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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆休んでいられない

2010-06-14 21:21:40 | 日記

 土曜日曜のアクセスは少ない。多いのは月曜日です。休み明けの日です。家でアクセスする人より職場でアクセスする人が多いことを示していることと。家で、アクセスする人は、パソコンに向かうより、他の事をする、あるいは家から出る機会が多いことが原因だと思う。
昨日今日と仕事というか、試作の繰り返し、参った、結局、金型の修正が必要になって、明朝、また、鉄工場に持ち込む、ブログを書き込む時間がない。
道端のテントレストランとカキリマ、典型的なインドネシアの情景です。
疲れ  道がある  眠い
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(^_-)-☆できる、出来ない

2010-06-13 06:49:35 | 情報

 “する“と”できる“の意味は、全く、次元がことなります。よく、人に言われることがあります。「これ、やってください」、と、言われた時、「やらない」「できない」、と、答えることも多い。その人は、「出来ると言ったじゃないの」と必ず言う。私にとっては、出来るが、しないことの方が多い。出来ることを全部やるはずがない。
出来ないことをやろうとするのが私です。既にできることをやっても意味がない。これも、性格です。既にあるものでも、私が作ったことがないものも沢山ある。そういうものを作るように頼まれたときに、やったことがなくても、やり方がまだ分からなくても、既に誰かが作ったものだから、出来ないはずがないと思い、出来ます、やります,と、言ってしまいます。そして、今まで、出来なくて、匙を投げてしまったものは一つもありません。インドネシアの仕事は、全部そういう仕事です。私の所へ来る仕事は、日本のどこかの会社で作っていてそれを輸入して部品として使っている会社がインドネシアの国内調達をするお手伝いをするのです。ですから、すべて、日本の誰かが作っている物です。しかし、その半分は、私が今まで作ったことがない製品です。日本製ですから、当然、世界中どこへ持って行っても通用する品質です。見れば特殊で見事なものです。それらの全てを出来ないと言わないで引受けるのです。それも、いかにも、作ったことがあるかのように、自信ありげに返事をするのです。客先は安心して私の任すことになります。インドネシアには私以外に押出を語れる日本人は居ないのですから、客先は当然、安堵します。価格も日本より30%以上は安くしなければなりません。
 それでも、利益が上がるように工夫しなければなりません。

  インドネシアでは、そういうことで、多くの会社、人が手掛けてきたが、出来なかった物を私に出来ますかと、持ってくることは全くありませんが、日本にいる時は会社員時代、太田化工時代の全てに間が、他の人、日本で他の会社で出来ない物を頼まれて、作ることだけやっていた。私に技術紹介の中の日本で作った製品は全て、日本で初というものばかりです。エンジング、グロメット、ポリカのペンダント用チューブ、66,6ナイロンのプリファイル、丸棒、いた、肉厚パイプ、POMチューブ、面取りスパイラルチューブ、押出長尺自在ブッシュなどなど、全てが、日本初です。永久帯電防止ポリカーボネートのブラインドスラットは我ながら傑作だったと思います。インドンネシアから一次日本に戻ったときに、5年以上前から、何社かが開発をしていた、各ブラインドメーカーも自分の会社から一番初めに売りだしたいと思っていた。そんな話を聞いて、早速、手がけた。経緯は、技術の方を見てください。大変、面白かった。
 人がやらないことをやって、自己満足する、また、快感を得るという人生を続けていると、なかなか、それから、抜け出すことができない。一種の麻薬のようなものでしょうか、辞めらない。

 今トライ中の製品についても、とにかく何とかしなければならない。間もなくサンプルを出せるはずである。

  今日の通勤途中の事故。休日出勤などオーバータイムの時の食事はケイタリングの弁当です。これで、60円、ご飯(ナシ)の右が焼きそば(ミーゴレン)下にジャガイモ(クンタン)と魚(イカン)左が野菜(サユール)のスープとデザート(ちゅちムツッ)のメロンです。左下にザンバルが添えてある。ご飯とメロン以外は全部激辛、損れなのに、サンバルが付いている。結局、私はご飯とメロンを食べただけでした。

 出来る  やらない  違い
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(^_-)-☆イジメの項閉じる

2010-06-12 22:17:36 | 情報
  小学生のころ、同じクラスの悪ガキ大将がいて、数人の子分を従え、女の子や体の小さい子にちょっかいを出したり、物を取ったり、勉強の邪魔をしたりしていた。陰湿なイジメではなく、はっきりとしたイジメだった。彼らにとって私は目触りで厄介な奴だったと思う。彼らがすることを私は許せなかった。自然に彼らと喧嘩をせざるを得なくなっていた、取っ組み合いの喧嘩もあったし、放課後彼に呼び出され、彼の部下たちと校舎の裏庭で、殴り合いをしたこともあった。私には部下はいないので、一人で戦った。そういうことは、当然、自分が言わなくても、友達から先生に報告が行く、それを彼らはまた、私が告げ口をしたと思い込み、私に突っかかってきた。そんな、子ども時代の時と、今の性格は変わっていない。弱い者いじめは許さない。言い返すことができない立場の人をいじめる者は許せない。
 私の存在が邪魔だと思った人間は子どもでも、大人でも、誤った情報でも、それによって、被害妄想が大きくなってしまう。それを、また、私を攻撃する材料にする。それでも逃げ出さないので、私の落ち度をでっち上げてでも追い出そうとする。

私は、66.5歳ですが、今でも、人が真似を出来ない技術と他人に対する優しさを持っていると思っています。経営者時代に多額の税金も払いましたが、私にしてみれば多額の蓄えもしました。国民の義務である納税も嘘偽りなしにしましたし、現在でも、払うべきものはすべて払っています。年金は並みの人より多くを受け取っていると思います。ですから、何も金銭的に困ることはありません。インドネシアで受け取っている報酬は他の日本人に比べれば微々たるものです。生活費とインドネシア人に対する援助金を払うには不足します。他のことは自腹です。蓄えを減らしていっているだけです。
 何度も書いていますが、車や運転手費、家賃、海外渡航費、電気代や水道代、一般的には会社が負担するものですが、私は遠慮しています。理由は創業者的考えから、利益が上がっていない会社に負担を掛けることは私の考えに合わないからです。
もっとも、利益が上がっている北川工業や南部化成に下請けとして貢献を続けているし、インドネシアの工場でも利益が上がるよう、技術が向上するよう、お手伝いをする、本当は、これは、私の考えと合わない。しかし、インドネシアの若者に技術を伝えるという目的を実行する機会を貰っている。

今でも、私を必要としてくれる人や会社は沢山あります。現在はPT.NANBUのお手伝いをしていますが、ナンブ以外の何社からも声がかかっていました。声を掛けられているのはインドネシアだけではありません。また、もし、自分で会社を興そうと思えば日本でも、インドネシアでも簡単に興すことが出来ます。選択肢は沢山あります。その中に隠居と言う選択肢もありますが、これは、本当に動けなくなってからのことです。
私をいじめた人にとっては当てが外れたでしょうが、パニック障害に掛っても、まだ、引きさがりはしないし、まだまだ、マイペースで、あちらこちらで出没します。
 強烈なイジメを私にしかけた人たちは、その時の地位や立場から降りた時、人から、求められるのでしょうか、あるいは、自立するための技術や資金があるのでしょうか。無いと思います。逆にそういう人種だから私のような人間を邪魔に思うのです。そしてイジメるのです。気の毒ですが、そういうものです。私をやっつけようとした会社内の勢いはどうなっちゃったの?という感じになります。
 
 北川工業の方々は特に読んでいただきたいと思います。ゴムタイヤの空気入れを内側にして、浮輪にして、海水浴場で売りあるいた北川ゴム工業の創業者から息子さんにバトンタッチされた会社は、生きる時代背景が全く異なります。社風も大いに変化するでしょう、風通しを良くするために、あちこちが開かれた会社になるでしょう。また、その中から、時代にマッチした新商品の開発や発見をしていかなければなりません。大変な時代ですが、創業者を手伝った生き残りの一人として、遠い南の国から、応援をしたいと思います。私が、教えたこと、示したことは、少ないですが何人かの人に染み込んでいるでしょう。即効性は無いでしょうが、今気付かないでしょうが、なるほどと思う時期が必ずあると思います。
 創業者の健康をお祈りします。いつか、また、お会いできればいいと思っています。

  今朝のMM2100の入口の様子、07:15頃ゲート前に並ぶ車、ジャカルタ方面からは橋の上のずっと手前、本線上まで並ぶことがありますが、私の方からは本戦まで並ぶことは全くないし、ジャカルタ方面から来る車と合流場所まで、止まることはありません。
  風通し  白を黒  聞かない
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(^_-)-☆Say no to IJIME

2010-06-11 20:50:16 | 体験
  インドネシアのあちこちにSay no to Drugという看板が掲げられている。いじめ、パワーハラスメントについて、思うことを書きます。
私が、インドネシアでアドバイザーをしている間、強烈ないじめの対象にされた理由ははっきりしています。私の存在が、彼らの立場を危うくする、自分の立場を奪われるという、被害妄想です。彼らの共通した性格は臆病で、他人に接する時、不自然なくらいに丁寧。鳥肌が立つくらい丁寧。一旦、他人の目が無くなると、今度は、ひどく怒りやすくなる、すぐに、プッツンして怒鳴り出す。仕事はできないので自分自身でやることは殆どない、怒鳴ってやらせることが得意である。白を黒だと言って押し付ける。言いぱなしで、相手の意見を聞こうともしない。始末が悪い、駄々っ子が間違って経営者に押されてしまった。自分から、経営者になれる人ではない。
そういう人が牛耳る会社に居てしまったのです。私が選ぶことはできない。
置かれた状況は、
1 アドバーザーという地位であって、直接的な上から下への組織の中に入っていない。
2 押出という仕事では、私以外は全くの素人。
3 品質管理や経営能力、営業能力、人の使い方、接し方、言葉を覚える速度、生活順応等は全て私が上。
4 日本の社長からの依頼
アドバイザーとして、私が持っている知識や行動、部下たちへの指導力、外部との接触力、これらを、見習ったり、うまく使ったりして、自分も勉強し、自分の能力を高めると同時に、会社を外部関係や内部的にも安定させる方向にもっていけばいいと思うのだが、その、能力が無いので、私を目の上のたんこぶに思ってしまうのです。苛めても、いじめても、すごすごと引き揚げないので、いじめがどんどんアカラサマになるのです。
第三者の日本人が見ていない閉鎖された特殊な環境なので、誰に気を使うこともない、やりたい放題がエスカレートする。彼らは、いじめてなどいない、と、言い訳を外に向かって言う必要もいないし、私がパワハラにあっていると叫んでも、誰もが、確認する方法がない。事実、北川工業の本社は、パニック障害で居たたまれず、逃げ帰ったことを、私のわがままで逃げ帰ったと思っている。そういうものです。ですから、今回は会社の名前も、はっきり出しました。若社長にとって徹底的に膿を出すにはこの方が良いと思うからです。
 遡って、14年前、初めて、PT.KITAGAWAに赴任して、一ヶ月後、北川工業の当時ナンバー2と言われていた小川常務が会社へきた。そして、私を見つけるなり、「太田さん、余計なことはしないでください、何もしないでください、なにか、問題があった時、私が責任を取らなければなりません、営業もしないでください、北川工業の方針は下請けをしないことです。あなたみたいな立場で外部から北川社長が呼んだ人は大勢います。役に立った人は一人もいません。契約期間が終わるまで、じっとしていて、終わったら、直ぐに帰ってください」とはっきり言われた。例のインドネシア産を隠そうと徹底的にインドネシア人を(製造地偽装を)指導した人です。いきなり、大逆風である。それを、当時の本社の社長や副社長は知らない。
 すぐ後に知ったことだが、多くの途中入社の人が、彼から無視され、また、社員には、其の人と接触するなと言う命令が多くでいた。生え抜きの社長の側近の人もその被害にあって苦しんでいる人もいた。
 その後、私がPT.KITAGAWAから去るまで、彼と仕事の話をしたことは一度もないし、皆さんがよく誘われる食事会に誘われたこともない、射出のインドネシア人も時々、昼食会に誘われたが、押出の私の部下が誘われたことが無い。徹底的にシカトされたし、差別をされた。
彼のお気に入りにならないと何をされるかわからないという北川工業の人は彼に逆らえないでやむ負えず彼に合わせる若い人もいたが、本質的に常務と同じ考えなのでしょう、ヒラノ、イトウからも無視されていた。仕舞いには、押出の仕事からも外され、客先との接触も禁止された、私の居場所は事務所の入り口近くのコピー機の近くに移された。小川元常務の命令である。彼が何回目かに来た時の翌日、出勤していったら、私に何の予告もなく、机の場所が入り口近くへ移されていた。サラリーマンの世界ってこうなんだ、いじめいじめと聞いていたが、こういうことなんだと、妙な納得をした。

私がPT.KITAGAWAを去ってから、間もなく、この常務は、社内の内部告発やネットでセクハラやパワハラの事実を明かされ、やめさせる羽目になった、今は、北川工業とは切れている。発表された退任理由は違うと思うが、実際は、私が書いたことが正確です。それに伴い、元常務派の人も、会社に居辛くなっている。当然である。
 自分たちがやったことは正しかったと思う人はいないと思う。その時は、ただただ、狂っていただけだと思う。冷静になって、自分が、何をしてしまったのか、考えてほしい、そこから、多くの人々に迷惑を掛けた。そして何も貢献しなかったことを知ってほしい。

 私に何をしたか、そして、その結果、何か得るものがあったのか、何もなかったはずです。そして、今、私は反撃をしています。彼らはそれを予想できないのです。世の中のパワハラは、私のようなケースともうひといつ、自分より能力が低いと判断した人をいじめるケースです。これは、学校での苛めに似ています。このケースの方がはるかに多いだろうし、あらゆる年代や場所であると思う。苛められた側は、泣き寝入りをするしかないが。何年か過ぎても私のようには、反撃できない人の方が多い。いずれにしても、いじめた側は、永久に続けられないし、いつか、自分がみじめになる時が来るはずだし、社会的にも制裁を受ける時が来るはずです。

ですから、今自分が誰かをいじめているかどうかを、いつも、考えてほしいと思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
私がインドネシアに居た、そして、今もいる理由(根拠)はインドネシア人の若者に私の技術を伝えること、そして、そのためには仕事を見つけなければならない、そこで、自然に発生する責任は、その仕事を依頼してくれた会社に迷惑を掛けないということだけでなく、貢献しなければならない。だから、何があっても、何をされても、すごすごと、逃げ出すわけにはいかないし、何より、そういう、理不尽な扱いをする人を許せないからです。PT.KITAGAWAには、私が尊敬する人の力で入場することが時間の問題ということが明らかになった。もう一社については、私の力で、二年後を目標に入場するよう行動をする。理不尽にいじめをした人には必ず、しっぺ返しがくる。
会社の食堂(キャンティーン)です。バナナの配送
泣き寝入り  逆襲  気の毒
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(^_-)-☆そこまでやるか!!

2010-06-10 21:14:00 | 情報
イトウが私を陥れようとしてやったことは、不良品の一次保管場所から、不良品を取りだし、出荷するために準備された製品に混ぜてしまったことです。その出荷品の箱には一次、二次の出荷検査をした人の名前の印が押してった。彼女達は出荷検査のベテランで10年、同じ製品の検査をしている、間違えて不良品を客先に渡したことは一度もない。彼女達も今回のクレーム発生については、納得していない。そんな製品を通すわけがないほど、幼稚な、不良品だからである。コの字型が閉じている製品の開き具合を、全品ゲージを通過させてチェックしている。今回のように足がコノ字より、開いてしまっている製品は場合によっては出来てしまうが一目見ただけで開いているとわかるし、いちいちゲージを通さないでもわかる。そもそも、製造ラインの検査、立ち上げの検査でそんなものは跳ねて、不良品の箱に移してしまう。それが、後の検査工程に送られることはない。そういう製品が、不良の原因といって、検査や品質管理から製造に返品されたことは一度もなかった。今回クレームが発生したLOTでもなかった。
遡って、今回のクレームの対象になった製品の状態は、エッジングという製品で若干閉じていなければならないが、コノ字が開いてしまっていて、なお且つ、1Mの製品が折り曲げられた癖がついている、二重の不良現象でした。100本一袋の中に20本、そういう製品が入っていた。どちらか一つ、折れているだけ、開いているだけというものは無く、開いていて、折れ癖がついている。ここがポイントです。そして、何千本もある一つのLOTの中の一つの箱の中にだけで、他の箱にはない。それも、その箱の中の20本だけというのもポイントです。

開いているだけなら、良品ができる前の立ち上げの調整中に、そういう状態になる時があります。間違えて、OK品にしてしまうことは万が一あるかもしれません。そういう状態は再現できます。しかし、その製品が折れ曲がっているというのは再現できません。と言うのは、一つの箱の20本だけを連続して折り曲げることをやろうと思っても製造装置では出来ないし、再現できません。作った後に、製品の重ね方、並べ方によって、下の方の製品が荷重で曲がることはあります。しかし、この曲がりは折り曲げたような状態にはなりません。また、曲がった製品を真っ直ぐな箱に100本並べておくと、その曲がりは真っ直ぐに作ったばかりの状態に戻るのです。何もしないのに、折り曲がることは無いのです。
 二重に検査して封をした製品の一つの箱だけに不良品が入ることは在りえないのです。再現できないのです。

 ただ一つ、出来る方法が在ります。その方法は、開いてしまっていてNGの箱に入れてあった製品をその箱から取り出し、20本まとめて二つ三つ折り曲げて縛って、二三日置いておけば、コノ字が開いてなお且つ折れ曲がり癖がついて二重のNG品を作ることができます。それを、ほどいて、出荷前のOK品の箱の中の良品と入れ替えれば出来ます。
 検査前の製品に混ぜたら、NGとして跳ねられるし、もし、はねられなくても、一つの箱に纏まって入ることもありません。

 そういう状態に押出の連中がするはずがありません。また、押出以外のインドネシア人でも思いつきませんし、そんな嫌がらせをする理由がありません。また、やって、ばれたら、この会社に居られなくなります。
こんなに分かりやすい不良原因が二つ一遍に重なるのは、偶然ではないことを押出の連中は全員知っています。これを、イトウに言えないのです。イトウは、私に対し、再現できたと、怒鳴るように言った。しかし、私は確認していない。
押出の素人が、押出、特にこの製品については40年前に日本で私が初めて作って北川工業の主力商品として、発展に貢献したものでした。この製品の製造方法は今でも、私の考案した方法でしかできていない。それほど、物性に関しても知り尽くしているのです。私が再現したというか、私が作っていて偶然に出来てしまったとか、そういうことは全くない事を、イトウは一日で作ったというのです。狂っているとしか思えない。何を言っても無駄の状態にあきれるばかりです。  
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html
技術の紹介です。現在、沼津の名取という会社に技術をぱくられて同じ方法で製造されてしまっています。若いころ、会社が近かったこともあって、経営についていろいろお話をしてもらい、また、亡くなった元富士プラ精工社長の塩崎さんと沼津工業高校の同級生ということもあって、尊敬していた経営者だったので、大変残念に思います。
この人にも、そこまでするの?と思います。
それから、四年、今でも、再びこういう状態は偶然でも、意識的にでも製造過程では出来ない。太田化工で40年作っているがこういう二重の不良品ができたことは無い。
 私ができる方法は不良品を折り曲げて縛っておく、というやり方だけです。それをイトウがやったのです。自分がやっていないなら、ぜひ、怒ってください。そして、私に製造装置で再現して見せてください。もし、装置が、今ないと言うなら、その準備のために五千万円を渡してもいい。出来るなら、大変な新技術だと思うからです。他の製品開発に応用できます。

 こういうことが、これだけではないのです。他の製品でも、最終検査を終えて、梱包し、出荷前倉庫に入れたのちに、その製品を、梱包の外から、強い力(バットのようなもので殴ったような)で中の製品を変形させてしまって、その製品の箱をいくつか積み重ねた内側に入れてしまって、外から見えなくしてしまってあったものもが、客先で発見されてクレームが付いたものや、やはり、完成品の端を火であぶったような、溶け方をした製品が客先で見つかったり、油が注ぎ込まれたのでしょう、潤滑油が異常に付着している製品が客先で発見されたり、製造工程では絶対出来ない不良原因で客先からクレームが立て続けに付いた期間があった。すごいでしょ。心理的に私が、とんでもなく頭にくる邪魔ものだったのでしょうね。こんな、辛辣なことが現実にあるのです。怖いですね。
私もインドネシアで散々対象にされたオガワ元常務のパワハラとセクハラは内部告発によって排除されたが、彼にすり寄って、同じような行動、言動をした何人かは廃除される運命にある。元PT.KGSの御二人さんもその対象になることは、明らかです。もしそうでなければ、新社長が考えている北川工業の社内の風通しをよくするための改革はできない。
中国系のお寺は、どこも、ド派手。田舎の川沿いの家の風景、それぞれの橋はその家のもの
際限ナシ、  狂気、  ひたすら耐える、
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(^_-)-☆日常的なこと物価

2010-06-09 18:01:58 | インドネシア
斜めからインドネシアを眺めよう 632
 旅から帰って毎日一つの試作に取り組んだがまだ完成していない。もう少しと言うところまで来ていて、それを直そうとすりと他の良かったところが悪くなる、それを直そうとするとまた他の処が気に入らなくなるということを繰り返している。しかし、今月は良いことがある、と、決めているので必ずこの製品は物になると思ってやっている。
 水曜日に日本からの原料と新しい金型が届く、木曜日からそれらを使って試作をする。土曜日までに、完成させる。月曜日に客先へサンプルを提出する。
 これが、第一弾だが、来週木曜日に日本から別の原料が届く、それでも、試作をして、どちらの方が、条件が良いか比較する。
 今日は、また、ある会社から、仕事を出すかどうかのオーディットがあった。製品のサンプルはとっくに出してあって、OKになっている。今回は、工場の環境とシステムのチェックである。書類的には整っているので、実際との比較に来た。
 今まで、タイから輸入していた製品のインドネシア国内調達に替えるお手伝いです。

 自宅の改修を始めている。と言っても大がかりなものではなく、日本なら当然付けられているはずのもの例えば、湿気や臭いを外に出すためのトイレ兼浴室(カマールマンディ)の換気扇。それから、窓、電気をつけなければ昼間でも真っ暗になる設計は誰がするのでしょうか。台所の換気扇などである。換気扇は売って入りのだから、付ける人もいるのでしょうが、一般的には、付けられていない。これ等の総工費は材料、人件費が八千円です。日曜日からガレージというか、家の前の駐車場所に屋根を付ける工事も始まっている。今は乾季で雨は少ないが雨季には確実に必要になるので、今が安い。片側に1.2m高さの塀を付けて片側持ちの丸屋根を付ける。三万円で頼んだ。男性三人と女性二人の合計五人で仕事をしている。今日で、三日目、後二日はかかりそうだ。五人で五日、材料費も込み、これで、ほどほどの利益になっているらしいのが不思議である。
 裏の庭に、ドリアンやアボガドやマンガ(日本ではマンゴー)を植樹した。自分の持家なので何でも自由に出来る。そのうち、ナンカやチィムベダックの木も植えようと思う。近所にそういう木や草花や肥料や土を売っている店が沢山ある。私だけが特殊ではなく、インドネシア人もそういう余裕がある家が増えていることを感じる。これらのインドネシアで一般的な木で1mくらいに成長したものは五百円位である。

 それに引き換え、車(キジャンイノヴァ)が230万円位だが一番の売れ筋で国民車の様相を呈している。私の家が240万円だから、ほとんど同じ値段です。私の車はキジャンでもモデルが前のもので、2000CCオートマで8年ほど前に購入した。当時のキジャンの最高級グレードでした。マニュアルチェンジで1800CCが一般的で190~200万円ですが、私の車は230万円でした。
 今人気上昇中の車はイノヴァ(トヨタ)という1200ccクラスの車で全く同じ車でゼニア(ダイハツ)があります。価格は130万円、百万円です。エンブレムが違うだけです。一か所で作って最後にマークを付けた時に30万円の差ができます。キジャンより以上の大衆車になりつつあります。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage122.html
ポンティアナックの写真アルバムです。
日本では見たことがない花です
暮らし  物価  人並み
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(^_-)-☆ブロックMカラオケ

2010-06-08 20:45:47 | 情報
話はガラッと変えて、カラオケの話。先日、本当に久しぶり、7年ぶりにジャカルタはブロックMのカラオケへ行ってきた。ブロックMの中の色々がだいぶ変わっていた。ブロックMの中の道は簡単に言うと、日の形になっていて、回りの道は左回りになっていて、真ん中の一本も左回りで通行できたが、今、真ん中の道は全部駐車場になっていて、通過することができなくなっていた。スペースが少なくなっていて、駐車が昔に比べると難しくなった。グルグル回って、三周目に一旦外へ出てまた入りなおそうとレスタランYUKIの前、出口のすぐ手前に空きがあって駐車できた。それが無かったら、また、何十分もグルグル回らなければならなかったでしょう。
グルグル回っている間に気がついたことは、カラオケの店の名前がだいぶ変わっていた。七年前のままの店は半分ぐらいだったように思う。焼き肉千里が無くなっていた。浪速も無くなっていた。塩梅レストランも違う名前になっていた。

私たちが入ったカラオケはビルの5階でした。何となく、カラオケの女の子と話しているうちに、連れ出しのシステムの話になって、彼女達のアワーチャージが6万Rp(6百円)連れ出しは25時間だそうです。だから、1.5ジュタ(一万五千円)で連れ出すことができるそうです。店によってちがうでしょうが、昔の1.5倍になっているように思う。60時間が彼女達に課せられたノルマで、三カ月間達成できなければ、その店で働けなくなるので、連れ出しを拒む女性は居ないし、客先から誘われれば断ってはいけないことになっているそうです。しかし、同日のダブルは禁止。店での客との相手は何人でもOKなので、指名されれば出来るだけ多くの客と接する、途中何度も出いってしまう女性は、他の客の対応もしているのです。自分だけの相手をしてくれていると思っている客は人が良い。
彼女達曰く、店に払って連れ出してもらうなら、店に断らないで、外で待ち居合わせして、私にチップをはずんでもらう方が良い。

彼女達は、kost(コス)という下宿のようなものに何人か一緒に部屋を借りている。平均相場は一部屋月八十万Rp家賃を三人でシェアーにて割り勘で借りている。ラジオダランやマンパン辺りにカラオケの女性が住んでいるコスが多いらしい。通勤はバジャイやアンコッタで帰りは店の車が送る。19:00頃から、着替えや化粧をし、翌日の01:00に勤務終了だそうです。一般の客は20:00頃から23:00頃まで、連れ出しだけを目的で来る客は23:00~24:00に来る、ピークが二回あるそうです。だから、持てる女性は一回客を見送って再び客の相手をすることになる。
ゴルフのキャディが朝からと昼過ぎからの二回手伝いをするのと似ている。
ちなみに、私の得意な歌はザードや広瀬香美、岡本真夜、MAX、インドネシアの歌ではユニーシャラー、デシラトゥナサリ、クリスダヤンティ、アグネスモニカ、最近ではヴァージンなど女性歌手の歌が多い。一緒に行った日本人は,だれもが驚きます。先日は、皆さんのリクエストにお答えしてクロンチョンのブンガワンソロも歌った。勿論、インドネシア語です。
しかし、家に戻ったのが00:30で、疲れた。七年ほど前には、これほどでもなかったが、やはり、歳のせいでしょうか、真夜中一時間近く運転して午前様で家まで戻るのは厳しい。
何故七年ぶりにカラオケへ行ったかって?日本からの出張者が(一人ではなく多数)来た時に、カラオケへ他の常駐車が付き合って行っていたが私は、遠慮させてもらっていた。あまり、それに付き合わないでいるのも、まずいかなと思って、同じ会社内の付き合いですから、行ってみた。
 さわやかな写真 二枚、いえのまえのなまえをしらないはなパンガンダランのジャンビノ滝に遊ぶ子供たちとポンティアナック、ダヤック族の子供たちとマリアさん。 
http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/newpage0006.html
追加した旅行記です。
犠牲  テイクアウト  裏に何か
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(^_-)-☆執拗ないじめパワハラ

2010-06-07 21:27:39 | 体験
(明らかな動揺)
いよいよ、物語はクライマックスに差し掛かってきました。
月曜日に退院し、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、以前と同じく、原因はわからず、「帰国を勧めることはできない」、「じゃあ、どうすればいいの?」と聞いたら、先生は、「ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、」だけだった。そんな検査はとっくにやっていて、この医師には結果も伝えてあった。ご本人忘れているのだ。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半器管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。何度も言っている、脈拍が飛んでしまうことや息苦しくなることについて何も説明しない。この医者じゃ、どうしようもないと思っていたので、帰国前の単なる確認だった。

ヒラノとイトウが遅れてきて、入ってきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」
菊池医師曰く、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」彼らにとっては予想しなかった、ショックな言葉だった。
 下手ノの戸惑いが、顔に現れた。下手ノとうどウの、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要綱目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、「キタガワ社長が飛行機に乗るなと言っているから、悪いことを言わないから、帰らないで、病院でじっとしていてくれ」。というのです。「悪いことは言わないから帰れ、」といった、根拠を聞きたい。
朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師もヒラノもイトウもインドネシアの病院事情などなにも知らない。「どこの病院がいい?」と私に聞くのです、MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センター(ハラオアンキタ)に行くことにした。私にとっては、皆さんが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。
どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、時々、気絶しそうになる病人の私が、彼らの世話をしなければならない。私にとっては病気で苦しんでいるうえに、厄介者が付いてきて、彼らに気を使わなければならない。
その日の夕方も、マリアさんに手伝ってもらって、入院手続きをして入院した。その間大男の彼らは何もしないで、見張るように、くっついてきているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。
しかし、私の帰国決行の決意は変わっていなかった。インドネシアにいたらどうにもならないことが分かった。決行するしかない。
(覚悟の脱出劇)
この前後の何日かの投稿を、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。普通の人では同じようにはできません。私だから出来た行動でした。

彼らが見張っているので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、ハラパンキタの入院手続きを待ちながら、うろうろしているだけで、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様に」と言い残していなくなった。私の病気については何も考えていないのである。
11、12,13日、経理の大津さんが総務のユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。直ぐに、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。脱出前に受け取れた。感謝です。

別の話だが、経理の手伝いに来ていた大津さんもパワハラの対象になっていた。一年くらいいて日本へ戻った。私とは三カ月ほどオーバーラップしただけだった。しかし、彼には世話になった。事務所でヒラノやイトウから大声で、どなられているのを何回か目撃した。怒っている理由が、やはり、二人の知識なしだったことは明らか。

決行について、もし、ヒラノに話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、退院手続きをした後、病院に頼んで、出発時間まで、居させてもらった。そして、誰にも告げず13日、22時病院から抜け出し、直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で、感謝感激で分かれた。再会を誓った。インドネシアからの決死の脱出劇でした。
私がヒラノに言ったことに耳を傾けず、自分で医者に確認することもしないで、「帰れ、帰れ」と言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、「帰ってはならない、」になってしまった。
私が、彼らを無視して、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、「太田はとんでもない奴だ」と、話したそうです。帰らなくてもトンデモナイ、帰ってしまってもトンデモナイ。今でも、彼が、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。 通訳の意識的な間違った噂を吹き込まれ、操られていた操り人形(ワヤン)であることに気が付いていない。ヒラノは現在でも、其の通訳の紐を切られたくないので、唯一の頼りだから、仕方が無い。

サテライトでも機内でも、何度も脈拍が飛んだ、其のたびに、もうだめかと思った。真夜中のフライトで一睡もできなかった。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココでもAIUが効く)に転がり込んだ。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。普通は12:00前に家に着くが、この時は17:00過ぎていた。妻には知らせてあったので、あまり深刻に考えていなかったようだった。生きて、自力でたどり着いて、コンナほっとしたことはなかったが、これから、また、試練が待っていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
(パニック障害から脱出成功)
胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。
 まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。

 早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。
その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。
この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。
うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。
死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。

私でなければ、とっくに打ちひしがれて、引きこまされてしまうでしょうが、私で、相手が悪かった。やられっぱなしでは気が済みませんし、こういくことをされた経験のある方に勇気を持ってもらうために、迷ったが、今回は、あえて実名を出しました。中傷誹謗や作り話ではなく、事実を書いています。事実と違うなら、こそこそ、少ない話し相手に私の批判話をするのではなく、堂々と、反論の投稿をしてください。もっとも、そういう、ブログやフェースブックなどに書き込む手段を知らない人たちですから、出来ないでしょう。

PT、KGSに最後まで尽くしていた経理のAさんから6月10日にやっとPT,KGSから解放されることになったと報告があった。日本に戻っても、彼に期待することは無いので、インドネシアでもヒラノの釣り三昧を放任してきたが、その生活も間もなく終われでしょう。もう、おそらく、会社を辞めるしかないでしょう。新社長は、彼の存在に戸惑っている。
死人に口無しとばかりのインドネシアから居なくなった私を悪者にし、自分を正当化しようとしても、残念でした。死人がインドネシアに生き返ってしまったのですから、当てが外れたでしょう。私がPT.KGSの跡地に入場するのは間もなくですから、私の顔を見たくなければ、早く、帰国した方がいいと思いますよ。それとも、当時のいきさつを話しますか。説明をしてもらいたいことが沢山あります。
 私がインドネシアには戻らないと決め込んで、私が居なくなったことを、すべて私の無責任からだと、言い廻してしまったことも、自分がパワハラをしたことを、覆い隠す、愚かな手段だったのです。
 Toko bangunanといって日本ではホームセンターのようなもの、色々な、日曜大工用の道具や設備、装置を売っている。それと、移動toko bangunan大工道具、左官道具、電気工事道具を売ってまわっている。
 正当化  悲しい人達  存在が罪
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(^_-)-☆最低最悪のコンビ

2010-06-06 21:24:41 | 体験
(どうしようもない)
ずっとさかのぼって、このパニック障害発病の一年半前ころ、それ以前は、ヒトウとO社長だったのでイトウに対する歯止めが利いていたが、イラノが社長になり、かなり程度が低いお二人さん、イラノとヒトウがそろった状態で会社を任されることになった。鈍感の二人だがプッツンだけは早い。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにしたので、なお、程度の低い同志が、意気投合して、勝ち誇る。おまけにインドネシア語を覚えようとしないで、作り話のゴシップを情報として伝える通訳を重用した。言っていることは全て出鱈目の言いがかりだけ、自分で確認できないのです。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。
彼らが私に文句を言ってくることは、自分が直接何をされたということではない。私は、彼らから頼まれれば何でも、直接手伝っていた。彼らに被害を与えたことは一度もない。私はアドバイスもした。そのようにやれば、なにもかも、うまくいくし、本社からも、従業員からも好かれるはずである。しかし、気の毒なくらい、全く、出来ないことだった。
彼らの怒りは、私が、他の誰かの手助けをした、そそのかしたという情報を通訳から聞いたという話だけである。私にしてみれば、心当たりのないことばかりだった。
他の人が、何故、私を悪く言うのか、攻撃するのかと聞いても、答えないという。PT.AFMIのナガサワは、自分が追い出されるかも知れなかった、と、言っていたそうです。
これから書くことは、この事を踏まえての話になる。
 強烈ないじめが続いた。無知の極みは、人がわざと、嫌がらせて、作らなければ出来ない状態の不具合を、イトウの自作自演で作り出し、クレームを発生させ、私の責任にし、私をクレームの話に立ちいらないようにし、その対策についても、対策にならない対策を作り出し、客先や本社に報告をして、自分が解決したという演技をして見せた。いかなる条件でも、製造過程では出来ない不良の状態を、彼自身は、再現できたと、私に、吐き捨てるように言った。押出については全く素人で、ナイロンに色々な種類があることも知らないで、射出の専門家と自称している人間が、日本で私しかできない製品について、口をだし、出来っこない、状態が、出来たと言った。私に、その出来た状態を見せない。
 イトウ自身が、良品を折ったり曲げたり、断面形状を、物理的な力を加えて、変形させてしまって、押出の検査員が三重にチェックしてOKの印を押した箱の中に、それを、混ぜてしまったのです。それが、不良発生の原因でした。対策は、押出製品の出荷前倉庫にイトウが近づけないようにすることです。
 現実にこういう状況だったのです。怖いですね。
今度は、三年半ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった話。2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。
しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目まい止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、退院したその足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。
その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター(ハラパンキタ)、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。



(底なしおバカさん)
 
長い間、狂気の苛めが続いたが、私が分けの分からない症状になっても、それは,やむことはなかった。
発病して二日後、会社代表のイラノに状況を電話で知らせたとき、電話で最初に、日本人の医者からは「飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できない」といわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、ヒラノから出た言葉は、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。(彼は、領収書とともに申請すれば即日、保険会社から振り込まれることを知らない)
 
知識、行動力が私の100分の1も無い人が、何も知らないのに、私に、「悪い事言わないから」と、上から物をいう、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。自分で確認行動ができない人だから、「悪いこといわないから、自分で日本人医者に確認してよ、」と言いたい。結局、最期まで私の邪魔ばかりして、手助けになることは全くしなかった。出来ないのでした。
一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、件のヒラノ、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたかを説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。イラノもヒトウも、ぜんぜん聞いていない。イラノ、全く私の話を無視し、のけぞったまま、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。ヒトウは「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと、改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。

見舞いどころか、裏付けもなく、ただただ、早く、インドネシアから消えろと、いいに来たのです。私は、孤軍奮闘、何とか、帰国できるような状態したいと、あちこちの医者に相談しているのに、その手伝いをしようという考えも、毛頭ない。出来ないので仕方が無いが、せめて、私の邪魔だけはしないように願いたいだけなのですが。

ここから、今日の話。50日ぶりに、マリアさんが来て、安心が増えた。部屋から鼠の糞が消えて清潔になった。妊娠したのだろうか、そのことについては話題にしない。

日系の中小企業で、日本人が一人しかいない会社が多くある。その中で、何社かは長期で勤務し、本社には交代要員がいそうもない会社である。そういう会社の中で、私が把握している数社は、その日本人が独裁者のように振る舞い、従業員いじめをしている。そういう会社から、今回、何人かを救い出すことができる機会を得たので、その動きを具体的にしている。高給で引き抜くのではなく、今より安い給料で来てもらえるのです。私が仲間意識で人を使うことは、今の従業員から、保証されるからです。仕事は楽しく、リラックスしながら出来るのが何よりです。怒鳴られながら、では、インドネシア人だって手伝う気になれない。
(手柄アピール)
それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、呼吸困難で緊急入院していた家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人のヒラノ、イトウ、大津さん、三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態(過呼吸)を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。
イトウ、曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。
この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、改めて、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、メディカロカは休みだったが、竹の子に電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人をどうしても紹介してください」というので、イトウを紹介しておいた。だから、竹の子の医師からイトウに電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、イトウが、あたかも自分が全て、手配したような口のきき方で、のたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話をヒラノに向けにしようとしている。2人とも、厄介払いが、自分の手柄になると思っている。事実、日本の上司は、元オダワ常務のように、こういうことを評価する人たちなのです。
それを受けて、ヒラノ、してやったりと、曰く「医者が帰っていいと言ったら直ぐ帰ってください」「キタガワ社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまだ言っていた。「飛行機に乗っていい」というに決まっていると思いこんでいる。キタガワ社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していないきたがわ社長が「早く帰国せよ」というのは、まったく、見当はずれである。キタガワ社長が言っているといえば効き目があると思ったヒラノの口から出まかせとしか思えない。キタガワ社長がそんな無責任なことを言うはずが無い。愚かな人だ。
帰国し、挨拶にいた時、キタガワ社長に確認したが、「私はなにも状況が分からないから、帰れとも帰るなとも、何も指示していない」と言っていた。当り前の話である。

私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、どんなことを言われても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れてあった。
ゴルフ場のハチの巣
 セクハラ  社内いじめ  責任転嫁
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(^_-)-☆パニック障害の原因、症状、治療

2010-06-05 16:20:56 | 情報
ある人が会社へ来てインドネシアのちょっと昔の話をしていった。その中に、撤退し南部に売ることが決まっている会社の社長さんヒラノが、私が2006年に許可なく急きょ帰国してしまったと、其の人に話をしていたという話が出た。ということで、その他の人にも、私はとんでもない人だったと機会があるごとに言っていた、という話を色々な人から聞いていたので、もう一度、その時のことを載せることにした。もう、私が、インドネシアへ戻れない、何を言っても、私の耳には入らないと想って、私のことを悪者にして自分の状態を正当化しようとしていたことが分かった。
ということで、以前書いたパニック障害についてその原因と治るまでの経過をもう一度纏めて載せます。
 一人でなくて良かった
 今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KGS(間もなく私も再入場し押出成形をする可能性がでてきています)の日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。
 現在 発病以来約四年近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。
インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。
こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。
インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。
 この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。
日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。
これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)
間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。


翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師である。とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90-100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、
1 息苦しい2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い  5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気 
10 手足がしびれる 11体のあちこちでちくちく感じる 12気絶はしないがしそうになる 13死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい 
15 一人でいるのが怖い16  それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。
17 音に敏感になる。18 脈が飛ぶ。
続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。
全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。
コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。
現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。
 ほとんど発病前にもどっています。
  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KGSと完全に切れた。三人の代表者の元で9年間非常に充実していたが、四人目の代表者のヒラノが着任してからあからさまないじめが始まった。
 そのために派遣された営業の専門家と聞いていたが、仕事を獲得できないし、獲得したわずかな仕事も、間違えて、大損の見積もりを出し、やればやるほど損を大きくしていたのに、本人たちは、大儲けをしていると思い込んでいた。早く、私に入場されると、そういうことが、全て、引き継ぎで明らかになってしまうので、わざと、無血開城を遅らせていると勘繰りたくなる。そういう会社が、解散する状態を書いてあります。今は解散したPT.KGSの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。目からうろこになるでしょう。
ポンティアナックで高級ホテルのホテルカプアスの朝食です。インドネシアではめったに食べない高級朝食です。ツインベッドルーム(朝食付き)で三千円、一人1500円と言うことになる。私は果物とソーセージにご飯はほんの少し、コーンフレークを少々です。マリアさんはナシクニン(黄色いご飯)に鶏肉をボイルしたものと野菜いためのようなものを取った。赤いサンバルが添えてある、これを付けながら食べるのです。鳥肉に付けてある赤いケチャップのようなものは辛くない。テーマニス(紅茶)やブアブアハン(果物類)はこれの外側に置いてある。
パワーハラスメント  無知  無能
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(^_-)-☆辛い=おいしい

2010-06-04 18:17:26 | グルメ
 インドネシア人の食の味は辛いに尽きる。辛いのがイコールenakおいしいのです。私としてはおいしいには色々な味があり、食材が持つおいしさをそれぞれ楽しむのが食だと思うが、インドネシア人は違うらしい。何でも辛ければいいのです。
 先日、裂イカとノシイカを見つけた。見かけは日本のものと同じで色がちょっと赤みがかっている。それを両方買って食べて見た。なんと、私にとっては激辛で、すぐ口から出してしまった。イカの味や噛み心地を楽しむなどと言うことは全く無視してある。これをインドネシア人にお土産として渡すと大喜び、おいしい、おいしい、イカのこんな食べ物は始めてだという。
 サンバルという唐辛子を潰したものが必ず出てくる、緑色と赤があるが緑の方が辛い。もともと辛い食べ物になおも、サンバルを乗っけたり、食べ物に混ぜたりして食べる。サンバルを食べていると思うしかない。
 日本人でも辛い食べ物が好きな人は多いが、インドネシア人にかなわないでしょう、赤ん坊の時から辛い物を食べさせられているのですから、辛くなければ物足りない、おいしくないと言うのも当り前だと思う。インドネシア人にも辛いのが苦手な人もいる。そういう人に会うとうれしくなる。酒を飲めない人と会った時と同じ感覚である。
 カキリマで売っている食べ物はインドネシアの一般的食べ物ならなんでもある。ソトアヤム、ソトカンビン等の串焼きアヤムゴレンやベベックゴレン等のから揚げ物、をはじめ、グラメやマス等の淡水魚から揚げや丸焼き。煮付けはない。
 私に世話をしてくれているマリアさんの食事と私の食事は、普通は別です。彼女用の食事を作っているときに、炒め物に唐辛子をふんだんに入れるので、その煙が無にしみる、臭くて耐えられない。クレームを付けるが一向にやめようとしない。同じ場合でも彼女はサンバルを一杯混ぜて食べます。
アボガドでもグアバでもドリアンでもマルキサでもドゥクでも何でもある。アイスクリームもそれらの味のものを売っている。ドリアンアイスクリームはおいしいですよ。オグラアイスも売っている。小豆が小さくて硬い。

ヨーロッパ乗りいれを拒否されていたガルーダインドネシアのヨーロッパ行きが解禁された。まずはアムステルダム便から再開した。9月フランクフルト、ニュールンベルグへ行くつもりなので、使えたらいいと思う。使えれば、安く行けることを期待する。
通勤バイク 日本の冬のような服装をして運転している。暑くないそうです。逆に寒さ防止なのです。ジャンパーやセーターは皆さん持っています。日本人は持っていませんし、着るはずがありません。
Hokabentoの出前。インドネシアでは一番有名なファミリーレストランです。メニューの名前が日本食レストランにあるものと同じですが、味は無国籍です。今や、インドネシア中の中都市以上、どこにも店があります。食事をすると抽選補助券、抽選権がもらえ、日本観光が当たるくじ引きに参加できます。そんな、キャンペーンもやっています。
辛い  サンバル  味覚
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(^_-)-☆食は道端にあり

2010-06-03 21:19:47 | グルメ
昨日とは話に内容がガラッと変わる。インドネシアに馴染む第一歩は食事をインドネシア人と同じに、一緒にすることで、出来ることです。これができない人にインドネシア人が、どうのこうのと言う資格はありません。
私の昼食はキャンティーンと言って食堂で従業員に皆さんと一緒に食べる、その昼食が不潔である、と書きました。しかし、毎日というわけではありません。昼食時に外出しているときには外で食べます。日本食レストランや中華料理のレストランは、近くにありません。あるのはパダン料理です。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage061.html
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
スマトラはブキッティンギの旅行記にパダンに近いということで紹介しています。パダン料理のレストランはどういうわけでインドネシア中どこにでも有るのでしょうか。東はパプアのジャヤプラ、西はアチェまで、どこの小都市にもあります。処が、私はこの料理が、ただただ辛いという理由で、全く苦手です。ということで、どこで食べるかというと、道端のカキリマ(もう何度も紹介していますが、人間の足日本と車が二つと前に倒れないように支えている木の足、合計五つの足ですから)で食べます。汚い、の一言、スプーンや容器類はぶらさげて持ってきたバケツ一杯の水で何回も洗います。それを見た日本人で吐き気をも催した人があるくらいです。
どんな名前の料理かというと、一番多いのがミーアヤム(ラーメンに鶏肉のカスと葉っぱが何枚か入っている)ミーバソ(バソという肉団子がいくつか入っている)ミールブス(日本でいうラーメンに近いが遠い)ブブールというお粥を食べることまできる。ゴレンガンはシンコンやタフ、テンペ等の揚げものです。ピサンゴレン(バナナの天麩羅)も一般的です。スープ類も多い、牛にどこの部位だか分からないが肉付きの骨のスープ、部分によってスープなんとかというのですが知っているのはソプブントゥットゥだけです。色々な種類があるようですが、一々名前を覚えていません。それらの他にナシと飲み物を頼みます。一般的な飲み物は、テー(紅茶?)ですが、テーマニス、テーディンギン、テーパナス、タワールといった種類があります。私はテーパナスのタワールを飲むことがおおい。コピーはコーヒーです。コピーといっただけでは、インドネシアのコーヒーが出されます。粉が溶けないのです。浮いていますがやがて沈むのを待ってのものかそのまま粉と一緒に飲むのかは本人次第です。砂糖をふんだんに入れて超甘くして飲むインドネシア人がおおい。私はずっと昔飲んでみましたが今は飲みません。インスタントコーヒーを頼む時も、粉が無いものを注文します。ネスカフェが一番高級で一番値段が高い。町の道端のテントレストランやカキリマではネスカフェを置いてない。
処で、私の今日に昼食はこのカキリマでした。粉切れのダギンアヤム(トリ肉)に骨が付いている、がりっと音をさせながら砕いて食べてしまう。ちょっと抵抗がある大きさだと、口の中で、チェックして。ペッ地面に吐き捨てます。一緒に通りがかりのインドネシア人が昼食に寄るのですが、変な日本人が一人でそこで食べているのを見て、呆れているようでもあり、一瞬、驚いたようにもみえて面白い。
カプアス川に掛る橋。
足五本  食器洗い  骨付き
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(^_-)-☆後世に伝わる

2010-06-02 21:24:36 | インドネシア
 衝撃的でショックでした。インドネシア中あちこちへ行っていますが、こんな場所に遭遇したのは初めてでした。
インドネシア人から見た日本や日本人は目標にする最大の手本です。インドネシア人の日本人に対する印象は大変良好です。どの外国より良いと思います。ただし、例外はあります。分けのわからないことを言って困らせたり、直ぐに何でも怒鳴りつけたりする日本人も多いことは確かである。しかし、日本人の全体の印象はやはり良である。それを裏切らないようにしなければならないと思う。
 第二次世界大戦のときに約二年間インドネシアを占領した。200年余り続いたオランダの植民地では無くなったのです。そのことをインドネシア人の多くは日本が植民地から解放したという気持ちを持っているし、日本の敗戦によってまたオランダに取り返されようとした時に日本軍の一部が、インドネシアの独立戦争を影で支えたということもあって、なお印象をよくしているようです。もう殆ど、その頃、インドネシア人と共に戦った日本人は亡くなってしまっていますが、たまに、そういう人を紹介されるときがある。ですから、生き残っている人がいるのです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
 ほんの一部の地域だけだと思いますが、日本軍の残虐行為に対して抵抗したインドネシア人もいるのです。その一か所がポンティアナックの東ののMantorというところだったのでした。そこには日本軍のとった行為とやがてはカリマンタンの人たちが日本軍を撃退したという話をモニュメントにして後世に伝えようとしているのです。日本軍人の目つきがいかにも憎たらしくしてある。最後にぺこぺこ許しを請うている姿も情けなく描かれている。事実かどうかは別にしても、そういう印象がそこには残されているのです。日本人として恥ずかしくなるような光景が標されていて直視できない。ここの人たちはこれをずっと見続けると思うと残念で仕方が無い。
 
 もし軍隊なら、その残虐の方になる可能性が高い日本人が企業戦士としてこちらに来ていることも事実です。こんな人が多分占領当時に来ていたら、かなりの残虐行為をしただろうな、また、部下たちにそれを命令しただろうなと思う人が大勢いる。インドネシア人のこと、インドネシア人従業員を馬鹿扱い、バカ呼ばわりをしている日本人も多い。そのモニュメントの軍人の目つきと同じような目つきをする日本人に多く出会っている。私から見れば、自分の方があほだと思うのに。
先日ブンガワンソロの作詞作曲社のグサンさんが亡くなって、日本大使が弔問に訪れたくらいの当時の親しさであったのと比べると落差が大きすぎる。

 モニュメントの一部、今作ろうとしている製品、まだOKになっていない。
 残忍  印象  永久
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(^_-)-☆良いことがある

2010-06-01 20:10:34 | 試練
今月は精神的に疲れた長く感じた月だった。6月はストレスが半減するリラックスできる月になることを期待する。
しかし、旅行中のひらめきを試したが、求める結果を出すことができなかった。現在も、試作の最中です。何とかしなければ、何とかしなければという、焦りばかりで、やっていることは、また、同じことを繰り返しているような気がする。
 目的は一つだがそれができない、技術というより原料が原因としたいが、インドネシアでは、原料の責任にしたら、製品ができない。何とか、インドネシアで手に入る原料で製品を作り上げなければならないのが私に課せられた責任だから、逃げられない。それにしても、今回のような困難にぶつかったのはこの仕事をしていて初めてである。

 とはいっても、いつまでも出来ないのでは客先に迷惑を掛けるばかり、これならいけるだろうとおもわれる原料を送ってもらうことにした。太田化工へ頼んだ。彼らは、私が困ったときの究極の助け舟である。頼んだことや物は、彼らが手配てくれて、太田化工として送ってくれる。また、私が帰国するときに前もって、必要なものを手配してもらっておいて、こちらへ戻る時にハンドキャリーをする。これは、毎回である。ハンドキャリーをしなかったことは無い。原料はそういうわけにいかない、いつも、急ぎなのでエアーで送ってもらう。運賃が馬鹿にならないが、そんなことは言っていられない。
 といっても、その原料で製品ができても仕方が無いのです。出来ると言うことが証明されるだけで、その原料を使って量産を続ければ、原料価格と製品価格が同じになってしまいます。短期間だけ、緊急避難的に使うのです。それが、短期間で終わらせないと大変なことになってしまう。どこかの会社の社長さんの目暗判のようになってしまう。
それだけは避けなければならない。
 ルマーパンジャンの洗濯ものを干してる家の前の廊下の下です。貧弱さが分かる、この状態で新築から二百年も過ぎているとは全く思えない。ゴムの樹液の天日干しの風景。
 手伝い  空輸  頼り甲斐
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