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教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

2022年10月02日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員。

 

 

警視庁公安部が押収した、西新井事件などで使用された工作機器類。

北朝鮮による日本人拉致事件が頻発した1978年(昭和53)の夏に、時計の針を戻す。

 

 

1978年7月7日の七夕の夜、福井県小浜市の海岸で、

地村保志さんと浜本富貴恵さんが北朝鮮工作員、

辛光洙容疑者と、特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる工作員3人に拉致された。

 

その24日後の7月31日夜、同じく日本海側の新潟県柏崎市の海岸から、

帰省中だった中央大学法学部3年の蓮池薫さんと、

当時交際していた奥土祐木子さんも北朝鮮工作員らに連れ去られた。

 


真夏ゆえに日は長かったが、午後7時半ごろになると、さすがに夕闇が迫る。

人けのない海岸に腰を下ろした2人の背後から4人組の男が近づいてきた。

1人は40代、残りの3人はいずれも体格の良い20代にみえた。

年長の男が話しかけてきた。

 

「たばこの火を貸してくれないか」

蓮池さんが火を差し出そうとした瞬間、

後方から体格の良い3人組に羽交いじめにされ、拘束された。

その後、祐木子さんも拘束され、2人は船に乗せられ北朝鮮に拉致された。

 


手口は、地村さん事件と酷似していた。

拉致実行犯部隊は、指揮役の日本語ができる工作員と、

腕っぷしが強い「戦闘員」3人で構成。

 

蓮池さん事件を指揮した工作員も、地村さん事件の辛容疑者のように、

日本に密入国を繰り返していた大物工作員だった。


あえて「大物」と付言したのは、

警視庁公安部などの公安当局が後に血眼になって行方を追うことになったからだ。

その男は、戦後屈指の北朝鮮スパイ事件の容疑者でもあった。

 


 頓挫した背乗り


昭和45年夏、大物工作員は秋田県の男鹿半島から秘密裏に入国した。

おそらくは、工作船を乗り継ぎ、最後はゴムボートで接岸したのだろう。


「松田忠雄」を名乗り、東京都足立区のゴム製造会社に就職した。

日本人の身分がすでに用意されていたことをみれば、

国内に協力者がいたことは間違いない。

 

「松田」は未亡人の同僚女性に近づき、

彼女の連れ子とともに一つ屋根の下で暮らすようになった。

 


工場の作業員にカムフラージュした北の工作員は大阪に赴き、裏の顔をあらわにする。

あらかじめ目をつけていた在日朝鮮人の男を訪ね、切り出した。

「北朝鮮にいる家族を知っている。

協力してほしい」。有無を言わさず、男を配下に置いた。

 


工作船に乗せ、北朝鮮に送り込み、

補助工作員としての技能を習得させ、日本に再上陸させたのだ。

このころ、「松田」は名前を変える。

 

日雇い労働者らが集う東京・

山谷の街で路上に倒れていた福島県出身の小熊和也さん(34)に近づき、

入院させた上で、自らが「小熊和也」を名乗るようになった。

 


戸籍抄本も入手し、旅券と運転免許証を取得。

日本人の身分を合法的に獲得したわけだ。

ところが、〝本物〟が日本にいると、不都合が生じる。

〝偽物〟は配下の補助工作員に命じた。

「小熊を共和国に送れ」。

 


日本人拉致の目的の一つに、

「身分の盗用」があるが、拉致の〝源流〟がここにあった。

 


実在の日本人に成りすますスパイ行為は「背乗り」と呼ばれるが、

入院していた小熊さんの容体が悪化し死亡したことで、背乗りは頓挫した。

 

病院から死亡届が出されたからだ。

「小熊和也」として非合法活動することができなくなった

大物工作員は昭和51年ごろ、北へ戻っていった。

 

 

 

チェ・スンチョル容疑者が小住健蔵さんに成りすまし

取得した運転免許証(警察庁刊行「焦点」)から。

 

 各国9回の渡航。

チェ・スンチョル容疑者(自称1932年生まれ)。

両親は朝鮮半島出身で、本人は大阪生まれ。

父親は幼いころ事故死し、母子家庭で育った。

 


先の大戦中は、小牧飛行場(愛知県)で整備担当に従事した。

終戦と同時に現在の韓国慶尚道に渡り、農家の手伝いをしていたが、

朝鮮戦争勃発(1950年)とともに北朝鮮の義勇軍に入隊する。

 

休戦後は北朝鮮で炭鉱労働者として働いたが、

日本語能力を買われ、工作員に選抜されたという。

 


工作員としての評価も高く、

「日本で初めて合法身分を獲得した工作員」と称賛されていた、との証言もある。

 

風貌は身長約170センチ、髪は七三分けに整えられ、

四角い顔に金縁のめがねをかけていた。


地村さん夫妻や、大阪の中華料理店員、原敕晁さん(43)の拉致を主導した辛容疑者と、

生い立ちや経歴、身なりが重なる。


日本語が堪能で、日本で暮らしていても違和感がない。

表面上はある意味、目立たない人物だった。

 


「小熊和也」としての身分を浄化したチェ容疑者は再び日本に密入国し、

昭和53年7月に、蓮池さん夫妻を拉致し、北朝鮮に連れ去った。

そして、翌昭和54年に、また日本で別の背乗り事件に関与していった。

 

 

北朝鮮工作員らは当時、いとも簡単に、不法に、出入国を繰り返していた。

日本人拉致はそうした文脈の中で起きたのだ。

水際の警備、国内の防諜捜査はかいくぐられ、わが国の主権は侵害された。

 


チェ容疑者は昭和36年以降、

行方不明扱いになっていた北海道出身の小住健蔵さん(51)の戸籍抄本を入手し、

小熊さんの時と同じように旅券と運転免許証を取得した。

 


公安当局によれば、小熊さん、小住さんに背乗りしたチェ容疑者は

北朝鮮の工作機関、対外調査部の極東地域幹部として、

フランス、ソ連、タイ、香港、韓国などに延べ9回にわたって渡航。

 

①北朝鮮やその海外拠点との連絡。

②在日韓国人の取り込みや韓国への送り込み。

③在日スパイ網の構築。

④日本の防衛力、極東外交などの情報収集。

⑤米軍基地に関する情報収集―などの工作活動を展開していた。


小住さんの消息は不明のままで、拉致されたのか、

亡くなったのかも含め、真相は藪の中だ。

 

チェ容疑者の2つの背乗り事件は、

容疑者の住んでいた地名にちなみ「西新井事件」といわれている。

 


補助工作員とは、チェ容疑者や辛容疑者がスパイ活動をするにあたって、

補助工作員の存在は重要だった。活動拠点や協力者の確保は欠かせない。

 


小住健蔵(51)として、チェ容疑者が暗躍していたころ、

東京都内のアパートを借りる際に保証人になったのは、

「宮本明」こと「李京雨(イ・ギョンウ)」という在日工作員だった。

 

 

この男もまた昭和53年に起きた日本人拉致事件に

関与していたことが公安当局の調べで分かっている。

 


1987年11月(昭和62年11月)に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、

金賢姫元工作員に日本人化教育をさせられた田口八重子さん(22)に近づき、

誘い出し、工作員らに引き渡したとみられている。

 


爆破事件のもう一人の実行犯、金勝一工作員(事件直後に服毒自殺)が使用した

「蜂谷真一」名義の偽造旅券の入手にも強く関与していた。

 


工作員と「戦闘員」、補助工作員らの非公然ネットワークが

蜘蛛の巣状に張り巡らされていた実態が浮かぶ。

日本社会はそうしたことを知る由もなかった。

 


警視庁公安部が昭和60年3月、西新井事件の摘発に踏み切った際、

チェ容疑者と「李京雨」はすでに行方をくらましていた。

 

チェ容疑者が配下に置いた大阪の補助工作員を逮捕し、

非公然活動に使用していた機器類などを押収するだけにとどまった。

 

 

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(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん  ←クリック。


(3)国家主権の侵害 張り巡らされた北のスパイ網

   不法に出入国繰り返した工作員  ←この記事です。


(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔 ←クリック。 


(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  ←クリック。

 

 

 

 

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教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO2

2022年10月02日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO2

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔

 

開港を目前に控えた成田空港は混乱の極みに達していた。

空港内に入り込んだ反対派の左翼活動家らが機動隊の隊列に向けて火炎瓶を投げつける。

周囲を取り囲む制服の警察官が拳銃を構えて応戦した。

空港の管制塔も活動家らに占拠され、機器が破壊された。

最後は機動隊が制圧したが、日本の表玄関の開港は予定より50日近く遅れた。

あのころは、安保闘争や過激化した学生運動の余韻を残しながらも、

一方で時代が少しずつ変わっていく社会変革の風を感じた。

 

キャンディーズが引退し、ピンクレディーの全盛期。

東京・池袋に地上239・7メートルの、

当時アジアで最も高い超高層ビル「サンシャイン60」が開業。

カップ麺「マルちゃん赤いきつねうどん」が発売された。

巨人の王貞治選手が通算800号本塁打を達成。

ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」の日本上映が始まったのもこの年だった。

 

1978年(昭和53年)。

50歳代以上の世代には「ノスタルジア(郷愁)」を覚えさせるが、

この年は北朝鮮による日本人拉致が多発した年でもあった。


 あの夏は、異様だった。「静かにしろ」拘束。


七夕の夜。レストランで食事を終えた若い男女は、

福井県小浜市の小浜公園展望台に車を走らせた。

当時婚約中だった地村保志さんと浜本富貴恵さんは「まだ帰るには少し早いから」

と夜景を楽しむために目的地に向かった。

 

展望台の手前数十メートルの道がカーブしているところで、

車のヘッドライトは4人組の男が縦一列になって展望台の方に上っていくのを照らした。

ハンドルを握っていた地村さんは「こんな時間に?」と感じたが、

それ以上、気にすることもなかったという。

 


人けのない展望台近くのベンチにはもう一組の男女が座っていた。

しばらくすると、車が走り出す音を聞いたので、

地村さんは男女が帰っていったのだと思ったという。

 

展望台2階のベンチに腰かけた地村さんと富貴恵さんは背後に人の気配を感じた。

振り返ると、後ろ手にされて手錠をかけられ、足も拘束された。

富貴恵さんも同じように拘束された。

 


「静かにしろ」。4人組のうちの1人から日本語でそう言われた後、

布袋のようなものを全身にかぶせられ、展望台下の浜辺に運ばれた。

その後、ゴムボートに乗せられ沖に。沖合でエンジン音がする船に移され、

数十分後にさらに別のもっと大きな船に乗せられて北朝鮮に連れ去られた。

船にはあの4人組の男たちが乗っていた。リーダー格は日本語ができた。

残りの3人は若く、日本語は話せないようだった。

 

日本語を話すリーダー格は、北朝鮮工作員、

辛光洙(シン・グァンス)容疑者とみられ、

警察当局は国外移送目的略取容疑で国際手配している。

 

 

地村保志さんと富貴恵さんが拉致された小浜公園展望台。

1979年(昭和54年)福井県小浜市。

 

 

「北の英雄」見覚え

2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相と金正日総書記による日朝首脳会談で、

金総書記は拉致を認めた。


地村さんと富貴恵さんは「生存」とされた5人に含まれ、翌10月に帰国する。

だが、北朝鮮に子供を残しての帰国だったため、

警察当局に「辛容疑者が実行犯グループに含まれていた」と証言したのは、

子供らが帰国した後の2005年12月になってからだった。

 

 

無理もない。子供が人質に取られた状態で、

北朝鮮の闇に触れるような証言をすれば、安全は保証できない。

被害者たちはその恐ろしさを十分に知っていた。

 

 

韓国で死刑判決を受けたが、恩赦で釈放された辛光洙容疑者。

2000年、韓国・ソウル

 

 

韓国で死刑判決を受けたが、恩赦で釈放された辛光洙容疑者。

2000年、韓国・ソウル。  日本の警察は何をしていたんでしょう~?

日本政府は、無名な一市民の事など、何も考えていないのです。(真実)。

 

 

しかしなぜ、地村さんらは辛容疑者を知っていたのか。

拉致を指揮した実行犯は被害者が北朝鮮到着後、監視を兼ねて教育係に付く。

地村さんらに付いたのが辛容疑者だった

(地村さんと富貴恵さんは拉致された後、しばらくは別々に管理された)。

辛容疑者は地村さんに自分の名字が「辛」であることを伝えたという。

 

だが、さすがに名前までは明かさなかった。

辛容疑者は地村さんらを拉致した2年後の昭和55年6月、

大阪の中華料理店員、原敕晁さんも拉致し、

原さんに成りすまし韓国に非合法に入国。

国家保安法違反容疑で逮捕され、公判で死刑判決を受けた。

 


その後、恩赦で釈放され、北朝鮮に身柄が送還されることになったとき、

北朝鮮では「祖国の英雄」とメディアで大々的に報じられ、

見覚えのあるあの男が「辛光洙」だと知ったのだ。


「辛光洙」・・「筋金入り」の経歴


《1929年(昭和4年)6月27日、静岡県新居町(現・湖西市)で生まれた。

兵庫県尼崎市の小学校、富山県高岡市の国民学校などで学び、

日本の敗戦を機に家族とともに帰国し、慶尚北道浦項市に住んだ》


《朝鮮戦争(1950~1953年、休戦中)が始まると、北朝鮮義勇軍に自ら入隊した。

朝鮮人民軍第1師団第14連隊に配属されて朝鮮戦争に出兵。

1952年5月、朝鮮労働党に入党した》

 


《1954年、東欧諸国の戦後復興支援の一環として

実施された海外留学生選抜試験に合格し、

ルーマニアのブカレスト工業大学の予科に入学。

機械学部を卒業して機械技師の資格を取得した後、北朝鮮に戻った》

韓国の情報当局が1980年代に把握した辛容疑者の経歴だ。

 


 金日成主体思想

金日成革命史など政治思想学習と通信技術教育、

工作(スパイ)実務教育を受けた筋金入りの工作員である。

韓国の公判で明らかになった辛容疑者の密入国の方法はこうだった。

北朝鮮東部の元山港を工作母船で出港。

2日後、石川県の能登半島沖で工作子船に乗り換え海岸に近づき、

ゴムボートに乗り換えて岸辺から上陸した。

 

工作母船とは2001年12月に九州南西海域で海上保安庁の巡視船との銃撃戦の末、

沈没し、その後海底から引き揚げられた

漁船にカムフラージュした工作船と同様の船のことだ。

船体後部の扉が開き、格納庫から工作子船が出てくるタイプもある。

工作子船は中型モーターボートサイズ。

そして、ゴムボートに空気を入れて、岸辺まで漕いだ。

 

日本に潜伏後は、北朝鮮に親族がいる在日朝鮮人を配下に置くなどして、

アジト(隠れ家)を確保し、本国の指示に従い、スパイ活動を展開した。


さまざまな手口で地村さんらを拉致した4人組のうち、

辛容疑者以外の3人は、

力ずくで拉致するために実行日に合わせて潜入した

「戦闘員」と呼ばれる特殊訓練を受けた工作員たちだったとみられる。

 


本国からの拉致実行の指令は、

あらかじめ潜入している工作員(辛容疑者)と工作船(戦闘員ら)に発せられ、

双方は上陸ポイント周辺などで落ち合う。

戦闘員は被害者を船に乗せ、北朝鮮まで確実に運び込む。

 

先述した原敕晁さんの事件では、

辛容疑者が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系商工会幹部らを配下に置いて、

原敕晁さんに架空の就職話を持ちかけた。

内定を理由に「社長が別荘にいる」と宮崎県・青島海岸に連れ出し、

「前祝い」で泥酔させて船に乗せて連れ去った。

 

乗船させる際になって戦闘員とみられる4人の男が姿を現す。

「船を持ってきた人です。心配いらない」。辛容疑者は原さんを促した。

力ずくの拉致ではなかったが、

原さんが抵抗するなどした場合も想定していたとみられる。

拉致の手口はさまざまだが、

昭和53年夏の福井、新潟、鹿児島など5件の拉致事件(未遂含む)は、

戦闘員が上陸しての暴力的なものだった。

指示役の工作員らも、わが国で暗躍していたに違いない。

 

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん  ←クリック。


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