25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

林忠崇 逝きし世の面影

2016年09月08日 | 文学 思想

   こんな男がいたとは知らなかった。上総請西藩で十九歳で徳川譜代の藩主となった林忠崇である。忠誠を誓う将軍・慶喜は水戸で謹慎して恭順姿勢・・・藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になると考えて、彼は脱藩する。そして幕府軍の遊撃隊に飛び込むのである。鳥羽伏見の戦いから始めまった戊辰戦争で、彼は各地を転戦する。箱根戦争、東北戦争、函館戦争などなどだ。徳川家が存続され、慶喜の命も助かると聞いて、忠義は終わった、と降伏し、幽閉生活を地元に戻り百姓を始める。実際には、5ヶ月前の閏4月29日に決定していた事であるが、各地を点々としていた彼の耳には入っていなかったようである。

このニュースを聞いた忠崇は、
「もともとの願いが叶った以上、この先の抵抗は私利私欲の無意味な戦い・・・戦いのための戦いになる」
と、あっさりと降伏する。自らの死を目の前にして、うろたえて悪あがきする事なく、冷静に先を読むわずか21歳の青年は、家臣と引き離され、新政府によって監禁される事になる。幸いな事に切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(1872年)に釈放され、晴れて自由の身となった。

 時代は長州と薩摩の時代に入った。

 ここからが面白い。彼は藩主ではない。脱藩したのである。藩主であれば男爵などの爵位が与えられる。やがて元の藩で百姓となる。それから東京の下級官吏になる。やがてやめて北海道で物産賞の番頭をする。その後も大阪の役所の戸籍係となり、職を転々とする。教師もする。その辺の経緯の彼の内面はわからない。

 彼は己の生涯について全く愚痴らしきことはいわず、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和という時の流れを生きたのである。長州の吉田松陰が唱えたアジア侵略を長州の政権が実行に移してきた、その流れも見ていたのである。それを思うと胸が熱くなってしまう。

 琴となり 下駄になるのも 桐の運

昭和16年、94歳で死んだ時、アパートに暮らしていたというが、近所の人は「お殿様だった」ことは誰も知らず、家臣の子孫たちが参列して驚いたらしい。家臣のひとりが辞世の句を聞いたという。すると彼は辞世は明治元年に詠んだ、今はない」と答えたという。21歳の時の辞世、

 真心の あるかなきかはほうり出す 腹の血潮の色にこそ知れ

 写真

 こういう男がいたことに僕は感動する。潔さ、筋を通す倫理観、不要不言。胆力。

 思えばひとつ戦争もない日本列島の稀有な時代が江戸時代であった。多くの日本を幕末、明治初期に訪れた外国人はこの国のおとぎの国のような美しさと人間の優しさに触れ、西洋のようになってはいけないと日記や手紙に書いたのであった。

 逝きし世の面影 (渡辺京三  平凡社ライブラリー)に詳しい。