今月に入ってから・・・続々と、喪中欠礼の葉書きが届く。 ほとんどはDANの仕事関係の人たちからなのだが、 今年はいったいどうしたんだろう。かなりの数に上っている。
毎年、喪中欠礼の葉書きの届いた所には、『来年は悲しいことのない年になりますように』と一言添えて、 地味なクリスマス・カードを送ることにしているのだが、今年は、何度か買い足しに走った。
父の亡くなった年・・・それを出して、当然のことながら、翌お正月には、年賀状が届かなかった。 元日のごとん・・・という音と共に、かなりの枚数になる年賀状。 年末に作っているときは忙しい折に面倒くさい作業だと文句のひとつも言ってみたりするのに、 全然届かないのも、淋しさを募らせるものだと知った。 それ以来、悲しいことのあったお宅には、クリスマス・カードで、せめてお悔やみの気持ちを、と思っている。
だんだん年を重ねていくと、年賀状は生存証明のようなものだよ、と言うのは聞いた事があるが、今年の欠礼葉書きの多さには、つくづくそれを実感した。
私達の世代も、「孫ができました」という幸せな報告があるという一方で、 親が亡くなったという知らせが続く。
なんて中途半端な年回りなんだろう。
あと10年もすれば、年末はいつも、悲しい知らせの方が多くなるのだろうか。少し先を見据えて生きたいものだと思い立ったのは、45歳になったときだった。5年後の自分を見て生きてきた。50を過ぎると5年後の私は、死んでるかもしれない・・・なんていう考えも視野に入ってきた。
まあ、世にはばかる憎まれっ子になるよりは、惜しまれつつ・・・なんてのが理想だけれど、私の死であれ、他の人の死であれ、悲しみにさえ「こんにちわ」と、鮮やかに微笑むことのできるよう、心の準備をしたいものだと、思っている。
毎年、喪中欠礼の葉書きの届いた所には、『来年は悲しいことのない年になりますように』と一言添えて、 地味なクリスマス・カードを送ることにしているのだが、今年は、何度か買い足しに走った。
父の亡くなった年・・・それを出して、当然のことながら、翌お正月には、年賀状が届かなかった。 元日のごとん・・・という音と共に、かなりの枚数になる年賀状。 年末に作っているときは忙しい折に面倒くさい作業だと文句のひとつも言ってみたりするのに、 全然届かないのも、淋しさを募らせるものだと知った。 それ以来、悲しいことのあったお宅には、クリスマス・カードで、せめてお悔やみの気持ちを、と思っている。
だんだん年を重ねていくと、年賀状は生存証明のようなものだよ、と言うのは聞いた事があるが、今年の欠礼葉書きの多さには、つくづくそれを実感した。
私達の世代も、「孫ができました」という幸せな報告があるという一方で、 親が亡くなったという知らせが続く。
なんて中途半端な年回りなんだろう。
あと10年もすれば、年末はいつも、悲しい知らせの方が多くなるのだろうか。少し先を見据えて生きたいものだと思い立ったのは、45歳になったときだった。5年後の自分を見て生きてきた。50を過ぎると5年後の私は、死んでるかもしれない・・・なんていう考えも視野に入ってきた。
まあ、世にはばかる憎まれっ子になるよりは、惜しまれつつ・・・なんてのが理想だけれど、私の死であれ、他の人の死であれ、悲しみにさえ「こんにちわ」と、鮮やかに微笑むことのできるよう、心の準備をしたいものだと、思っている。