エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

桜紅葉

2016年11月15日 | ポエム
どの木も、見事に紅葉になる訳では無い。
殆どの木は、それほど見事では無いのだ。



綺麗な桜紅葉を見たければ、なるべく若い桜の木を探すのが良い。
紅葉した葉をしっかりと木に縫い止めている。



桜紅葉の例外もある。
そう・・・大木でも綺麗な場合があるのだ。

ぼくの知っている限りにおいては、新座にその字は存在する。
その木は、遠目でも余りにも鮮やかである。
武蔵野線の車内から、望見できる。



見つけたら、下車するしかない。
それほどその木は、見事である。
機会があったら、その気の全体をお見せしたいのだけれど・・・。
年を重ねた所為だろうか、足を延ばす事が億劫になってしまっている。







「桜紅葉齢の重さ計りおり」







この桜紅葉、見事に空と同化している。
だから、ぼくにとって好きな一枚になった。

赤い葉と青い空と、その織りなす綾は隙間の美学を見せてくれる。



    荒 野人

ピラカンサス

2016年11月11日 | ポエム
字数の都合も有るけれど、ピラカンサと五文字でも良い。
滅多矢鱈に重そうなピラカンサスもあるけれど、ぼくは少し隙々の方が好きだ。
秋天に、真っ赤な実を見るのは心弾む。



心弾む赤、である。
まるで、母の愛がこの世に現出したかのように思えるのだ。



この赤い実と、葉の青さそれに空の色のコンビが素敵である。
堪らなく、心弾むのだ。

今日はこれで、三回も心弾むと云いきった。
事実だから仕方がない。







「振り返る夫の蹴出しやピラカンサ」







君は、もうこのピラカンサを詠っただろうか。
パトスは、まだ燃え尽きていないだろうか。
褐色の憤怒を、赤い憤怒に変えられただろうか。

君の着物の蹴出しは、赤だろうか。
ピラカンサは、素知らぬ風に陽射しを返し続けている。

パトスは、揺るぎなく燃え滾っている。
而して、パトスは輪廻を繰り返すのだ。

嗚呼、ピラカンサの歌を詠おう。



     荒 野人

深落葉

2016年11月10日 | ポエム
深落葉・・・冬隣だからこそ感じ取れるのである。
落葉が吹き寄せられる。
径の端は、落葉の塒である。
昨日、東京は木枯らし1号が吹いた「風寒」であった。



径もそうだけれど、大樹の根元も落葉の褥である。
間もなく、冬本番となる。

今月七日の立冬以降、急激な寒さに見舞われている。
秋が誠に短いのだけれど、秋不可視を詠む前に冬に入ってしまった。







「踏みしだくといふ幼さ深落葉」







深落葉は、人の足首に優しい。
春先、人はバネをもって街に出るけれど・・・。
冬隣には、バネは不要である。

深落葉は、人を優しい気持ちにしてくれるのだ。
深落葉は、人を無条件で無邪気にしてくれるのである。



     荒 野人

石蕗の花

2016年11月09日 | ポエム
この花の黄色は、極めて普遍的に存在する。
その確乎とした、色合いに人は感動し安心するのである。



石蕗は、園はを艶やかに冬隣の陽射しに輝いている。
その様もまた、良い。
日陰にあったとしても、艶やかである。



この石蕗を食べた事はない。
艶やかすぎて、何か危険な匂いがするのである、

美しいものには「読」がある。
古来からの、民間伝承であるのだ。







「少し風すこしの光石蕗の花」







今が、見頃の終わり。
なるべく外を歩いて愛でて欲しい。



石蕗は、そうした愛情溢れる眼差しを待っている。
とりわけ、あなたの視線に触れたがっているのである。



既に、赤蜻蛉には充分楽しむ時間があった。



     荒 野人

山茱萸の実

2016年11月08日 | ポエム
山茱萸の赤い実。
光を返して、艶艶としている。

そのしたり顔が、とても良い。



山茱萸はの実は、韓国では強精に使う。
我が国では、漢方の生剤として使う。
その際、我が国でも「滋養強壮」の配剤である。



一粒が残っている枝もある。
一粒失敬して、口に含んでみた。
それほど、美味しい実ではない。







「艶つやと光を返す山茱萸の実」







この山茱萸の実、誰も摘む者はいない。
勿体ない、ではないか。

摘んで、焼酎にでも漬け込めば滋養強壮に効果がある筈なのである。
公園にある花卉だから、所有が定かではない。
公園の管理は、区がしている。

してみると、所有は区なのか。
区に断りを入れて、収穫するほどでもない。
眺めるに如くは無し、である。



     荒 野人