3月11日、今日の天気は青空が広がっていま
した。私は家族みんなと一緒にわが家の跡を見に
出かけました。途中鎧橋のたもとの家へよって今
朝方のお礼を言いました。そのときの女の人は休
んでいるようで少し若い女の人が出てきました。
私たちはみんなでお礼を言いました。
それから日本橋区役所支所へよって連絡事項が
あるかどうかを聞きました。今朝のことなので今
のところ何も無いと言うことでした。そこで罹災
証明書請求手続きをしました。その後で、有馬国
民学校へ行ってみました。空襲で焼け出された人
がいましたがそれほど多くはありませんでした。
そこで区からの配給品の鮭缶、サツマイモ、少し
ばかりのお米やそれから衣類などを頂きました。
それらを背負い袋に詰めて家のあったところへ向
かいました。
水天宮の通りの東側一帯は土台の石とかコンク
リートの家の枠台があるだけで何もありませんで
した。何回も並んでタバコ劵をもらったタバコ屋
さんやトンボ釣をした川。その当たりには友達が
何人もいたんですが、みんな生き延びてくれただ
ろうかと心配になりました。
新大橋通へ向かいました。すると途中で何とも
美味しそうな甘い香りがしてきました。どこから
香ってくるのかと辺りを探しましたら、コンクリ
ートの土台枠の中に焦げ茶色のどろっとした物が
見つかりました。それがよい香りの源だったので
す。それはカラメル焼きの臭いだったのです。カ
ラメル焼きは兄たちが時々作ってくれたのを思い
出しました。人間の頭はおかしなものですね、こ
んな時に楽しかったことを思い出すのですから。
すぐ上の兄が指先にそのどろっとしたものを付け
て舐めてみました。兄はすぐはき出してこれはダ
メだ。甘いけど焦げ臭いし変な油のような臭みが
ある、といいました。私も同じようにしようとし
ましたが、舐めるの止めました。
家の跡には、水道の立ち上がりもありませんで
した。周りも同じ状態でした。家族は言葉もなく
M劇場の方へ向かいました。私達が避難していた
かもしれないので気になったのですね、M劇場は
元の形をとどめない状態になっていました。そし
てたくさんの人達がM劇場の焼け跡から何か黒
いものを担架に乗せて浜町公園の方へ運んでいま
した。
私たちはその後へついて行きました。するとた
くさんの黒焦げの人の形をとどめている物体が公
園に並べてありました。そこで何かをしていた人
が近づいてきて、
「お子さんにはこれを見せないようにして下さい。
もしかしたらM劇場へ関係者の方が避難してい
たのですか」
「いいえ、妻と娘とこの子が避難することになっ
ていたのですが、浜町の辺りが猛火に包まれてい
たのでいけませんでした」
「それは不幸中の幸いでしたね」
といって戻っていきました。そのとき父が、
「お前達これをよく見ておきなさい。これが戦争と
いうものだ」
といって青の後一言もしゃべらなくなってしま
いました。
私は好奇心から覗いてみようとしましたが、兄
や母がふさいで見えなくなるようにしてしまいま
した。
家族は隅田川の向こうがどうなっているか見よ
うと新大橋の方へ向かいました。橋の上から見る
と橋の向こうは少しばかりの学校だったコンクリ
ートの建物の焼け残りや水道の立ち上がりそれか
ら電車の高架線路が見えるだけで他は何も見え
なませんでした。
ふらつく身体を支えようと橋の欄干に掴まろう
とした父が隅田川の水面を何気なく見ましたが、
身体がかたまってしまいました。母と私たちが駆
け寄ると父は水面を指さしました。
そこにはむすうのすいしたいがういていたので
す。両親や兄達は私が見ているのも忘れてただ呆
然としていました。
細かいことはよく見えませんでしたが、着てい
たものは焼け焦げていたり、頭髪なくなっていた
り頭に黒い皮が着いているように見る死体もあり
ました。あの光景を私は一生忘れることはないと
決心しました。それほど強烈な情景だったのです。