エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

平林寺の紅葉

2016年11月20日 | ポエム
平林寺の紅葉が色づき始めた、という。
で、早速出かけてみたのだ。




色づき始め、どころでは無かった。
確かに全山が黄葉している訳ではないけれど、スポット的には見頃そのものだ。

この色づきは、その意味で半端ではない。
境内に入って、直ぐにある広場は適度な色合いであった。

それ以外では、鐘楼の周囲が素敵であった。



もう一カ所は、茅葺きの屋根を持つ堂宇が素敵であった。
寺院だから「伽藍」と云うべきか・・・。

茅葺きの屋根に投影された紅葉は、朽ちる事はなさそうであった。
けれど、朽ちると詠んだ。







「茅葺きの屋根に朽ちゆく照紅葉」







おしなべて、見頃と云っても可笑しくは無かった。
全山は、既に初冬でもあった。



色彩の魔術師、それは自然の営みである。




     荒 野人


初冬の湖

2016年11月19日 | ポエム
八ヶ岳の麓に、そっと潜んでいる湖がある。
「まるやち湖」である。



この水鏡には、八ヶ岳の全体が映り込む。
月が映り込み、さざ波が風景を揺らす。







「誰知らぬ清らかな湖冬初」






まるやち湖の畔には、慎ましくも心和む道祖神が静かに置いてある。



男女の睦まじい姿が刻まれている。
この場所から、信州・・・とりわけ安曇野あたりまではこの道祖神である。



信濃の冬の厳しさが、睦まじさを求めたのであろう。
人の温もりと伝える道祖神、である。



    荒 野人

カラマツの林に

2016年11月18日 | ポエム
かの斎藤秀雄師の作曲による。
あたかもシャンソンのように・・・。
あたかもカンツォーネのように朗々と。





テノール下村雅人さんの「落葉松」







この曲は、テノールが良く似合う。







「向かい合いからまつ落葉地を覆う」







かつてぼくはカラマツが大好きだった。その黄葉の見事さは秋の嚆矢である。
まして、風によって落ち続ける金色の細い葉はキラキラと美しい。

雨のように降る。
惜しみなく振る。

北原白秋も、このカラマツ落葉に魅入ったであろう。
詩心が、いたく刺激される風情である。




     荒 野人


冬バラ再び

2016年11月17日 | ポエム
冬薔薇・・・ふゆそうびを再び語ろう。
昨日の寒さの中で、冬薔薇が天を仰いだ。
空は、誠に妖しげであった。



バラの花弁は、少し汚れている。
神聖なバラの有様である。







「よこしまな空見上げいる冬薔薇」







邪な空。
ぼくは、香り立つバラ園の木の椅子に座った。



しばらくは、句作に励んだのであった。



もう一カ所のテーブルには、柚子が三つ。
蜜柑が二つ。
切り取られた断面は、新鮮であった。

其処から、生木の匂いが立ち上がった。



見上げる空は、冬の空。
邪な空であった。



白い薔薇は、どこまでも無垢であった。
冬薔薇は、いつまでも凛冽である。



     荒 野人

山眠らんとす

2016年11月16日 | ポエム
過日、南アルプスを遠望する温泉に入った。
周囲は、唐松黄葉が見頃であった。

樅の木だけが青々として、そのコントラストに見入ってしまった。
野天風呂は、豊かな湯量で身体を癒してくれた。
遠望すると、南アルプスはもう眠りに入ろうとしてる。



頂上に雪をいただいた勇姿は、正しく冬の佇まいであった。
麓から中腹にかけては、装う秋の名残があった。



街は、静謐に包まれている。
短い秋を惜しむかのように、煙っていたのであった。



視線を左に振ると、富士山が微かに見えた。
富士山は、確かに眠っていた。
従える甲府盆地は、あくまでも静かであった。







「明けもせず粛々と山眠らんとす」







帰途、双葉町のサービスエリアで富士山を眺めた。
富士山も、その従えられている山脈も冬に入らんとしていた。

短い秋は、冬の寒さを予感させつつ冬に入っている。
冬隣という季語が無かった、2016年の11月である。



     荒 野人