寓居人の独言

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思い出話「再現性について」(20140403)

2014年04月03日 22時09分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 思い出話というのはふとしたときに出てくるものである。例えば前回書いたSPAT細胞に関する文章の中で、実験の再現性について書いた。数十年も前の話であるが、ある学会で某国立大学の著名なX教授の所の大学院生が、ある物質Aの分析法について発表した。方法自体はそれほど有効とも思えなかったが、データの数がいかにも少ないのでその点について質問をした。
Q  「物質Aの分析法としては特に問題がないようですが、データの数がきわめて少ないのは何故でしょうか」
A 「この実験は1回しかやっていませんのでデータの数がこれだけになります」
Q 「それではこの方法の再現性は検討されていないのですか」 

 この質問をした瞬間、X教授が私の方をにらんだ。と私は感じた。
A 「はい、やっていません」
 私はそこで質問を終了した。X教授ににらまれたからではない。この大学院生が再現性の重要性に気がついてくれると思ったからである。
 その後、X教授とは別の学会で会長と副会長の関係になったがこの件には触れることはなかった。

  別の嫌な例を紹介しよう。これも年度が違うが同じ学会での話である。関西の方の有名私立大学のY教授が代表になって研究結果を発表した。
 結果の整理が不十分で学会で報告するような内容ではなかった。報告が終わると数人の方が質問したいと手を挙げてた。
Q 「この研究結果について教えて頂きたいのですが。何故このようにデータがばらばらなのでしょうか」
A 「申し訳ありませんが実験は学生(4年生の卒業研究)がやったので詳細はわかりかねます」
 Y教授のこの姿勢は会場の失笑を買ってしまった。実験を学生がやったにしろ誰がやったにしろ、指導教授としてY教授が代表者として発表したのだから、Y教授に責任がある。そのことをY教授は認識していなかったらしい。何ともお粗末な話であった。
 このような話にはしばしば遭遇することがある。
 結論を付けることではないが、あるグループで研究をしたならグループ全員に責任があり、あたかも私は議論に参加していなかったし、研究費を獲得するために名前をお貸ししただけですから結果については責任を持てませんというような方がいるようである。こういう事態になってしまうと今後日本の科学研究の報告は非常に厳しい目で見られるようになるのは仕方がないだろう。