25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

進化

2020年01月08日 | 文学 思想
個人幻想が共同幻想と重なると現在のイランでの葬儀のようになる。アメリカの場合、トランプ大統領という共同幻想であり、個人幻想をも併せ持つ人が「鶴のひと声」でイランの司令官をドローン攻撃するが軍人の個人幻想と共同幻想の重なり方にはズレがあると思われる。
 イランは宗教国家というのは自明のことであるが、アメリカや日本、他の国のような国民国家も宗教の最終的な姿である。つまり、仏教もキリスト教も過激な原理主義は別として、国民の中に道徳のようなものになってしまっている。国民国家が宗教の最終的な姿であるというのは自由・人権・平等という民主主義の根本で国家が形成されている国民国家とて、最後に残るのは国と国を区別し、国を守り、国のために戦い、国の方針に個人幻想を重ねてしまうという点で究極のところで出てくる宗教的な姿である。

 ぼくはAIだIot だ、第四次産業革命のシンギュラリティーが来る、と未来のことをいくら叫ぼうが、個人幻想と共同幻想の観念の仕組みが解明され、重なると危ないときには自動的にブレーキがかからない限り、未来も同じだと思う。進化は自然淘汰、生存闘争で起こる。進化は退化する場合もある。生存闘争に退化が必要ならば退化という進化を生物は選ぶ。

 生存闘争で自分あるいは自分たちにとって不利と思うことは進化に現れる。例えば、遠い将来、自己幻想と共同幻想が重なろうとした場合、そのことは危険だから危険のブレーキをかける働きが脳に備わるかもしれない。 
 人類の歴史は類人猿と人類に分かれてから弱さを補いつつ進化してきた。強いネアンデルタール人は強さゆえに滅んだ。ホモ・サピエンスは弱いゆえに強力な共同幻想、つまり集団で行動する方が強い、ということを知った(イスラエルのハラリ氏はフィクションと呼んだ)。一夫一妻の方が子孫を残せ、有利に生活を営めること(対幻想)を知った。

 親鸞聖人は「歎異抄」の中で、「人一人殺してこい」と唯円に言うが、唯円は「とてもできません」と答える。しかし親鸞は「機縁さえあれば人は何百人でも殺せるものだ」(言ったとおりではないぼくの記憶である)
 というようなことを言う。ここなのだ。普段人ひとり殺せない我々が個人幻想と共同幻想がピタッと重なったとき、人を殺せてしまうのだ。800年以上前に言われていたことなのに、人間はこの「機縁」を克服できていない。この問題が進化につながっていかなければならないのだ。