ここのところ、ディスプレイの見直しと整理を、ことあるごとにしています。
2日前に、壁に取り付けていた収納棚を3段から1段へ減らしたのですが、とうとう最後の1段も取り外しに成功しました!
最後の1段
壁に取り付ける収納棚と書いていますが「ウォールシェルフ」のことです。
ずっと、名前が思い出せなくて「壁収納」と書いていました。
恥ずかしいな、私(苦笑)
で、そのウォールシェルフのことですが、もともと画鋲で取り付ける簡易なモノだったので、本格的なモノよりは取り外しが楽なのですが、それでもディスプレイしている小物インテリアを取り除いて、シェルフも外して、となると、手間と時間は当然取られます。
が、しかし、昨日やっと、最後まで残していた1段も、取り外すことができました。
最初に取りかかった時点では、3段あったシェルフを全て取り払うことが最終目的だったのですが、ディスプレイを移動させたり処分したりしても、1段だけは処分できませんでした。
これは、まだディスプレイしているモノが多すぎるのだな、と感じていたので、2段分を処分した翌日も、ことあるごとにディスプレイの見直しを考えていました。
いろいろと考えているうちに、残していて別の棚に移動させていた小物を少し処分することにしました。
本当は、まだ好きだったのでそのまま飾っておきたかったのですが、あきらかにディスプレイが渋滞を起こしているので、どうしても飾っておきたいモノを、数個だけ選んで、他は一時的に紙袋へ入れて、視界から外してみました。
すぐに処分しなかったのは、まだ好きなモノばかりだったし、ディスプレイの工夫次第でどうにかなるのでは?という思いがあったから。
ところが、視界からなくなると、その存在を忘れていることに気が付きました。
これは、自分の中で処分の許可が下りたということ。
また、気持ちが揺れないうちに処分しなければ、と思い紙袋に入れていた小物は、全てごみ袋へ入れました。
別棚に残していた小物が少し減ったので、まずその別棚のディスプレイを見直し、なんとか目途が付いたので、壁に残した小物を移動させて、ようやくウォールシェルフ最後の1段を取り外し、ミッション完了です。
残した小物の今後
残した小物は、なんとかやりくりして、ノーセンスながらディスプレイされています。
これらも、思い切って処分出来る気持ちになれたら、一気に処分が進むのですが、まだその気持ちにはなれません。
ただ、何とか自分の中で落としどころを作って、私が元気なうちに、自分の手で処分したいので、その気持ちになれるまでは、自分との闘いですね。
ディスプレイしているモノほど使っていないモノはない
よくよく考えると、飾ってあるだけのモノは、まったく使っていない状態なので、なくても困らないモノです。
であるにもかかわらず、なぜ、ただ飾っておくだけのモノをいつまでも所有しているのでしょうね。
注意【ここより先、テレビ番組のネタバレあります】
昨日、テレビのバラエティ番組で、潔癖症芸人が住んでいる部屋が紹介されました。
詳細は割愛しますが、その潔癖症芸人の方は、とにかくきれい好きで、家に帰るとすぐに床の汚れをチェックして、気になるところがあると、すぐに掃除機をかけます。
来客にも、触ってほしくないところや、汚してほしくない場所がたくさんある潔癖症です。
そんな感じなので、番組のロケが企画されるまでは、客を招いたことがなかったとか。
その芸人の方は、潔癖症なだけではなく、部屋のインテリアの雰囲気やディスプレイにも、こだわりを持っていました。
インテリアの中でも、一番驚いたのは、部屋の目立つ場所にセンス良く置かれていたキャビネット。
見た目は、モデルハウスにあるような、おしゃれなウッドキャビネットです。
ところが、そのセンスの良いキャビネットは、中身が空っぽ。
思わず「え?」と声が出ました(笑)
芸人の方曰く、来客がある際に、センスがあるステキな部屋だと思ってもらいたいがために、置いてあるのだとか。
…いや、来客ないって、言ってたやん?使わんのやったら、要らなくない?(思わず方言飛び出す)
そうなんです。
この芸人の方、それこそ全く不要な収納を、部屋の見た目だけのために購入して飾ってあるだけなのです。
家具を、飾るためだけに買うって凄いな、と思わず声に出してしまいました。
見栄の象徴インテリア
しかし、よくよく考えると、飾るためだけの家具と、ディスプレイするだけの小物インテリア、大きさや価格が違うだけで、目的は同じ。
「見栄え」がよくて「センス」があって、なんなら「他人にいい評価をしてもらいたい」から、インテリアを飾っているような側面、絶対にありますよね?
ただ、家具は大きくて値段もそれなりに高いので、使わないと勿体ない、使わないなら買わなければいいのに、と思ってしまうだけで、小物インテリアにも同じことが言えます。
実際、部屋に招き入れた友人が、ディスプレイしてあるモノを見て「すごいね」「上手に飾ってるね」と言ってくれたとき、非常に気分がよかった記憶があります。
もちろん、好きだからいつでも眺めていたい、愛でていたい、という気持ちも上乗せされるのですが、それとは別に、やはり自分のセンスや趣味を評価してほしいという側面は、少なからずあるのだと思います。
ただ飾るだけのモノというのは、不特定多数の人たちを対象にした“見栄”の象徴なのかもしれません。
そう考えると、自室にディスプレイしている小物に対して、絶対的な愛着があるのかどうか疑わしくなってきて、もう一度自室のディスプレイを見直すきっかけになりました。
最後は本当に好きなモノだけが残るはず
多少の見栄があったとしても、好きな気持ちがないと、モノをディスプレイすることはありません。
ただ、本当に心の底から好きで、ずっと愛着を持っているモノと、ただなんとなくかっこいいから、センスがあるから、見栄えがいいから、といった感覚で飾ったモノとでは、自分の中での価値が違ってきます。
そこを見極めて、他人ではなく自分の評価基準で、ディスプレイしているモノの価値を判断できたら、不要なインテリアは処分できるようになると考えています。
評価を繰り返すうち、おそらく一番好きなモノ、一番大事にしたいと思えるモノを残すことになると思うのですが、今はまだ評価している途中といったところ。
ですから、モノがまだまだ処分できません(苦笑)
ただ、こうやってブログを書いて、自分の考えや気持ちを可視化していくと、少しずつ視野がクリアになってきて、処分すべきモノと、大切にすべきモノが、徐々に明確になってきました。
あともう少し、ディスプレイしている小物を処分できそうですので、頑張ってみたいと思います。
今回の記事を書いているうちに、JUDY AND MARYの『そばかす』という曲のワンフレーズが思い浮かびました。
思い出はいつもキレイだけど
それだけじゃ お腹がすくわ
曲が発信する全体のイメージは違いますが、このワンフレーズは、飾ってあるだけのモノに対しても言えることだと思いました。
ひとつひとつのモノには、きっといろいろな思い出や思慕が詰まっているのですが、それだけでは空腹は満たされない。
寂しい考え方だと捉える人もいるかもしれませんが、それが現実。
満たされた気持ちで暮らしていくには、現実と思い出のバランスが、重要なのかもしれませんね。
2日前に、壁に取り付けていた収納棚を3段から1段へ減らしたのですが、とうとう最後の1段も取り外しに成功しました!
最後の1段
壁に取り付ける収納棚と書いていますが「ウォールシェルフ」のことです。
ずっと、名前が思い出せなくて「壁収納」と書いていました。
恥ずかしいな、私(苦笑)
で、そのウォールシェルフのことですが、もともと画鋲で取り付ける簡易なモノだったので、本格的なモノよりは取り外しが楽なのですが、それでもディスプレイしている小物インテリアを取り除いて、シェルフも外して、となると、手間と時間は当然取られます。
が、しかし、昨日やっと、最後まで残していた1段も、取り外すことができました。
最初に取りかかった時点では、3段あったシェルフを全て取り払うことが最終目的だったのですが、ディスプレイを移動させたり処分したりしても、1段だけは処分できませんでした。
これは、まだディスプレイしているモノが多すぎるのだな、と感じていたので、2段分を処分した翌日も、ことあるごとにディスプレイの見直しを考えていました。
いろいろと考えているうちに、残していて別の棚に移動させていた小物を少し処分することにしました。
本当は、まだ好きだったのでそのまま飾っておきたかったのですが、あきらかにディスプレイが渋滞を起こしているので、どうしても飾っておきたいモノを、数個だけ選んで、他は一時的に紙袋へ入れて、視界から外してみました。
すぐに処分しなかったのは、まだ好きなモノばかりだったし、ディスプレイの工夫次第でどうにかなるのでは?という思いがあったから。
ところが、視界からなくなると、その存在を忘れていることに気が付きました。
これは、自分の中で処分の許可が下りたということ。
また、気持ちが揺れないうちに処分しなければ、と思い紙袋に入れていた小物は、全てごみ袋へ入れました。
別棚に残していた小物が少し減ったので、まずその別棚のディスプレイを見直し、なんとか目途が付いたので、壁に残した小物を移動させて、ようやくウォールシェルフ最後の1段を取り外し、ミッション完了です。
残した小物の今後
残した小物は、なんとかやりくりして、ノーセンスながらディスプレイされています。
これらも、思い切って処分出来る気持ちになれたら、一気に処分が進むのですが、まだその気持ちにはなれません。
ただ、何とか自分の中で落としどころを作って、私が元気なうちに、自分の手で処分したいので、その気持ちになれるまでは、自分との闘いですね。
ディスプレイしているモノほど使っていないモノはない
よくよく考えると、飾ってあるだけのモノは、まったく使っていない状態なので、なくても困らないモノです。
であるにもかかわらず、なぜ、ただ飾っておくだけのモノをいつまでも所有しているのでしょうね。
注意【ここより先、テレビ番組のネタバレあります】
昨日、テレビのバラエティ番組で、潔癖症芸人が住んでいる部屋が紹介されました。
詳細は割愛しますが、その潔癖症芸人の方は、とにかくきれい好きで、家に帰るとすぐに床の汚れをチェックして、気になるところがあると、すぐに掃除機をかけます。
来客にも、触ってほしくないところや、汚してほしくない場所がたくさんある潔癖症です。
そんな感じなので、番組のロケが企画されるまでは、客を招いたことがなかったとか。
その芸人の方は、潔癖症なだけではなく、部屋のインテリアの雰囲気やディスプレイにも、こだわりを持っていました。
インテリアの中でも、一番驚いたのは、部屋の目立つ場所にセンス良く置かれていたキャビネット。
見た目は、モデルハウスにあるような、おしゃれなウッドキャビネットです。
ところが、そのセンスの良いキャビネットは、中身が空っぽ。
思わず「え?」と声が出ました(笑)
芸人の方曰く、来客がある際に、センスがあるステキな部屋だと思ってもらいたいがために、置いてあるのだとか。
…いや、来客ないって、言ってたやん?使わんのやったら、要らなくない?(思わず方言飛び出す)
そうなんです。
この芸人の方、それこそ全く不要な収納を、部屋の見た目だけのために購入して飾ってあるだけなのです。
家具を、飾るためだけに買うって凄いな、と思わず声に出してしまいました。
見栄の象徴インテリア
しかし、よくよく考えると、飾るためだけの家具と、ディスプレイするだけの小物インテリア、大きさや価格が違うだけで、目的は同じ。
「見栄え」がよくて「センス」があって、なんなら「他人にいい評価をしてもらいたい」から、インテリアを飾っているような側面、絶対にありますよね?
ただ、家具は大きくて値段もそれなりに高いので、使わないと勿体ない、使わないなら買わなければいいのに、と思ってしまうだけで、小物インテリアにも同じことが言えます。
実際、部屋に招き入れた友人が、ディスプレイしてあるモノを見て「すごいね」「上手に飾ってるね」と言ってくれたとき、非常に気分がよかった記憶があります。
もちろん、好きだからいつでも眺めていたい、愛でていたい、という気持ちも上乗せされるのですが、それとは別に、やはり自分のセンスや趣味を評価してほしいという側面は、少なからずあるのだと思います。
ただ飾るだけのモノというのは、不特定多数の人たちを対象にした“見栄”の象徴なのかもしれません。
そう考えると、自室にディスプレイしている小物に対して、絶対的な愛着があるのかどうか疑わしくなってきて、もう一度自室のディスプレイを見直すきっかけになりました。
最後は本当に好きなモノだけが残るはず
多少の見栄があったとしても、好きな気持ちがないと、モノをディスプレイすることはありません。
ただ、本当に心の底から好きで、ずっと愛着を持っているモノと、ただなんとなくかっこいいから、センスがあるから、見栄えがいいから、といった感覚で飾ったモノとでは、自分の中での価値が違ってきます。
そこを見極めて、他人ではなく自分の評価基準で、ディスプレイしているモノの価値を判断できたら、不要なインテリアは処分できるようになると考えています。
評価を繰り返すうち、おそらく一番好きなモノ、一番大事にしたいと思えるモノを残すことになると思うのですが、今はまだ評価している途中といったところ。
ですから、モノがまだまだ処分できません(苦笑)
ただ、こうやってブログを書いて、自分の考えや気持ちを可視化していくと、少しずつ視野がクリアになってきて、処分すべきモノと、大切にすべきモノが、徐々に明確になってきました。
あともう少し、ディスプレイしている小物を処分できそうですので、頑張ってみたいと思います。
今回の記事を書いているうちに、JUDY AND MARYの『そばかす』という曲のワンフレーズが思い浮かびました。
思い出はいつもキレイだけど
それだけじゃ お腹がすくわ
曲が発信する全体のイメージは違いますが、このワンフレーズは、飾ってあるだけのモノに対しても言えることだと思いました。
ひとつひとつのモノには、きっといろいろな思い出や思慕が詰まっているのですが、それだけでは空腹は満たされない。
寂しい考え方だと捉える人もいるかもしれませんが、それが現実。
満たされた気持ちで暮らしていくには、現実と思い出のバランスが、重要なのかもしれませんね。