一見、何の関連性もないタイトルですが、はい、関係ありません(笑)
今回は、処分したモノの話と承認欲求の話の2本立てで、綴っていきます。
あ、でも、少しだけつながりがある話になるかも?
壊れたごみ箱
洗面所で使っていたごみ箱。
手が濡れることもあり、足でレバーを踏んで開閉するフタ付きを使っていたのですが、レバーの接着部分がブレイクしてしまいました。
フタの開閉は、まだ何とか出来るのですが、完全にブレイクするのも時間の問題なので、その前に処分することにしました。
それに、足で踏む部分なので、完全にブレイクすると、足を怪我しかねませんしね。
そのごみ箱の存在について
このごみ箱のデザイン、シンプルではあるのですが、柔らかい感じのクリーム色で、ロゴもシンプルに入っている、例えばナチュラルテイストもしくはカントリー調インテリアを好むような方が持っていそうなモノでした。
一時期、私もナチュラルテイストやカントリーテイストにあこがれた時期があり、そのころに購入しましたが、すべてをそのテイストにするには、あまりにもかけ離れていた自分の性格。
加えて、家族と住んでいると、自分が目指すテイストにできない場所も家の中に存在するので、結局モノだけにしかテイストを加えられず、憧れのテイストにすることはやめました(笑)
最終的には、そのごみ箱だけが、やけに浮いていた印象になってしまっていて、ずっとモヤモヤした気持ちではあったのです。
また、ごみ箱にポリ袋をセットするのにも、少し手間を感じていました。
足で踏んで開閉するタイプのフタは、開けっ放しにしておくことができないのですよね。
ですから、まず中箱(?)を取り出して、ポリ袋をセットして、また戻すときに、フタを再度開けて、なおかつ、そのフタは片手で抑えてセットするという、非効率的な手順が必要とされていたわけです。
しかも、サイズ的にも中途半端で、スーパーのサッカー台(買ったモノを整理する台)にあるポリ袋では小さい。
レジ袋を無料でもらえていたころは、このごみ箱に合うサイズのレジ袋が手に入ったのですが、マイバッグを利用するようになってからは、その大きさのポリ袋も手に入らなくなって、ますますモヤモヤしていました。
そんな、モヤモヤした気持ちがごみ箱に伝わってしまったのでしょうか?
ついに、ブレイク寸前の状態になってしまいましたが、本音を言うとホッとしました。
やっと、ブレイクしてくれるのか、と(苦笑)
こういうときって、ごみ袋へ入れる瞬間が楽しかったりするのですよね。
ちなみに、我が自治体では、指定袋へ入る大きさであれば、素材に関係なく家庭ごみになります。
今後、洗面所にごみ箱を置くのか問題
処分して、ひと晩が立ち、現在洗面所にはごみ箱がないので少しだけ不便を感じていますが、ごみ箱がなくなった洗面所の床は、スッキリしていて、気持ちがいいです。
掃除も、しやすそう(笑)
今後は、モノを増やしたくないこともあるので、洗面所にごみ箱は置かないつもりでいます。
ただ、ごみを捨てる入れ物は必要なので、どうしようか悩んでいます。
ポリ袋を無造作に置いておくか、家の中にある入れ物をごみ箱として利用するか。
ただ、床になにかを置くことはしたくないので、ポリ袋を置くにしても、どこかに引っ掛けて吊るす方法がいいような気がしています。
たしか、クリップ式の吊り下げフックが、無印良品で売られていますよね。
100円ショップにも、似たようなモノがあるかもしれませんし、検討してみます。
現在の我が家のごみ箱事情
これで、ごみ箱を設置している部屋は、母が使う部屋とキッチンだけになりました。
私の部屋には、ごみ箱は置いていなくて、指定のごみ袋をぶら下げています。
理由は、自室の不要品をダイレクトにごみ袋に入れて、収集日に搬出したいから。
ごみ箱にセットしておくと、効率が悪いんですよね。
袋だけであれば、持ち歩きながら不要品を入れやすいので、この形でしばらくは落ち着くと思います。
こうして考えると、ごみ箱が便利に使える場所って、キッチンだけなのかな、と思えてきました。
キッチンの場合は、生ごみが出るので、フタ付きのごみ箱があるとありがたいですが、普通の部屋はポリ袋を用意しておいて、満杯になったらキッチンのごみ箱へ捨てて、新しいポリ袋を用意したらいいのではないかな、と思っています。
もちろん、そのポリ袋はどこかに吊り下げて、床には置きません。
これまで、各部屋に1つずつのごみ箱が必要だと思い込んでいましたが、なくしてみたら案外大丈夫なのですよね。
これも、思い込みと身に染みた習慣のひとつで、なかなかやめることができなかったことでした。
承認欲求の話
ごみ箱の話は、ここまでにして、次は承認欲求の話です。
実は、自分の性格、暮らし方、家族(母)との関係性など、悩んでいる部分がたくさんあるのですが、ふと、自分の承認欲求が引き起こしている悩みなのではないか、と思えてきて、そのことについてぼんやりと考えていました。
そんな時に、日々のルーティンになっている動画視聴をして気を紛らわそうとしたところ、おすすめ動画のひとつに、まさに承認欲求に関するモノが表示されたのです。
正直、びっくりしました(笑)
このパソコン、いやサーバーかな?それとも、4G電波?
いずれにせよ、私の今の気持ちを読み取るのかよ、と(笑)
まあ、本当に単なる偶然なのですが、こういうのを、引き寄せというのかもしれませんね。
さて、その表示されたおすすめ動画は、15分程度の長さでアドラーの著書『嫌われる勇気』の内容の一部を紹介したモノです。
そのチョイスされた一部が、承認欲求に関する部分だったのですが、なるほど!と思えることばかりでした(苦笑)
動画の内容もアドラーの著書の内容も、ここでは説明しませんが、自分がぼんやりと考えていたことと重なる部分があったので、そのことを綴っていきますね。
否定されているような気がすること
日々、暮らしていると、何かを我慢して頑張ってしまうことって、結構あるのですが、そのことを否定されているような気がする言動や行動を目の当たりにすると、イライラするし、悔しいしい、悲しいし、怒りになることもあります。
今の私で言うと、母へのフォローに対して、母の取る態度や言動に、そういったことを感じることが多いです。
また、以前は職場での人間関係で、そういった感情を抱くことが、多々ありました。
昨日も、実を言うと母の行動に対して腹が立ち、声を荒げてしまいました。
今も、怒りは収まっていないのですが、反面冷静な自分も存在していて、これは母に自分の行動を受け入れてもらいたいとか、認めてもらいたいとか、素直に従ってほしいとか、そういった承認欲求なのかな、と考えていました。
こういった考えや感情は、捨ててしまうとスッキリするだろうな、と頭ではわかるのですが、日々の暮らしの中では意識することが難しい。
まあ、生きてきたほとんどの時間は、そんなことを意識せずに過ごしてきたし、承認欲求という言葉そのものを知ったのも、つい最近という感覚なので、仕方ないと言えば仕方ないのですが。
この承認欲求、自分の行動や言動に対して「でも」「だが」「しかし」などと前置きされて、改めるように言われたり、間違いだったと指摘されたり、わかりやすい否定の表現をされたときに、発動していたことに気が付きます。
今、急に思い出したのですが、私は大学時代に教職課程を取っていたので、教育実習へ行きました。
実習中には査定授業があり、その日の放課後に講評会が開かれました。
その際、忘れもしないのですが、教頭から「声が生徒に向かって発せられていない。後ろにいる私たち(先生方)に授業をしているように聞こえる。もっと生徒に届くような声の出し方がベスト」と講評されました。
もう少し補足すると、私の声が、一番後ろにいる先生方に鮮明に聞こえていて、生徒の頭の上を通り過ぎている、ということらしいのです。
しかしですね、私、もともと地声がかなり大きい(らしい)のです。
それは、小学生のころから言われていて、そのためにやりたくもない学芸会の主役候補にされたり、学生時代には弁論大会に出ろと言われたりしたのですが、正直自分では普通に話をしているだけなので、人よりも声が大きいなどと思いながら、生活していないのですよね。
にもかかわらず、もっと生徒に聞き取りやすい音量の声を出せ、というニュアンスで言われて、これ、私の個性を全面的に否定されている感じが、否めなかったのですが、そのあとに講評してくださった先生がひとこと、
「あなたの声は、よく通るから遠くの人にも聞こえやすい。生徒にも聞きやすい発声だから、教頭の言うことは気にしなくていいですよ」と。
その言葉で、ホッとしたのと同時に、私の個性を認めてくださる講評に、承認欲求が満たされた感じがしました。
今考えたら、この先生は教頭の言葉を全否定しているので、教頭の承認欲求は満たされなかっただろうな、と思いました(苦笑)
このころ、私はまだ大学生だったので、上手くかわす術も知らないし、人から言われたことに対して、ただ頷くことしかできないような若輩者でしたが、もし、承認欲求がなければ、教頭の言葉に対して、どうでもいいと思えていたでしょう。
動画を見たあと腑に落ちたこと
今までの暮らしの中で、他者の自己中心的な考えや行動に対して、嫌悪感を抱いたり、なんとなくイライラすることがありました。
それは、自分の承認欲求が強いからなのかな、と、動画を見ていて感じました。
例えば、私がいつも検索する片付け動画ですが、汚部屋が片付く前の状態を見ると、赤の他人の、しかも動画の中のことなのに、何故この人はこんなにごみを溜め込むのか、どうしてキッチンを衛生的に保てないのか、などとイライラするときがあります。
家主が立ち会って、あれやこれやと言い訳していると、なおさらイライラすることもあります。
これは、おそらくその家主の自分勝手な考え方や行動に対して抱いているのですが、私の承認欲求が満たされていない状態のときに見ると、その感情が増殖しているのではないか、と思います。
つまり、人への迷惑など考えていない、自分がいいと思えばそれでいい、という思考に対して、うらやましくて嫉妬を感じているのかもしれない、ということですね。
もし、自分の承認欲求が最小限だったら、他人が汚部屋に住んでいようが、自分勝手に行動していようが、
「ああ、こういう人もいるよね」
という感情だけで終われるはずです。
しかし、自分が家の中を片付けたり、不要品を捨ててスッキリさせたりという頑張りに対して、何の努力もせずに他者(業者やコンサルタント)に片付けを委ねている汚部屋住人を見ると、片付けに対する承認欲求を間接的に否定されているような気がして、イライラするのかな、と。
しかし、そんなことばかり考えていたら、自分がただ残念な気持ちになるだけだし、本当に他人のことなどどうでもいいことなのですよね。
変な例えかもしれませんが、有名人で自分が好きだったタレントや俳優が亡くなると、身内でもないけど悲しくなって、時には涙も出たりしますが、知らない人が亡くなっても「ああ、誰かが亡くなったのか」という淡々とした気持ちしか湧いてきませんよね。
日ごろのスタンスも、それくらい淡々としている方が、自分の心の疲労が少なくて済むはずなのに、承認欲求が強いがために、自分で自分の気持ちを振り回していることがあるので、できることなら余計な承認欲求は、なくしてしまいたいです。
モノを持つことも承認欲求のひとつ
ここで、やっと承認欲求とごみ箱の話がリンクします(笑)
私が今回処分したごみ箱ですが、8割方見た目で選んでいて、機能性に関しては、購入時に考えていなかった要素です。
本来は、機能性を重視すべきだったはずなのですが、そのころは、自分の部屋や家の中をナチュラルテイストに変更したいという気持ちがあり、買い替えるインテリアや小物から、そういうテイストを入れるようになっていました。
ところが、自分はどうもナチュラルテイストやカントリー調が苦手というか、センスがないことに気が付くと、徐々に同じテイストでモノを買い集めることに飽きてきました、
結局、中途半端にナチュラルだったりカントリーだったりするインテリアや小物が残ってしまい、今はシンプルでモノが少ない状態で効率的に暮らしたいという自分の希望には、少し合わないテイストとなってしまいました。
(ナチュラルテイストでシンプルに暮らす人もいますが、それはセンスがあるからだと思っています)
今思えば、これもムダな買い物のひとつですが、なぜ、自分には合わないテイストを、暮らしの中に取り入れようとしたのか、なぜ、そのテイストを選んだのか、を考えると、これも承認欲求を満たすためたっだと気が付きました。
日本で、ナチュラルライフやカントリーが流行り出したころ、それに特化した雑誌の特集が組まれたり、専門雑誌や専門書籍が発刊されたりしました。
雑誌や書籍に掲載される写真は、どれもステキで憧れを抱きます。
そして、自分もこんな部屋や家に住んだら、きっと毎日が楽しくて幸せな気持ちになれそうだ、という勘違いを引き起こします(笑)
そうなんですよね。
勘違いなのですよ(苦笑)
そもそも、手抜きと時短と効率化が好きなのに、憧れたのがメンテナンスが面倒なナチュラルテイストやカントリー調だなんて、今思えば、私には無理なライフスタイルなのですよ。
そうであるにもかかわらず、ナチュラルテイストを取り入れようとしてしまったのは、勘違いと見栄。
流行りの暮らしにしたら、お客様を招いたときに、ほめてもらえる、称賛してもらえる、憧れてもらえるなど、そんな邪な感情、つまり承認欲求があったからです。
もし、心の底からナチュラルテイストやカントリー調を取り入れた暮らしを望んでいたのなら、ナチュラルテイストやカントリー調の洒落たカフェに入って、ソワソワしたりするはずがありません。
私は、お洒落なカフェでゆっくりくつろぐことが苦手です。
お洒落な店内で、お洒落な写真を撮り、ドラマや映画で見るような風景を再現してみる、なんてことには程遠くて、出てきた食事やドリンクを味わうことに集中して、そのあとは落ち着かないから、さっさと会計を済ませて出ていきます。
何度か、時間調整のために長居をしたことはありますが、早くに食事が終わってしまわないように、自分の暮らしの中で一番遅いペースで食事をするくらい、カフェでの過ごし方が下手くそです(苦笑)
こんな私が、ナチュラルテイストの家に住んで、毎日を落ち着いて暮らすことができるか、甚だ疑問ですよ(笑)
結局、身の丈に合っていないライフスタイルを作ろうとしたから、途中でデメリットばかりが目立ってくるし、未完成のままモノだけが残ってしまっていたのです。
今は、もう他人軸は気にしないと決めたので、自分に合わない行動はきっぱりやめて、心地よさを追求する暮らしを心がけています。
その心地よさの一部が、手抜き、時短、効率化で、これは誰にも認めてもらわなくていいです。
私が、楽しい、幸せだ、と思える基準を満たす要件なだけですから(笑)
今回、また文章がダラダラと長くなってしまいました。
ごみ箱を処分した話と、承認欲求の話。
一見、なんのつながりもありませんし、つなげるつもりもありませんでしたが、すべての行動や所有物は、少なからず承認欲求に繋がっているのかもしれない、という気付きにもなりました。
これからは、母に対しても他の人に対しても、承認欲求をせず、自分軸が主張できる暮らしであるように、過ごしていきたいですね。
今回は、処分したモノの話と承認欲求の話の2本立てで、綴っていきます。
あ、でも、少しだけつながりがある話になるかも?
壊れたごみ箱
洗面所で使っていたごみ箱。
手が濡れることもあり、足でレバーを踏んで開閉するフタ付きを使っていたのですが、レバーの接着部分がブレイクしてしまいました。
フタの開閉は、まだ何とか出来るのですが、完全にブレイクするのも時間の問題なので、その前に処分することにしました。
それに、足で踏む部分なので、完全にブレイクすると、足を怪我しかねませんしね。
そのごみ箱の存在について
このごみ箱のデザイン、シンプルではあるのですが、柔らかい感じのクリーム色で、ロゴもシンプルに入っている、例えばナチュラルテイストもしくはカントリー調インテリアを好むような方が持っていそうなモノでした。
一時期、私もナチュラルテイストやカントリーテイストにあこがれた時期があり、そのころに購入しましたが、すべてをそのテイストにするには、あまりにもかけ離れていた自分の性格。
加えて、家族と住んでいると、自分が目指すテイストにできない場所も家の中に存在するので、結局モノだけにしかテイストを加えられず、憧れのテイストにすることはやめました(笑)
最終的には、そのごみ箱だけが、やけに浮いていた印象になってしまっていて、ずっとモヤモヤした気持ちではあったのです。
また、ごみ箱にポリ袋をセットするのにも、少し手間を感じていました。
足で踏んで開閉するタイプのフタは、開けっ放しにしておくことができないのですよね。
ですから、まず中箱(?)を取り出して、ポリ袋をセットして、また戻すときに、フタを再度開けて、なおかつ、そのフタは片手で抑えてセットするという、非効率的な手順が必要とされていたわけです。
しかも、サイズ的にも中途半端で、スーパーのサッカー台(買ったモノを整理する台)にあるポリ袋では小さい。
レジ袋を無料でもらえていたころは、このごみ箱に合うサイズのレジ袋が手に入ったのですが、マイバッグを利用するようになってからは、その大きさのポリ袋も手に入らなくなって、ますますモヤモヤしていました。
そんな、モヤモヤした気持ちがごみ箱に伝わってしまったのでしょうか?
ついに、ブレイク寸前の状態になってしまいましたが、本音を言うとホッとしました。
やっと、ブレイクしてくれるのか、と(苦笑)
こういうときって、ごみ袋へ入れる瞬間が楽しかったりするのですよね。
ちなみに、我が自治体では、指定袋へ入る大きさであれば、素材に関係なく家庭ごみになります。
今後、洗面所にごみ箱を置くのか問題
処分して、ひと晩が立ち、現在洗面所にはごみ箱がないので少しだけ不便を感じていますが、ごみ箱がなくなった洗面所の床は、スッキリしていて、気持ちがいいです。
掃除も、しやすそう(笑)
今後は、モノを増やしたくないこともあるので、洗面所にごみ箱は置かないつもりでいます。
ただ、ごみを捨てる入れ物は必要なので、どうしようか悩んでいます。
ポリ袋を無造作に置いておくか、家の中にある入れ物をごみ箱として利用するか。
ただ、床になにかを置くことはしたくないので、ポリ袋を置くにしても、どこかに引っ掛けて吊るす方法がいいような気がしています。
たしか、クリップ式の吊り下げフックが、無印良品で売られていますよね。
100円ショップにも、似たようなモノがあるかもしれませんし、検討してみます。
現在の我が家のごみ箱事情
これで、ごみ箱を設置している部屋は、母が使う部屋とキッチンだけになりました。
私の部屋には、ごみ箱は置いていなくて、指定のごみ袋をぶら下げています。
理由は、自室の不要品をダイレクトにごみ袋に入れて、収集日に搬出したいから。
ごみ箱にセットしておくと、効率が悪いんですよね。
袋だけであれば、持ち歩きながら不要品を入れやすいので、この形でしばらくは落ち着くと思います。
こうして考えると、ごみ箱が便利に使える場所って、キッチンだけなのかな、と思えてきました。
キッチンの場合は、生ごみが出るので、フタ付きのごみ箱があるとありがたいですが、普通の部屋はポリ袋を用意しておいて、満杯になったらキッチンのごみ箱へ捨てて、新しいポリ袋を用意したらいいのではないかな、と思っています。
もちろん、そのポリ袋はどこかに吊り下げて、床には置きません。
これまで、各部屋に1つずつのごみ箱が必要だと思い込んでいましたが、なくしてみたら案外大丈夫なのですよね。
これも、思い込みと身に染みた習慣のひとつで、なかなかやめることができなかったことでした。
承認欲求の話
ごみ箱の話は、ここまでにして、次は承認欲求の話です。
実は、自分の性格、暮らし方、家族(母)との関係性など、悩んでいる部分がたくさんあるのですが、ふと、自分の承認欲求が引き起こしている悩みなのではないか、と思えてきて、そのことについてぼんやりと考えていました。
そんな時に、日々のルーティンになっている動画視聴をして気を紛らわそうとしたところ、おすすめ動画のひとつに、まさに承認欲求に関するモノが表示されたのです。
正直、びっくりしました(笑)
このパソコン、いやサーバーかな?それとも、4G電波?
いずれにせよ、私の今の気持ちを読み取るのかよ、と(笑)
まあ、本当に単なる偶然なのですが、こういうのを、引き寄せというのかもしれませんね。
さて、その表示されたおすすめ動画は、15分程度の長さでアドラーの著書『嫌われる勇気』の内容の一部を紹介したモノです。
そのチョイスされた一部が、承認欲求に関する部分だったのですが、なるほど!と思えることばかりでした(苦笑)
動画の内容もアドラーの著書の内容も、ここでは説明しませんが、自分がぼんやりと考えていたことと重なる部分があったので、そのことを綴っていきますね。
否定されているような気がすること
日々、暮らしていると、何かを我慢して頑張ってしまうことって、結構あるのですが、そのことを否定されているような気がする言動や行動を目の当たりにすると、イライラするし、悔しいしい、悲しいし、怒りになることもあります。
今の私で言うと、母へのフォローに対して、母の取る態度や言動に、そういったことを感じることが多いです。
また、以前は職場での人間関係で、そういった感情を抱くことが、多々ありました。
昨日も、実を言うと母の行動に対して腹が立ち、声を荒げてしまいました。
今も、怒りは収まっていないのですが、反面冷静な自分も存在していて、これは母に自分の行動を受け入れてもらいたいとか、認めてもらいたいとか、素直に従ってほしいとか、そういった承認欲求なのかな、と考えていました。
こういった考えや感情は、捨ててしまうとスッキリするだろうな、と頭ではわかるのですが、日々の暮らしの中では意識することが難しい。
まあ、生きてきたほとんどの時間は、そんなことを意識せずに過ごしてきたし、承認欲求という言葉そのものを知ったのも、つい最近という感覚なので、仕方ないと言えば仕方ないのですが。
この承認欲求、自分の行動や言動に対して「でも」「だが」「しかし」などと前置きされて、改めるように言われたり、間違いだったと指摘されたり、わかりやすい否定の表現をされたときに、発動していたことに気が付きます。
今、急に思い出したのですが、私は大学時代に教職課程を取っていたので、教育実習へ行きました。
実習中には査定授業があり、その日の放課後に講評会が開かれました。
その際、忘れもしないのですが、教頭から「声が生徒に向かって発せられていない。後ろにいる私たち(先生方)に授業をしているように聞こえる。もっと生徒に届くような声の出し方がベスト」と講評されました。
もう少し補足すると、私の声が、一番後ろにいる先生方に鮮明に聞こえていて、生徒の頭の上を通り過ぎている、ということらしいのです。
しかしですね、私、もともと地声がかなり大きい(らしい)のです。
それは、小学生のころから言われていて、そのためにやりたくもない学芸会の主役候補にされたり、学生時代には弁論大会に出ろと言われたりしたのですが、正直自分では普通に話をしているだけなので、人よりも声が大きいなどと思いながら、生活していないのですよね。
にもかかわらず、もっと生徒に聞き取りやすい音量の声を出せ、というニュアンスで言われて、これ、私の個性を全面的に否定されている感じが、否めなかったのですが、そのあとに講評してくださった先生がひとこと、
「あなたの声は、よく通るから遠くの人にも聞こえやすい。生徒にも聞きやすい発声だから、教頭の言うことは気にしなくていいですよ」と。
その言葉で、ホッとしたのと同時に、私の個性を認めてくださる講評に、承認欲求が満たされた感じがしました。
今考えたら、この先生は教頭の言葉を全否定しているので、教頭の承認欲求は満たされなかっただろうな、と思いました(苦笑)
このころ、私はまだ大学生だったので、上手くかわす術も知らないし、人から言われたことに対して、ただ頷くことしかできないような若輩者でしたが、もし、承認欲求がなければ、教頭の言葉に対して、どうでもいいと思えていたでしょう。
動画を見たあと腑に落ちたこと
今までの暮らしの中で、他者の自己中心的な考えや行動に対して、嫌悪感を抱いたり、なんとなくイライラすることがありました。
それは、自分の承認欲求が強いからなのかな、と、動画を見ていて感じました。
例えば、私がいつも検索する片付け動画ですが、汚部屋が片付く前の状態を見ると、赤の他人の、しかも動画の中のことなのに、何故この人はこんなにごみを溜め込むのか、どうしてキッチンを衛生的に保てないのか、などとイライラするときがあります。
家主が立ち会って、あれやこれやと言い訳していると、なおさらイライラすることもあります。
これは、おそらくその家主の自分勝手な考え方や行動に対して抱いているのですが、私の承認欲求が満たされていない状態のときに見ると、その感情が増殖しているのではないか、と思います。
つまり、人への迷惑など考えていない、自分がいいと思えばそれでいい、という思考に対して、うらやましくて嫉妬を感じているのかもしれない、ということですね。
もし、自分の承認欲求が最小限だったら、他人が汚部屋に住んでいようが、自分勝手に行動していようが、
「ああ、こういう人もいるよね」
という感情だけで終われるはずです。
しかし、自分が家の中を片付けたり、不要品を捨ててスッキリさせたりという頑張りに対して、何の努力もせずに他者(業者やコンサルタント)に片付けを委ねている汚部屋住人を見ると、片付けに対する承認欲求を間接的に否定されているような気がして、イライラするのかな、と。
しかし、そんなことばかり考えていたら、自分がただ残念な気持ちになるだけだし、本当に他人のことなどどうでもいいことなのですよね。
変な例えかもしれませんが、有名人で自分が好きだったタレントや俳優が亡くなると、身内でもないけど悲しくなって、時には涙も出たりしますが、知らない人が亡くなっても「ああ、誰かが亡くなったのか」という淡々とした気持ちしか湧いてきませんよね。
日ごろのスタンスも、それくらい淡々としている方が、自分の心の疲労が少なくて済むはずなのに、承認欲求が強いがために、自分で自分の気持ちを振り回していることがあるので、できることなら余計な承認欲求は、なくしてしまいたいです。
モノを持つことも承認欲求のひとつ
ここで、やっと承認欲求とごみ箱の話がリンクします(笑)
私が今回処分したごみ箱ですが、8割方見た目で選んでいて、機能性に関しては、購入時に考えていなかった要素です。
本来は、機能性を重視すべきだったはずなのですが、そのころは、自分の部屋や家の中をナチュラルテイストに変更したいという気持ちがあり、買い替えるインテリアや小物から、そういうテイストを入れるようになっていました。
ところが、自分はどうもナチュラルテイストやカントリー調が苦手というか、センスがないことに気が付くと、徐々に同じテイストでモノを買い集めることに飽きてきました、
結局、中途半端にナチュラルだったりカントリーだったりするインテリアや小物が残ってしまい、今はシンプルでモノが少ない状態で効率的に暮らしたいという自分の希望には、少し合わないテイストとなってしまいました。
(ナチュラルテイストでシンプルに暮らす人もいますが、それはセンスがあるからだと思っています)
今思えば、これもムダな買い物のひとつですが、なぜ、自分には合わないテイストを、暮らしの中に取り入れようとしたのか、なぜ、そのテイストを選んだのか、を考えると、これも承認欲求を満たすためたっだと気が付きました。
日本で、ナチュラルライフやカントリーが流行り出したころ、それに特化した雑誌の特集が組まれたり、専門雑誌や専門書籍が発刊されたりしました。
雑誌や書籍に掲載される写真は、どれもステキで憧れを抱きます。
そして、自分もこんな部屋や家に住んだら、きっと毎日が楽しくて幸せな気持ちになれそうだ、という勘違いを引き起こします(笑)
そうなんですよね。
勘違いなのですよ(苦笑)
そもそも、手抜きと時短と効率化が好きなのに、憧れたのがメンテナンスが面倒なナチュラルテイストやカントリー調だなんて、今思えば、私には無理なライフスタイルなのですよ。
そうであるにもかかわらず、ナチュラルテイストを取り入れようとしてしまったのは、勘違いと見栄。
流行りの暮らしにしたら、お客様を招いたときに、ほめてもらえる、称賛してもらえる、憧れてもらえるなど、そんな邪な感情、つまり承認欲求があったからです。
もし、心の底からナチュラルテイストやカントリー調を取り入れた暮らしを望んでいたのなら、ナチュラルテイストやカントリー調の洒落たカフェに入って、ソワソワしたりするはずがありません。
私は、お洒落なカフェでゆっくりくつろぐことが苦手です。
お洒落な店内で、お洒落な写真を撮り、ドラマや映画で見るような風景を再現してみる、なんてことには程遠くて、出てきた食事やドリンクを味わうことに集中して、そのあとは落ち着かないから、さっさと会計を済ませて出ていきます。
何度か、時間調整のために長居をしたことはありますが、早くに食事が終わってしまわないように、自分の暮らしの中で一番遅いペースで食事をするくらい、カフェでの過ごし方が下手くそです(苦笑)
こんな私が、ナチュラルテイストの家に住んで、毎日を落ち着いて暮らすことができるか、甚だ疑問ですよ(笑)
結局、身の丈に合っていないライフスタイルを作ろうとしたから、途中でデメリットばかりが目立ってくるし、未完成のままモノだけが残ってしまっていたのです。
今は、もう他人軸は気にしないと決めたので、自分に合わない行動はきっぱりやめて、心地よさを追求する暮らしを心がけています。
その心地よさの一部が、手抜き、時短、効率化で、これは誰にも認めてもらわなくていいです。
私が、楽しい、幸せだ、と思える基準を満たす要件なだけですから(笑)
今回、また文章がダラダラと長くなってしまいました。
ごみ箱を処分した話と、承認欲求の話。
一見、なんのつながりもありませんし、つなげるつもりもありませんでしたが、すべての行動や所有物は、少なからず承認欲求に繋がっているのかもしれない、という気付きにもなりました。
これからは、母に対しても他の人に対しても、承認欲求をせず、自分軸が主張できる暮らしであるように、過ごしていきたいですね。