空襲が激しくなる前の私たち子どもの様子を少し
紹介しましょう。まず食べ物についてです。私の家
では鰯をよく食べました。鰯をそのまま焼いて頭か
らよくかんで食べました。
小さい子どもにはギョロッとした目玉が恐くて頭
を残しがちでしたが、親はこんがり焼いて頭が美味
しいからといって無理矢理食べさせられました。鰯
は丸ごとすり鉢に入れてすりこ木ですりつぶして団
子にして味噌汁に入れて食べました。鰯は丸ごと食
べるので小骨がのどに詰まることがありました。あ
れは痛かったですね。そのとき母は巣鴨のとげ抜き
地蔵で買ってきた小さな薄い和紙ののような物を飲
みなさいと言って少しの水で飲ませてくれました。水
をたくさん飲むと効果がないと言っていました。それ
を飲むと不思議にのど元の刺が抜けて痛くな
くなりました。
それから煮た魚もよく食べました。何の魚かもう
覚えていませんが、冬になると魚の煮汁を寒いとこ
ろにおいて凍らせたものを食べましたね。煮凝りと
いう物です。
それから鮭はよく食べましたね。当時鮭は非常に
安く猫またぎなどとも言われ貧乏人の食べる魚でし
た。しかし美味しかったですね。今のように油を使
った総菜はあまり食べませんでしたが、焼いた鮭は
油が七輪の炭団(タドン:石炭と炭の粗く粉にした
ものを直系6,7センチメートルの球状にしたもの)
の上に落ちて香ばしい香りを出していました。
野菜の煮物もよく食べましたね。中でもジャガイ
モの煮っ転がしはとても美味でした。夏場はキュウ
リモミをよくたべました。母の作ったキュウリモミ
は、輪切りにしたキュウリのむこうがわが透けて見
えるほど薄く美味しかったです。刺身や肉を食べた
記憶はありません。
特筆すべきことがあります。それは児童に学校か
らふかし芋県というのをもらいました。それをもっ
てふかし芋屋へ行くと大きな蒸かしたサツマイモを
新聞紙で作った袋に一杯区れっました。
しかし甘い物はほとんどなくなっていました。唯
一あったのが乾燥バナナでした。これは黒く細長い
異様な物でしたが口に言えてよく咬んでいると甘さ
が口いっぱいに広がって美味しかったですね。
ご飯は毎日押し麦がたくさん入ったご飯でした。
押し麦の真ん中にある焦げ茶色の線がいやでしたね。
昭和20年になるとオジヤをよく食べました。ご飯
にいろんな物を入れてゆるく煮た物ですが、食べて
もすぐお腹が空いてしまうのでした。
最後に、家の近くに亜m座キョコ超というところ
がありました。そこにあった大きな寿司屋?で、毎
朝弁当劵を配りお昼頃にそれをもって店に行って経
木の箱に入った弁当を買いました。