寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 余談

2015年08月13日 23時27分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

 東京大空襲に飛来したB29は325機といわれて
います。投下された焼夷弾の種類と数は、エレク
トロン焼夷弾、油脂焼夷弾、黄リン焼夷弾、ナパ
ーム焼夷弾などで合計381,300発、1783トンとい
われています。1戸当たり1.5発の焼夷弾が投下
されたことになります。

 警視庁調査の死亡者数は、83,793人ということ
になっていますが、実際には行方不明者も数万人
はいると推定されています。負傷者は40万人以上
に及びました。

 総焼失面積は、東京35区の3分の1以上の面積
に当たる41平方キロメートルに及ぶと言うことで
す。1平方キロメートル当たり約9300発というこ
とになります。質量で計算しますと、1平方キロ
メートル当たり約43.5トンとなります。

 1夜の空襲で10万人以上の無抵抗な市民を死に
追いやるにしては、まさかの量の焼夷弾投下になり
ます。また、原子爆弾を広島、長崎に投下して20万
人以上の市民を死に追いやりました。これは虐殺と
言っても過言ではないでしょう。しかし当事者は戦
争を継続すれば更に多くの人が死ぬことになる。そ
のために戦争を早く終わらせたいという理由で正当
化しています。しかも戦争に勝った方はほとんど責
任が問われることはありません。

 私は、 機会があれば若い人達に世界の平和を築こ
うと話してきました。しかし現在も世界の各地で戦
争状態にあったり、重大な紛争が起きています。人
間もそろそろ本気になって世界平和を考える時期が
来たと思います。自分で出来る方法で世界平和を築
いていきましょう。

 この記事はこれで終了となります。ご覧頂きまし
て有り難うございました。


ツクツクホウシ(蝉)がなきはじめました。

2015年08月10日 07時23分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

 毎朝4時22分になりますとヒグラシが鳴き始めます。

約50分間ほどなくと泣き止みます。それからいろいろ

な蝉が一勢に鳴き始めます。

 昨日9日朝になってツクツクホウシが初鳴きを始めま

した。8日に立秋を迎え、秋に入ったという知らせのよう

ですね。生物の体内時計はかなり正確なようで、このブ

ログの過去歴を見ますとほとんど同じ頃に同じ蝉が鳴き

始めます。

 1日で鳴き始める時刻もほぼ同じです。これから少し日

の出時刻が遅くなりますとそれの併せてセミの鳴き始め

る時刻も遅くなります。曇っている日でも変わりませんの

で目覚まし時計になっています。

 アメリカの大学のソーレンソン教授のところへ行ったと

きに、カナブロッキという方に紹介されたことがあります。

この方は当時かなりなお年だったように見えましたが、驚

くほどの食欲の持ち主でした。

 カナブロッキ氏は生物時間の専門家でいろいろな話を聞

くことができました。カナブロッキ氏の書かれた論文もたく

さん頂いてきました。それを読みますと人の病気の治療法

に生物時間の考え方を応用する研究をしていたようです。

 人の体内時計は固有の物でそれを知ることによって病気

の治療効果が変わると言うことです。

 

 


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第12回

2015年08月10日 07時11分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

  私たちは呆然としてしまいました。このような
場面でどんな言葉を発することが出来るでしょう
か。少し前に見た浜町公園の黒い死体は、もしか
したら私と母と姉だったのかもしれません。もし
警戒警報が解除されなかったら、もしM劇場のも
う少し近くに住んでいたら等々いろいろな条件が
私たち親子の生死を分ける結果になったのです。
あの黒焦げの死体の数と新大橋の上から目にした
隅田川の水面に浮かんでいる無数の水死体、先ほ
ど父が口にした「この様を深く心に焼き付けてお
きなさい。これが戦争というものだ」
 という言葉が子どもの私の心に重くのしかかっ
てきました。

当時は子どもの私でさえ政府の政策によって、
「鬼畜米英」とか「撃ちてし止まむ」と言った標
語を信じていたのです。

 そして度重なる空襲によって衣食住は極度に不
自由になっている状況を、「欲しがりません勝つ
までは」とか3度の食事さえ贅沢と排斥するよう
な「贅沢は敵だ」などという標語を使って目をそ
らす政策を打っていました。

  政府発表の東京大空襲の被害については何も公
表されていなかったようです。記録によると、午
前8時○○分には鎮火したという放送があっただ
けと言うことです。

 実際には調査が困難であったようです。
 当時の警視庁の調査での被害の概況は次のよう
にはっています。
         警視庁調査  106回の東京空襲被害
死亡   83,793人      116,959人
負傷者   40,918人     109,567人
被災者  1,008,005人
被災家屋   268,358戸    770,000戸

 その後も、米軍機により焼夷弾爆撃は東京だ
けで106回に及んだと言うことです。

 東京で被害を受けなかったのは極限られた地
域です。例えば、神田区須田町、同区神保町、
築地の限られた地域、向島区(現在の墨田区京
島)、佃島、月島地区、内堀通り界隈のビル街、
東京大学(一部被災)といった地域です。これ
らの地域には吸収されなかった理由があるかの
ように言われていますが明確なことは分かりま
せん。私は偶然類焼を免れたとしか思えません。

  東京大空襲戦争はこんなにも残虐な行為を肯
定するのですね。人間性に関する、哲学者の思
考や宗教の教えの無力を感じてしまいます。

 しかし、私は人間の将来に絶望はしていませ
ん。いつか必ず世界に平和な時代ががくるでしょ
う。そのときに再び生を受けたいと思います。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第11回

2015年08月08日 22時57分50秒 | 日記・エッセイ・コラム

 3月11日、今日の天気は青空が広がっていま
した。私は家族みんなと一緒にわが家の跡を見に
出かけました。途中鎧橋のたもとの家へよって今
朝方のお礼を言いました。そのときの女の人は休
んでいるようで少し若い女の人が出てきました。
私たちはみんなでお礼を言いました。

 それから日本橋区役所支所へよって連絡事項が
あるかどうかを聞きました。今朝のことなので今
のところ何も無いと言うことでした。そこで罹災
証明書請求手続きをしました。その後で、有馬国
民学校へ行ってみました。空襲で焼け出された人
がいましたがそれほど多くはありませんでした。
そこで区からの配給品の鮭缶、サツマイモ、少し
ばかりのお米やそれから衣類などを頂きました。
それらを背負い袋に詰めて家のあったところへ向
かいました。

 水天宮の通りの東側一帯は土台の石とかコンク
リートの家の枠台があるだけで何もありませんで
した。何回も並んでタバコ劵をもらったタバコ屋
さんやトンボ釣をした川。その当たりには友達が
何人もいたんですが、みんな生き延びてくれただ
ろうかと心配になりました。

 新大橋通へ向かいました。すると途中で何とも
美味しそうな甘い香りがしてきました。どこから
香ってくるのかと辺りを探しましたら、コンクリ
ートの土台枠の中に焦げ茶色のどろっとした物が
見つかりました。それがよい香りの源だったので
す。それはカラメル焼きの臭いだったのです。カ
ラメル焼きは兄たちが時々作ってくれたのを思い
出しました。人間の頭はおかしなものですね、こ
んな時に楽しかったことを思い出すのですから。
すぐ上の兄が指先にそのどろっとしたものを付け
て舐めてみました。兄はすぐはき出してこれはダ
メだ。甘いけど焦げ臭いし変な油のような臭みが
ある、といいました。私も同じようにしようとし
ましたが、舐めるの止めました。

 家の跡には、水道の立ち上がりもありませんで
した。周りも同じ状態でした。家族は言葉もなく
M劇場の方へ向かいました。私達が避難していた
かもしれないので気になったのですね、M劇場は
元の形をとどめない状態になっていました。そし
てたくさんの人達がM劇場の焼け跡から何か黒
いものを担架に乗せて浜町公園の方へ運んでいま
した。

 私たちはその後へついて行きました。するとた
くさんの黒焦げの人の形をとどめている物体が公
園に並べてありました。そこで何かをしていた人
が近づいてきて、
「お子さんにはこれを見せないようにして下さい。
もしかしたらM劇場へ関係者の方が避難してい
たのですか」
「いいえ、妻と娘とこの子が避難することになっ
ていたのですが、浜町の辺りが猛火に包まれてい
たのでいけませんでした」
「それは不幸中の幸いでしたね」
 といって戻っていきました。そのとき父が、
「お前達これをよく見ておきなさい。これが戦争と
いうものだ」
 といって青の後一言もしゃべらなくなってしま
いました。

 私は好奇心から覗いてみようとしましたが、兄
や母がふさいで見えなくなるようにしてしまいま
した。

 家族は隅田川の向こうがどうなっているか見よ
うと新大橋の方へ向かいました。橋の上から見る
と橋の向こうは少しばかりの学校だったコンクリ
ートの建物の焼け残りや水道の立ち上がりそれか
ら電車の高架線路が見えるだけで他は何も見え
なませんでした。

 ふらつく身体を支えようと橋の欄干に掴まろう
とした父が隅田川の水面を何気なく見ましたが、
身体がかたまってしまいました。母と私たちが駆
け寄ると父は水面を指さしました。

 そこにはむすうのすいしたいがういていたので
す。両親や兄達は私が見ているのも忘れてただ呆
然としていました。

 細かいことはよく見えませんでしたが、着てい
たものは焼け焦げていたり、頭髪なくなっていた
り頭に黒い皮が着いているように見る死体もあり
ました。あの光景を私は一生忘れることはないと
決心しました。それほど強烈な情景だったのです。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第10回

2015年08月06日 23時35分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

  水天宮に向かって歩いて行く道の右側つまり隅田川
側は焼け跡になっていた。頃焦げの木の破片もなかっ
た。学校に接している家並みを前日とは言え壊してお
いたのは本当によかったと思いました。もし壊して後
片付けをしてなかったら,有馬国民学校も焼けてしまっ
たかもしれません。

 道を歩きながらも父や兄たちのガックリしている姿
を見るのはとても辛かったのですが、母と姉はそうい
う父達を気遣っているようでした。

  新大橋通りに出て左に曲がり本町の方へ歩き出しま
した。新大橋の方を振り返るとまだ燃えているようで
空を赤々と焦がしていました。銀杏八幡宮の辺りに来
たとき、爆音が聞こえたので空を見上げると4発の大
きな飛行機(あれがB29だと思いました)が何機も何
機も飛んでいました。新大橋の方から飛んできて銀座
の方へ向かっているなと父達が話していました。その
方向もまだ空が赤くなっているのでまだ燃えているよ
うでした。私は早く高射砲で撃ち落としてくれないか
と思いましたが、B29の爆音以外には何の物音も聞こ
えませんでした。
 やがて小網町から兜町へ渡る橋のところへ来ました。
さすがに父達も疲れたと見えて橋のたもとのところへ
少し休むことにしました。するとその角のビルからま
だ若い女の人が出てきて、「大変でしたね。お疲れでし
ょうね。今白湯しかありませんがお持ちしますのです
こしお休みになっていて下さい」

 と言って家の中に入っていきました。休んでいると
きにもB29は低空でいろんな方向へ飛んでいきました。
私はずいぶん悔しい思いをしました。 

  さっきの女の人が大きなお盆に7個のコップを持っ
て出てきました。私たちはここでも他人の親切な心に
であったのです。「小さいお子さんはこれをどうぞ」
 と言って渡してくれた温かい白湯は甘い味がしまし
た。私は涙が出てしまいました。あの味は一生忘こと
が出来れるません。 白湯を頂いて私たちはお礼を言
い本町に向かいました。橋(多分鎧橋という名前だっ
たと思います)を渡って証券取引所の前を右へ曲がり、
私はその後どう歩いたのかわかりませんでしたがどう
にか従兄の家に着きました。私はすぐに寝てしまいま
したので、その後の話は朝まで分かりません。朝明る
くなるとすぐ目が覚めました。今日は家のあったところ
へ行くというので私も連れて行ってもらうことにしました。

 そこで大変な物を見ることになってしまいました。
 


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第9回

2015年08月05日 19時18分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 午前3時頃になって、学校の近くには火の手が見え
なくなりました。それで本町にある従兄の家へ行くこ
とにして有馬国民学校を後にしました。その前に学校
の近くの人達はまだ学校にいましたのでお世話になっ
たお礼を言い、近日中にまた有馬国民学校へ来ますと
言ってその日はお別れしました。お別れする時にその
人達はこれを持って行けば当座はしのげるからと言っ
て食べ物と衣類などを持たせてくれました。

 私はどうしてこんなに親切にしてくれるのだろうか
と不思議に思いましたが、父と母が、一度は辞退しま
したが、その人達が「大変な時期にはお互いに助け合
わなければね」と言っていたのを聞いて、そういうこ
となのかと心の中に深くとどめることにしました

  有馬国民学校を出て水天宮の方へ向かいました。
呼吸をするととっても変な臭いがしていました。歩
きながら父達の話していることを聞いていて変なこ
とを感じました。

 9日の23時半過ぎに一度警戒警報の吹鳴音が鳴
って、すぐに解除されたというのです。そしてしば
らくすると今度は直接空襲警報になったというので
す。おかしいことがあるものだと話していました。
今になってその理由がわかりました。

 300機からなる大編隊の先頭の1機は偵察と報告
のために直進し、他のB29は九十九里浜へ向かい
九十九里浜の端で左折して東京上空へ入ってきたの
です。そのために横須賀の監視隊は普通の偵察だけ
だと判断してしまい警戒警報を解除してしまったの
ですね。東京へ近づいてからB29の大編隊来襲に気
がつき急遽空襲警報を発令したようでした。それで
無警戒の状態で空襲が始まってしまったのです。

 10日に日付が変更になって、北東の風が強く吹
いてきたのですね。それと米軍は3月10日の空襲
では作戦を変えていたのですね。

 それまでの空襲は爆弾による軍事施設へのピン
ポイント攻撃だったのですが、この日は後方支援?
つまり一般市民を犠牲にして軍事工場で働く労働
者に打撃を与えることにしたのです。そのために
いろいろな物質を実験した結果、ゼリー状のガソ
リンを詰めた焼夷弾(M69;長さ約50cm、質量
2,8Kg)を開発し、この日からそれを使い出したの
です。M69焼夷弾は、大きなケースに2段重ね
で蜂の巣状に詰め込まれていたそうです。それは
爆撃機から投下されると空中でケースが開いて
38本の焼夷弾に分裂して落下します。

 焼夷弾は屋根を通過し室内に着弾してから爆発
して、火のついたガソリンゼリーをまき散らしま
す。部屋のあちこちに飛び跳ねたものはそこにく
っついて火災を引き起こすというものでした。その
ために家人が気づいたときには広範囲に燃え広
がってしまい消火することが出来なくなってしま
いました。

 それでも政府は焼夷弾何する物ぞといって住民
を鼓舞しました。火叩き棒やバケツの水では消火
できないほどの数(米軍の記録では327,000発)
の焼夷弾がばらまかれたのですから逃げるのに精
一杯だったのですね。この頃学校は,関東大審査
の教訓から鉄筋コンクリート造りにしてあったの
で、火災時にはそこへ避難すれば火災を逃れると
思ったのですが、折からの強風と広範囲にばらま
かれた油性焼夷弾のためにたくさんの方々が帰ら
ぬ人となってしまったのでした。

  この状況については丁度10年前にNHKで放
送された「東京大空襲60年目の被災地図」という
番組があります。この番組の中で、空襲時に人々
がどのように安全なっ場所を求めて行動したかを
検証した記録が入っています。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第8回

2015年08月04日 22時13分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

  夢の中で聞いたと思った吹鳴音は現実の物でした。
私の枕元に母が走ってきて稔すぐ起きなさい。
「警戒警報が発令されたから早く着替えてM劇場へ
行くのですよ」
  私は飛び起きていよいよ来たかと思いました。素
早く着替えて背負い鞄を背負って玄関へ行き靴を履
き母と姉の来るのを待ちました。父や兄たちも玄関
へ来て気をつけていくんだぞと言って僕たち3人を
送り出してくれました。私は母と姉の間に挟まって
2人と急ぎ足に歩きました。

 浜屋さんの角に出ると新大橋の方があかるくなっ
ているのがみえました。中の橋の近くに来ると橋の
向こう側の釣り船店が燃えているのが見えました。

 

拙い画ですがこれ以上の猛火でした。

3人は立ち止まって少しの間、釣り船店の方を見
ていましたら、大きな看板が次々と燃え落ちていき、
家もぱっと炎に包まれてしまいました。3人は驚い
て新大橋通りの左側を見ました。すると浜町河岸地
悪の大きな家も既に激しい火事になっていました。
母は少し考えて家に戻る決心をしたようでした。
「これではM劇場の方もいけないわね。家へ戻りましょう」
私はなんだか家へ戻るのが嬉しくなりました。

 家へ着くと父と兄たちは暗い電灯の下に集まって
何か相談事をしていました。私たちの顔を見ると、
「おや、どうしたんだ。忘れ物でもあったのか」
「それどころではありませんよ、おとうさん。中の
橋の向はものすごい火事になっていますよ。あれで
はとてもM劇場へ行けませんよ。ここだって危ない
かもしれませんよ。早く有馬の学校へ避難した方が
いいのじゃないかしら」
「なんだと。中の橋の向が燃えているというのか。
昌と功は早く物干し台へ登って見てこい。私もすぐ
行く」
 3人は階段を駆け上っていった。するとすぐに戻
ってきた。「父さん、大変だ。火はもうすぐ近くま
で来ているよ。母さん達をすぐ学校へ行かせた方が
いいよ」

 父も階段を駆け上がって物干し台へ行ったけれど
も、すぐ戻ってきて僕たちに学校へそのまま行って
いなさい。私たちも出来るだけ荷物を持って後を追
うから。といって追い出すように私たちを学校へ行
くように言った。

 私たちはすぐ学校へ向かった。しかし道を歩いて
いて気がついたんですが、風がかなり強くなってき
ました。そのために火の粉が嵐の雨のように飛んで
きました。私たちの服や防空頭巾に火の粉が着いて
燻りだしてしまいました。服はお互いに手で叩いて
火を消しましたが、防空頭巾は脱ぐわけに行かない
し中に綿が入っていたので、叩いてもなかなか火が
消えないので閉口しました。母は飛んでくる火の粉
の様子を吹雪みたいね、といっていました。それが
どんな意味か分からなかったのですが、その意味を
今聞くのは止そうと思いました。

 ようやく有馬国民学校へ着きましたが、避難して
きた人達はそんなに多くありませんでした。指定さ
れた教室に入ると近所の人が水やおにぎり缶詰を持
ってお見舞いに来てくれました。

 少し落ちつくと、昨日のことが思い出されてきま
した。折角木材をたくさん家へ運んだのにあれも燃
えてしまうのかと思ってがっかりしましたが、その
ことは誰にも言いませんでした。

  間もなく、父達はほとんど手ぶらで学校へやって
きました。布団などの荷物を持ち出したんだけれど、
火の粉が着いて燃えだしたので捨ててきたといいま
した。だけどお前達は無事学校へ着いててよかった。

 外は北東の風から北西に変わったようだとも言っ 
ていた。少しして窓から外をみると、強制疎開で取
り壊した先の家が盛んに燃えているのが見えた。も
のすごいほどの火の粉が学校の方へ飛んできていた
のに、急に火の粉が川の方に飛んでいくのが見える
ようになりました。

 母はこれはきっと水天宮様の御利益だと言いまし
た。そんな話を聞きながら私はいつの間にか眠って
しまいました。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第7回

2015年08月03日 14時33分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ここで私の家から有馬国民学校への通学路と周辺
の地図を思い出す限り現代版地図に書き出してみま
した。子どもの頃のことですから少々記憶違いの部
分もあるかもしれませんがご了解下さい。

  

 当時の私の家(1)は蛎殻町3丁目にありました。
図の1のところです。通学していた有馬国民学校は
(2)のところにありました。現在の位置の西側に
なっていました。現在の有馬小学校は当時公園だっ
たところに移動したのですね。元の学校があったと
ころは公園になっていました。

 私の家の東側1ブロックのところに現在は高速道
路が走っていますが前は川(地図の太い青い線の部
分)だったのです。何という名前の川か忘れてしま
いました。歌にある「浜町河岸」というのはこの辺
のことを言うのです。この辺には芸者さんが大勢い
たようです。私の同級生の子の家は置屋で遊びに行
くとお姉さん達がお菓子をくれました。この川のず
っと上流はどこまで続いているのか忘れてしまいまし
た。この川の新大橋通りのところにあった橋を「中
の橋」(6)といいました。橋の向こう右側には釣
り船業をやっている家がたくさんありました。それ
ぞれの家の屋根の上に釣り船○○という看板が掛か
っていました。

 M劇場は浜町公園の近くにありました。浜町公園
には高射砲陣地(8)があって一般人はその部分に
近寄ることが出来ませんでした。公園には大きなプ
ールがあって空襲が激しくなるまでは私も兄たちに
連れて行ってもらったことがありました。

 お正月になると、浜町公園はたくさんの人がきれ
いな着物を着て集まってきました。子供たちはタコ
あげや追い羽根で遊んでいましたね。良い時代でし
た。
  水天宮前の4つ角には、水天宮側の角に森永食堂
と言うのがありました。ここは少し高級感のある食
堂(現代風に言うならレストラン)でオムレツやカ
レーライスのような当時では西洋料理の類に入る食
事が出来ました。

 その人形町通りの反対側に人形焼き屋さんがあり
ましたが、当時はもう店を閉めていましたね。その
向かい側にも食堂がありました。多分だるま食堂と
いう名だったと思います。この店はごく一般的な店
で雑炊や水団が美味しい店でした。美味しいといっ
ても子どもにとって外食というのはいつの時代でも
印象に残る物ですからね。

 もう一つの角には何があったのか思い出せないの
です。店が無かったのかもしれません。角から少し
兜町方向に3,4軒目に写真館がありました。上の
兄に召集令状が来たときに家族全員で写真と写しに
行きました。その写真が私が蛎殻町にいたという唯
一の記録になりました。

 私の家から右に曲がる角には質屋があり新大橋通
りに出た角には今も富貴豆で有名な「はまや」とい
う煮豆屋さんがあります。それから通学路に沿って
進むと炭屋がありました。この店は夏場は氷屋に変
わり通年を通しては小ぶりな肉屋にもなりました。
兄の友達の家で私もかわいがられた想い出がありま
す。タドン造りもやらせてもらいました。

 さて、話を本題に戻しましょう。夜になって風が
少し強くなってきました。そして夢の中で警戒警報
の吹鳴(サイレン)が鳴るのを聞いたような気がし
ました。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第6回

2015年08月03日 01時06分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ラジオの放送劇で私たち子どもに人気のあった
番組は、「潜水飛行艇飛び魚号」という番組でした。
その活躍には胸がどきどきしましたね。

 本は、私はまだ国民学校1,2年生でしたので幼
年倶楽部とか兄たちが読んでいた、少年倶楽部を難
しい漢字は教えてもらいながら読んでいました。そ
の中でも漫画はタンクタンタロウとか冒険ダン吉と
かノラクロ兵隊漫画をよく読んでいました。

 それから少年倶楽部などのグラビア写真に戦車隊
や戦闘機乗りや水兵さんの写真を見て格好良く感じ
て、にあこがれていたものでした。これらの雑誌は
子供たちに大きな影響を与えたと思います。

 映画も父が好きで近くの映画館に連れて行ってく
れました。今でも覚えているのは、榎本健一(エノ
ケン)の「3尺サゴヘイ」とか、「河童大将」、何か
の幽霊が出てくる恐いのも見ました。それから学校
推薦の「轟沈」、「加藤隼戦闘機隊」なども胸をわく
わくさせながら見ました。これらの映画の主題歌な
どはすぐ覚えてしまいました。

 前回分に書くのを忘れていましたが、父はタバコ
が好きで日常的には買えなくなり早朝に当日分のタ
バコ劵というのを配って昼頃に入荷すると買いに行
きました。県を貰いに行くのは私とすぐ上の兄の役
目でした。買うタバコの種類は「あさひ(漢字で朝
日と書いてあったかもしれません)」という紙巻きで
タバコは1本の半分くらいしか入っていませんでし
た。「みのり」これはキザミタバコで非常に細く切
った物が紙袋に入っている物でした。

  役所からの指導で個々の家でも防空壕を作ること
になりました。わが家でも今思うと笑ってしまえる
ような話ですが、玄関の上がり口ように2畳間があ
りました。

 そこの下に深さ2メートルほどの穴を掘りそれを
防空壕としました。穴を掘っていると土と砂が混ざ
っていて中には大小様々の貝殻が出てきました。さ
すがに蛎殻町という地名だなどとと兄たちが言って
いるのを聞きました。それと困ったことに穴の底か
ら水が少しずつにじみ出してくることでした。その
ためにこの穴には何もいれることができませんでし
た。

 隣組では近くにあった空き地に本格的な防空壕
を作りました。地面を少し掘り下げて柱を組み天
井をはってその上に土を厚く掩った造りでした。
この防空壕は遊び場所の一つになりました。

  大きな道路の歩道にもあちらこちらに防空壕が出
来て小さな山が出来たと言って子供たちは喜んでい
ました。防空壕は爆弾攻撃に対しては直撃弾でなけ
れば相当の力を発揮したようです。

 3月9日。この日は風もなく比較的暖かい日でし
た。たくさんの壊した家の木材をもらってきたので
疲れていたのでしょうか、夕食後すぐ寝てしまいま
した。もちろん避難するときに持っていく物は背負
鞄に入れて枕元に洋服と一緒においてありました。
この頃の夜は灯火管制下にあったので電灯の明かり
が外へ漏れないように黒い布で電灯の下だけが明る
くなるようにしてありました。


東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第5回

2015年08月01日 23時06分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

  その頃の子どもの遊びで年長の子が年下の子の
面倒をよく見ていましたね。最も流行っていた遊び
は「駆逐戦艦(水雷)」というものでした。「駆逐戦艦
(水雷)」は一組7,8人で敵味方2組になって対戦す
る遊びです。両方の組は基地を離れた位置に作り
ます。指揮官の戦艦役他、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦
(水雷艇)などの役割があります。飛行機役はまだあ
りませんでした。大艦思想の影響でしょうかね。

 それぞれの役割は服装によって相手にも分かるよ
うにします。防止を被っている指揮官、巡洋艦役は
帽子を被って両手の袖口を外側に織り返す、駆逐艦
役は帽子を被らないで両手の袖口を外側に織り返す、
潜水艦役は帽子を後ろ向きに被ります。各組はどの
役を何人にするかを決めておきます。これは作戦で
すね。

 規則(ルール)は、指揮官の戦艦役は水雷艇役に
接触されてジャンケンに負けると捕まったことにな
ります。それで対戦に勝ったことになります。
 戦艦役は水雷艇役以外の総ての役に優位にあり接
触によって捕まえることが出来ます。同じ役同士は
接触したときのジャンケンに勝った方が捕まえるこ
とになります。 捕まると相手の基地に止まることに
なり、味方が接触できれば助けられたことになりま
す。 これはかなり走り回るので体力と俊敏性を養
うのにはとても良い遊びでした。

  その他にはメンコ、ビー玉、ベーゴマなどの遊び
も空襲が激しくなる前までは行われていました。メ
ンコは丸い物と細長い謎メンというのがありました
ね。ビー玉は薄青いのと色模様付きの物がありまし
た。形は少し歪な物がたくさんあって真っ直ぐ転が
らないこともありました。ベーゴマは鉄製や安いの
は鋳物製の物がありました。鉄製のものは重さがあ
り人気でした。売っているのは高さ1.5cmほどのも
のでしたが、グラインダーやヤスリあるいは竹の先
に着けて路面に擦りながら歩き先を尖らせたりして
ペチャというものを作りしました。

 ペチャは相手のベーゴマの下に潜り込んで押し出
すので有利でしたね。資源供出が始まると瀬戸物に
なりましたがすぐ割れてしまうので自然に遊ぶ子が
いなくなりました。
 模型飛行機や凧などもよく作っていました。竹ヒ
ゴは竹を削って作りましたが、大方は部品総てがセ
ットになっている物が売られていたのでそれで作
ったようです。

 学校の運動会も私が国民学校2年生の時が最後で

した。学校では体操やかけっこ、剣道、銃剣術、水泳
が中心に行われました。