外と並ぶ明治の大翻訳家・大評論家として、今日まで名声を保っていたであろうと惜しまれます。
 森田思軒は深い漢学の造詣を生かし、「思軒調」とか「周密訳」といわれる漢文訓読調を基調とする緻密な翻訳文体を作り出し、それまで粗雑な翻訳が横行していた海外文学の翻訳に画期的な転換をもたらしました。翻訳にあたっては、原文の一字一句をもゆるがせにせず、もっとも適切な訳を求めて苦吟しました。
 本書は、森田思軒の本格的伝記としては初めてのものです。思軒の出生から、幼時、青年期の勉学、慶応義塾時代の恩師・矢野龍渓の招きで上京し、矢野が経営する「郵便報知新聞」に入社、以後つぎつぎと翻訳ものを新聞紙上に発表し、「翻訳王」として名声をかちえてゆく様子。世間から「根岸派」といわれた文学者グループの盛んな交友や贅沢な生活の様子。年齢40に達したら、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を『哀史』の題で翻訳したいと熱願していたが、36歳で急死したために果たせなかったこと。思軒の生涯の事跡が、現存する資料をもとに、ていねいにたどられており、著者の長年にわたる研究の深さが滲み出た好著となっています。
 思軒の翻訳といえば、漢文訓読調のものと思っていたのですが、初期のころは試行錯誤していたことや、晩年には口語訳を試みていたことを、本書により初めて知りました。思軒の亡くなった明治30年ころには、彼の親友であった森鷗外もまだ文語で翻訳をしていたのです。
 しかし、明治という時代は社会の進展が早く、思軒の没後10年目に企画された『思軒全集』全5巻は、最初の1巻を出しただけで中絶してしまいました。その後、資料が散逸したために彼の文学の全容解明は、今となってはすこぶる困難な状況となっています。
 最近、森田思軒を見直す動きがあります。『明治翻訳文学全集』(大空社、1997年~)により思軒の翻訳のほぼすべてが読めるようになり、2000年には本書が登場。2002年には岩波書店の『日本古典文学大系明治編15翻訳小説集』に思軒訳の『探偵ユーベル』(ユーゴ原著)が入り、2005年には思軒の直系子孫である白石家の資料をもとに『森田思軒とその交友』(松柏社)という図録が出版されています。
 本書は、こうした思軒再評価の動きの中で出版され、思軒の再評価を促進することになりました。執筆態度はきわめて穏健・誠実で、一般人にも分かりやすいように、文体を示す必要のある場合以外は文献を現代語訳して引用するなど、こまかい配慮が行き届いています。森田思軒を知るには、本書がもっともよい入門書です。
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 海の学校は、楽しそうですね! 私は行ったことが無い(テューターは参加できませんしね!)のですが、プログラムはまさに「海の学校」ですね。子どもたちは大喜びだったことでしょう。
  最近は(コロナ前は)、小学校などが3泊4日の宿泊学習をしているため公共施設の予約が難しく、パーティ合宿の場所探しに苦労していました。学校もラボ・キャンプ並の日程の宿泊に取り組んでいるようですが、 19泊20日には及ばずとも、9泊10日のラボ海の学校の経験は貴重ですね。

 高島の海苔工場でお世話になられたとのことですが、その妹尾水産さんですが、なんと笠岡市内にあるようで、しかもアナザーラボの会場に近いようです。ご近所に住んでおられるラボママにお聞きしましたが、あまりよく知らないとのことでしたので、海苔を注文がてら電話でお話ししてみようと思っています。
  コロナと共存しながら、海の学校も再開出来るといいなと思います。また妹尾さんとお話しできたら矢部さんにもお伝えしますね。

ラボ・テューターHN       (2021.9.7)


●なぜ長期キャンプなのか―「児やらい」

ラボ・テューターHN様
 ラボっ子とともに森田思軒の生家跡を探す活動なんて、中学生にとってもすごく物語への興味づけになりますよね。石碑を見つけた時はうれしかったでしょうね。
 ラボ・キャンプが始まって、しばらくして1973年から19泊20日という、いまでもびっくりするような長期の「あなみず海の学校」の実施に踏み切ったのは、なにがそうさせたのか。
 わたくしが思いますのには、やはり「児やらい」という子育ての考え方がラボ教育の初期から根本にあったからだと想像いたします。「児やらい」なんて言葉は今では民俗学のなかの用語になってしまっていますが、子育ての基本は「児やらい」であり「母子分離」を目標とすべきだという考えがあったのだろうと思います。
 「児やらい」とは、児を遣らう、背中を押してあげる、広い世界に押し出す、という意味で子どもの自立を促すことを言います。
 今では日常的に使われることはありませんで死語になっていますが、わたくしの知っている限りでは、高知の人は日常的に使っています。わたくしは、中国四国地方のすべてのラボ・パーティの父母会に対応したことがありますが、「児やらい」という言葉を知っている父母はいませんでしたが、高知の人はみんな知っていたのでびっくりしました。 どういう意味なのかお聞きすると、「我が家では、もう『児やらい』は終わった」というように子育てとほぼ同じ意味で使うとおっしゃっていました。
 そうです、「子育てとは、子どもの自立を促し、一人前の大人に育てること」が最大の目標です。今は、その極めて簡単なことが忘れられているように思います。
  お母さんから離れて3泊4日のラボ・キャンプに参加することは、幼い子どもにとっては未知の体験にでかける勇気がいりますし、母親にとっては子どもの背中を押してあげる必要があり、母子分離の第一歩です。初めて参加した子どもたちが、キャンプの初日の夜にお母さん恋しくてシクシク泣いている光景をよく見ます。
  19泊20日とか、9泊10日のキャンプは、参加資格が小学校4年生以上ですが、それでも初日の夜に泣いている子はたくさんいます。私の体験で言えば全員が男の子です。女の子とちがって、男の子と母親は母子分離が難しいようです。特に長男の場合はそれが顕著です。
 キャンプの教育目標は、①自然から学ぶ、②初めて出会った友だちとの交流、③キャンプという子どもの共同体づくり、などいろいろありますが、根底に流れる教育思想は④「児やらい」であろうかと思います。だからこそ、ラボの初期から19泊20日という過激的ともいえる海の学校という長期のキャンプが実行され、それに我が子を参加させたいという親たちがいた、ということではないでしょうか。そのことをテューターはしっかり認識して父母に語り掛けることが大切だと思うのです。
 これと全く同じ考え方が、「ひとり立ちへの旅」というスローガンの、たったひとりで外国の家庭にホームスティするラボ国際交流活動の理念ですよね。
矢部 顕   (2021.9.9)


●妹尾水産さんは笠岡のラボ・パーティ会場のすぐ近くでした

矢部さま
 「児やらい」という子育ての考え方は、以前国際交流についてのお話を矢部さんに伺った時にお聞 きしましたが、キャンプという体験にも「子どもの自立を促す」という目的をしっかり持って送り出さな いといけないですね。 他のキャンプ地よりも長い期間の「海の学校」は、そういった役割もあったのですね。 コロナの影響でなくなってしまいましたが、今さらながら失ったものの意味を考えています。

 今朝、妹尾水産さんにお電話しました。社長の妹尾孝之さんは工場の方に行かれていて不在でしたが、電話に出られたお嫁さんと話していると、「ラボさんの話は聞いていますよ、姑に代わりますのでお待ちください」とのこと。
奥さんは、たかしま海の学校のことも矢部さんのことも克明に覚えておられて大変懐かしがっておられました。「今、岡山におられるんですか? 近いから来てくださればいいのに!」 とおっしゃっていました。

 「9月20日からは海苔の作業が始まり忙しくなるので、それまでならばお会いできます。これからお弁当を持って工場に行くので主人に早速話します!」とおっしゃっていましたよ。期間が1週間しかありませんが…

 笠岡の島の様子などをお尋ねすると、海の学校の再開については、なかなか難しそうでしたが、「笠岡にラボ(しかも妹尾さんのお宅のすぐ近く!)があるんですか?」と驚いておられました。不思議なご縁で繋がって、私も嬉しくなりました。

ラボ・テューターHN   (2021.9.10)


●瀬戸の花嫁

ラボ・テューターHN様
 妹尾さんは今でも海苔工場を経営していらっしゃるようですね。だんだん思い出してきました。彼は珍しく(?)大学の工学部出身の海苔漁師で、当時は島のなかで若手の中心的な存在で、若くて行動力あふれる意欲的な方だったと思います。ほんとに何から何までお世話になりました。
奥さんはとっても明るい方で、たしか大阪で孝之さんと知り合って島にお嫁に来たと聞きましたが、よく来たなぁと思いました。孝之さんとの素敵な出会いがあったとお聞きしたかどうか・・・。まさに「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子、1972年)ですよ。
 妹尾さんの奥さんはわたしのことをよく覚えているとのことですが、ラボのスタッフは14年間にたくさんのラボのスタッフが関わったので、他の人と思い違いをしていると思いますよ。エリア内のラボ中国支局のスタッフは長年にわたって継続的に関わっていたと思いますので、そこの誰かではないかなぁ。
 でも、ラボのことをよく覚えていてくださって有難いことです。
 HNさんは、海苔を買いがてら、というか、それを口実に訪問されるとのことですが、新たなつながりが生まれそうでワクワクしますね。私はブドウの収穫が忙しくて、今回は残念ですが訪問できません。よろしくお伝えください。
矢部 顕  (2021.9.12)


●妹尾さんご夫妻とお会いしました

矢部様
 今日は妹尾さんのご自宅兼店舗に伺いました。今回は矢部さんが来られないのですぐ帰るつもりでしたが、結局ご夫婦と1時間半ほどいろいろなお話をして、楽しい時間を過ごして来ました。 私は海の学校にも高島にも行ったことがないのですが、ご夫婦のお話はとても興味深いものでした。

 当時の島の様子や海の学校のキャンプ中のこと、最後は島に民宿が増えて人手がそちらにとられ、ラボのほうを手伝える人が足りなくなったことなど、たくさんのエピソードをお聞きしました。

 矢部さんが言われていたように、9泊10日×2班の間の3食は全て学校の給食室を使用して島の女性たちで用意されていたそうです。
 ラボっ子の宿泊は民泊だったので、食事の負担が無いようにとの配慮だったそうですが、島内にお店があるわけでもなく、当初は全て違うメニューを作られたそうで、活気があって楽しかったよ!とおっしゃっていましたが、ラボっ子やスタッフたちの食事全てを作るのは大変なことだったと思います。

 ラボっ子たちが次々と通りかかって妹尾さんたちが作業をされている横で挨拶をしてくれるので、「こりゃあ大変だ! 全員に挨拶していたら仕事ができない」と言っていたんだよと笑いながら話してくださりました。

 「たくさんの子どもたちや若い人やスタッフの人たちが来てくれてあの時は楽しかったなぁ!」「あの頃来てくれた子たちはいくつになっているのかねぇ。島のこと覚えているだろうかねぇ…。」「写真 がいっぱいあるのよ。みんなが帰るときは、七色の紙テープを島の人が桟橋で子どもは船で持って別れを惜しん だのよねぇ・・」とお二人で懐かしがっておられました。貴重なお話をたくさん伺って、当時の楽しい 様子が目に浮かぶようでした。

 妹尾さんは当時、夜な夜な(?)ラボ・スタッフたちとお話をされていたそうで、ラボの教育理念もご理解いただいていて、ご夫婦も現在、海苔について・海について・環境について、を子どもたちに教える活動もされているそうです。

 「海は全てに繋がっている。大事なことだからラボっ子たちにもいつでも話をしてあげるよ」とおっしゃって下さいました。これは、実現させたいと思っています。

 それから、以前、青年会議所が開催したという「十五少年漂流記の無人島への冒険」は妹尾さんの弟さん(*笠岡市市議会議員)が音頭を取って開催されたそうです(これも不思議なご縁ですね)が、詳しい内容はタッチしていないのでご存知ないとのことでした。
  妹尾さんの特許の珍しい「幻紫菜」(紫菜とは中国語で海苔のことだそうです)という海苔のセットを送らせてもらいました。とても美味しいですよ。召し上がって下さい。
(妹尾夫妻の写真を撮らせていただいたので添付しておきますね。)

ラボ・テューターHN   (2021.9.16)


●ラボっ子への講話

ラボ・テューターHN様
 妹尾さんを訪問して、初対面なのに、楽しい時間だったようでよかったです。ご夫妻で時間をとってくださって、かつ海の学校の思い出をまったく知らないラボの若いテューターに思い出を語ってくださるなんて、ほんとに有難いことでした。笠岡にラボ・パーティがあってラボ・テューターが訪ねてきてくれたという親近感もあってのことでしょう。
 ラボっ子に講話してもいいですよ、なんて、とてもいい話になりましたね。 海のこと、環境問題のこと、瀬戸内海で、船を操って海苔養殖を何十年もやってこられた方のお話は、さぞ説得力があると思います。お仕事が暇なときに、海の見える場所で、ラボっ子たちに話してほしいですね。
来年(かな?)は、岡山地区のラボっ子は笠岡に集合できますように。新型コロナウイルスさん、よろしくお願いしますよ。
矢部 顕  (2021.9.17)
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● 追記●『十五少年漂流記』のタイトルについて
森田思軒が翻訳した題名は『十五少年』でした。Wikipediaによると、《『十五少年漂流記』というタイトルは、森田思軒の娘・下子の夫である白石実三により命名されたという。後に新潮社が子供向けに内容を要約し、『十五少年漂流記』というタイトルで1951年(昭和26年)に出版し、昭和中期にはこの作品名が定着した。》と記されていました。


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