報道による理化学研究所S氏の記者会見での発言に大きな違和感を感じた。S氏は一方で論文作成に関わっていながら論文を否定するような発言をし、論文の表現の悪いところは小保方氏の責任にする。他方でSTAP細胞の存在に疑問の余地はないような発言をする。まるである種の人たちが都合の悪い?ところは秘書の責任にするというのに似ている。
もしかしたら世界的な発見に関する部分には名前を連ねておき、関与を残しておく。つまり次のようなことを考えてのことかも知れない。今回発表のSTAP細胞に関する論文(これにも違和感を感じているし、複数回の実験結果がきわめて一致しているとしたら再現性が非常に良いということかも知れない?)を否定して撤回した後で、再実験の結果STAP細胞作成が可能になったと新たに論文を発表する。つまりいいとこ取りをしようとしていると勘ぐることも出来ないわけではない。
論文作成に関わっていながら、何故論文の内容について深い議論をしなかったのだろうか。共同発表者に名を連ねるなら、実験ノートを見たいというのは当たり前ではないだろうか。
余談になるが、半世紀も前の話を思い出した。学会が近づいたある日、一人の大学院生が学会で研究発表をすることを講座担当のN教授にいった。N教授は、研究内容を全く知らずに
「私の名前をトップにしなさい」と言ったという。
「先生は研究の中身をご存じですか」と大学院生は聞いた。
「全く知らない」とN教授は言った。
「それでは先生はこの発表に責任を持てますか」と大学院生がいうと、
「私の名前をトップにしないのなら私の名前を外しなさい」とN教授が言った。
大学院生はN教授の氏名を連名にしないで学会で発表した。
筆者はこの話を聞いたとき、大学院生に尋ねた。
「この研究はどこでどの費用を使って行ったのですか」
「この講座のここの設備を使用して行いました」と大学院生。
私はそれ以上のことは言わなかった。この話には幾つかの問題点がある。
初めに、N教授の氏名をトップに書かなくとも連名になっていればN教授の指導の下で研究をしたことは自明である。したがってなんか問題が発生したら私が責任を持つので私の名前を付けるなら最後のところに付け加えておいても良い、と 言うくらいの度量がN教授にはなかったらしいことがひとつ。
次に、若い人がこれから社会へ羽ばたくとき主著者となる論文が業績として認められ、その内容が良いものならN教授の指導が良かったのだと評価されるのではないだろうか。だからN教授の氏名をトップに付けなくとも良いだろうと言うことがひとつ。
そして、大学院生は何故N教授に研究内容について議論をしてもらわなかったのだろうか。大学院生の言い分はN教授の性格にも依るので明確なことをいえないのだが・・・と。
この度のSPAT細胞の研究報告はこの大学院生の場合と全く逆のことである。研究は議論を重ねることによって内容が良くなるし研究者も自身を磨くことになる。もっとフラットに議論を出来るような状態であったら良かったと思い残念な結果にならなければ良いと思うのは筆者一人ではないだろう。