また「ハリ-ポッターと炎のゴブレット」の話になるけど、この映画の原作は上下2巻もののかなり長いストーリーだった。しかしながら、それを2時間30分ぐらいにまとめあげて、そしてしっかり繋げあわせて見事な作品にした監督及び脚本家には拍手だ。
原作を読んでいると、「この人物は重要じゃない?」「このエピソードも」ってな具合にいっぱい大事そうな登場人物やらエピソードが盛り込まれている。それを見事にすぱっと切って捨ててしまう度胸にほんと「すばらしい」というしかない。
何を伝えたいか。この映画で何を一番大事に思うのか。
それは撮った監督あるいは書いたシナリオライターによって違ってくるだろう。
だからこそ、映画っておもしろいんだと思う。原作があるものはそれを脚色するライターによって雰囲気は異なるし、さらにその脚本を使って映画を撮る監督の感性によっても違ってくる。
たとえば、1つの同じ脚本を3人の監督に撮らせて、同時上映したらおもしろいだろうな。
何をセレクトし、何を切るか。
これは音楽にも言えることなんだろう。歌詞を考える時に作詞家たちはまず、思いを綴り、それを少しづつ削って、メロディにあい、しかも何を伝えたいかをより明確にするべく、言葉をカットしていく。一つのフレーズを際立たせるために多くをカットしなければならないこともあり、「あの言葉いれたかったな~」と思っていても、それをずばっと切り捨てる潔さが必要なこともあるだろう。
でも、切り捨てられた言葉だって、またどこかで復活して、その主役になることも可能なんだよね。
写真なんかもそう。旅行なんかにいくと、ついつい欲張って景色も人もいっしょに取り込みたいと思う人いるでしょ?私も昔はそういうこともあった。でも、そんな風に撮った写真は人物は小さいし、なんか景色も何を一番撮りたかったのかわからない、しまりのない写真になることが多い。
私はそういう写真はあまり好きじゃない。ってことに気付いて、それ以来、何を撮りたいかをいつも考えて撮るようにしている。たくさん人がいても、あの人のあの表情を撮りたいと思ったら、その人にクローズアップ。よそ見していようが、一瞬いい表情が見れれば、それを撮る。別にカメラ目線でなくてもいいんだから。景色も皆がそこの目玉の建物なんかをカメラにおさめていても、私は石の隙間で咲く花を撮ったりする。その時に撮りたいものがすべてなんだ。
旅行から帰ってきても、「何撮ってるの?」って言われることもある。たとえば、京都に来たからってお寺を撮るべきってことはないんだ。お土産で買う人が多い「おたべ」という和菓子のあんこの入っている部分のドアップを写したっていいわけで、自分が感じたその時の空気が残せるものなら何でもいいと思う。
結婚式の写真なんかを頼まれたりしても、私はメインカメラマンにしないでねと頼む。なぜなら、ふつうじゃない撮り方をしてしまうからだ。花嫁を撮るけれども、その美しい指がつまむドレスの裾だったり、涙が今にもこぼれそうな瞳のドアップだったり・・・ふつうは困るよね。親戚とか友達に配る写真としては・・・(笑)もちろん、全身の花婿花嫁の写真も撮るけれど、あまりたくさんは撮らない。お客さんの笑顔だったり、幸せそうな顔だったりをまたまたアップで撮ったりする。まあ、私に写真を頼む友達は私のそんな撮り方を知っている人たちばかりだから、自由にさせてはくれたけれど。
ってな感じで、話は飛躍してしまったけど、「ハリーポッターと炎のゴブレット」にはその潔い、でもかなり難しい話のパッチワークの見事な連結に大きな拍手を送りたい。