富田元治のブログ

メール:ganto1950@yahoo.co.jp

【北朝鮮拉致問題】 「拉致」 私たちは何故、気付かなかったのか !

2022年10月04日 | #日本政府と拉致問題

【北朝鮮拉致問題】 「拉致」 私たちは何故、気付かなかったのか !

 

下に、YouTubeを共有しました。ぜひ見てください。をクリック。

 

 

 

 

1977年11月15日、当時中学1年生だった横田めぐみちゃんが、

北朝鮮政府に拉致されたあの日からもう45年が経ちます。

 

産経新聞の阿部 雅美氏が、1980年1月7日、サンケイ新聞朝刊一面トップにおいて、

「アベック三組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」

「富山の誘拐未遂事件からわかる」の見出しで、

日本人拉致事件を初めて報道しました。

【1980年1月7日のサンケイ新聞のトップ記事】(下の画像)。

 

 

このスクープ記事は、当時の社会党とマスコミによって潰されました。

他のマスコミ各社は、 

「産経新聞は公安警察の情報に踊らされている」と、

この北朝鮮拉致問題を全く無視したのです。

 

1988年3月26日の参院予算委員会で、故梶山静六 国家公安委員長が、

「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁した日から34年です。

故梶山静六 国家公安委員長の答弁も旧社会党とマスコミがつぶしました。

 

 

小説家・西村寿行氏は産経新聞のスクープ前(1977年)に、

「アベック三組ナゾの蒸発」を小説・異常者の冒頭に書いています。

「アベック三組ナゾの蒸発」は、拉致された当時(1977年夏)から、

異常な事件だったのです。

1978年8月に、富山県でアベック拉致未遂事件が起こっています。

富山県アベック拉致未遂事件  ←クリック。

このアベック拉致未遂事件の調査によって北朝鮮の関与が判明しました。

 

北朝鮮の国家犯罪だと判明しても、日本政府は動きませんでした。

日本人の生命と財産を守る・・日本政府には、この基本が無いのです。

 

1980年1月7日、サンケイ新聞朝刊一面トップにおいて、

「アベック三組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」が載る。

 

1988年3月26日の参院予算委員会で、故梶山静六 国家公安委員長が、

「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁する。

 

以上全て、マスコミと旧社会党が潰しました。

 

gangeeの九州山歩き・感動した映画(横田めぐみちゃん)←クリック。

 

 

 

 

 

 

コメント

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

2022年10月03日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


2002年(平成14年)9月17日夜、日朝首脳会談を終えた北朝鮮・平壌で、

政府関係者のブリーフィング(状況説明)が始まった。


「生存しているのは蓮池薫さん、奥土祐木子さん、地村保志さん、浜本富貴恵さん、

それにこちら(日本)から所在確認を依頼していない方1人…」

記者らは慌てふためいた。

 

日本政府が認定する拉致被害者リストに入っていない人物が含まれていたからだ。

その被害者が新潟県真野町(現・佐渡市)出身の曽我ひとみさんだ

と確認するまでに2、3日はかかったと記憶している。

 

 

佐渡島で暮らしていた当時19歳だった曽我さんと、

母、ミヨシさん(46)は1978年(昭和53年)8月12日夜、

自宅近くの商店に買い物に出かけ、その帰りに失踪した。

 

北朝鮮側から拉致の事実を知らされるまで、

誰も北朝鮮の犯行と気づくことはできなかった。

 

海上警備は突破され、地域の治安も守られなかった。

失踪から時間がたつにつれて薄れる社会の関心。

北朝鮮が悪いことに疑いはないが、

長きにわたり抑留され続けた曽我さんを思うと、

申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

ミヨシさんの消息はいまだに不明だ。

 


最初の声と同じ

曽我さんらが拉致された昭和53年夏は、各地で日本人拉致が頻発していた。

 

午後7時過ぎ、自宅から約500メートルのところにある商店に、

母子は夕飯のおかずを買いに歩いて出かけた。

 

店にいた時間は約10分。来た道と同じ道を戻った。

道路側に曽我さんが、海側にミヨシさんが、並んで歩いていた。


辺りは暗く、車通りも少なかった。

背後が気になり振り向くと、男3人が横一列にくっつくようにして歩いていた。


20~30メートル後方だっただろうか。

不気味に感じ足早に歩き始めようとした瞬間、背後から口をふさがれ、

道路わきの民家の敷地に引きずり込まれた。

曽我さんはこの時、ミヨシさんも同じように襲われたのを見た、と証言している。

 

その後、手ぬぐいのようなものを口に詰められ、手足はひもで縛られた。

大きな麻袋のようなものに足の方から入れられ、頭の上で縛られ、袋詰めにされた。

手口は蓮池さん夫妻や地村さん夫妻の拉致事件と共通する。

特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる北朝鮮工作員たちの仕業だ。

 

通常はゴムボートに乗せられ、工作子船、工作母船と海上で乗り継ぎ、

北朝鮮に連れ去られるが、曽我さんが運び込まれたのはゴムボートではなく、木造船。

 

船床に置かれた感覚が「板張り」だったという。

その際、「女性の小さな声」を聞いた。低い穏やかな口調。

何を言っているかは聞き取れなかったが、たどたどしい日本語だった。

ミヨシさんの声ではない。

 


犯人側の女が日本語で話していたということは、

日本語を理解できる人物がその場にいたことになる。

戦闘員らと話すのに日本語は使わないだろう。

ミヨシさんに、何かを語りかけていた可能性がある。

 

船が動き始めた。エンジンの音は聞こえない。

波の音も聞こえない。川を下り、海に向かっていた。

 

しばらくすると、沖でエンジン音がする船に袋詰めのまま移された。

ようやく袋から出され、手足の拘束や口をふさいでいたものがはずされた。


船内の小部屋で目にしたのは、作業着風の服装の中年女の姿だった。

「私をどこへ連れて行くのですか」

曽我さんはたずねたが、女は無視して出ていった。

 

長い時間が過ぎた。

曽我さんはこの間、おかゆのような食事を提供されたという。

食事を持ってきた女に再びたたみかけた。

「お母さんはどこにいるの。私を帰して」。

 

女は言い放った。「甲板に出て外の空気を吸え」

最初の船で聞いた「たどたどしい日本語」と同じ声だった。

 


知っていた名字

キム・ミョンスク容疑者。

40歳代半ばぐらいで、所属は朝鮮労働党の工作機関「対外情報調査部」とみられる。

身長約150センチ。細目できつい目つき。髪はパーマ。

 


日本の警察当局は曽我さんら拉致事件を主導した実行犯とみて、

国外移送目的略取(拉致)容疑などで国際手配している。

キム容疑者は曽我さんが拉致された約1週間前に佐渡島に潜伏したとされる。


曽我さんに対し、

「浜辺の近くに電力関係の施設があり、そのあたりにいた」と告白している。

島という立地は、よそから来た人物は目立つ。

工作船など洋上で過ごせばさらに目を引く。

 

協力者が滞在するアジト(拠点)を用意していた可能性が高い。

現地に精通した補助工作員の影が見え隠れする。

北朝鮮側は、曽我さんの事件に関しては、

「日本国内の拉致請負機関から引き渡しを受けた」と伝えてきている。

 

北朝鮮の犯行に変わりはないが、不可解な説明であり、

事件の初動捜査ができなかった日本側にとっては痛い。

 


拉致された当時、准看護師だった曽我さんは平日は勤務先の病院の寮で生活していたが、

土曜の午後に実家に帰り、週末を過ごした。日曜日の午後には寮に戻った。

 

拉致されたのが土曜日だったことから、

キム容疑者らのグループが曽我さんの行動形態を把握していたのでは、

といった見方もあったが、

曽我さんとミヨシさんが突然買い物に出かけることは犯人側には予見できなかったはずだ。

 

 

 

曽我ひとみさんと母、ミヨシさんが拉致される前に買い物をした

商店付近で実況見分する新潟県警の捜査員=平成14年10月5日=

 


いまだに解明されていないのは、

キム容疑者は曽我さんが名乗る前から少なくとも名字を知っていたことだ。

曽我さんが拉致された際、名前を特定されるような物は持っていなかった。

 

「佐渡にいる。お金をたくさん置いてきたから、心配するな」。

北朝鮮に捕らわれた後もミヨシさんの所在をただす曽我さんに、

キム容疑者はそういってなだめたという。


曽我さんもそれを信じていたが、帰国を果たした後、

その言葉が噓だったことに気づいた。

 

久我良子とは…

その紙は、拉致被害者たちが暮らす平壌近郊の招待所の

備え付けの鏡台の引き出しの底板に、

小さく折りたたんで張り付けてあった。


見つけたのは地村さん夫妻。1980年代初めのことだ。

広げてみると、A4判ほどの紙にハングルで朝鮮人名が書かれ、


横には漢字で「久我良子」とあり、「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。

こんなことも書かれていた。《1978年に革命のために朝鮮にきた》

《夫は交通事故で死亡》《娘は26歳で嫁いだ》。

 


地村さん夫妻が招待所の世話係の女性に紙に書かれていた朝鮮人名についてたずねると、

「あなたたちの前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人漁師と結婚した」

と説明されたという。

ほかにも記述があった。

「久我良子」が北朝鮮に来る前、

漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたことや、

新潟・佐渡島の住所。ボールペンで塗り消された跡もあった。

 

メモは自分の存在を誰かに知らせようとしていたようにも映る。

メモを残したことが北朝鮮当局に知られたら、ただではすまない。

「久我良子」という日本人名は偽名かもしれない。

 

北朝鮮に来た年や、娘がいること、佐渡に住んでいたことは、

ミヨシさんの境遇と重なる。

ミヨシさんが拉致された当時、

土管などを製造する「北越ヒューム管」の工場で勤務していたことも

「漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたこと」と一致する。

 

「ソガミヨシ」と「クガヨシコ」。

偶然にしては、共通点が少なくないが、ミヨシさんか否かを、

日本側から北朝鮮側にぶつける情報はそれ以上持ち合わせていない。

北朝鮮側はミヨシさんが入境したことさえもいまだに認めていない。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん ←この記事です。


(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員  ←←クリック。


(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔 ←クリック。 


(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  ←クリック。

 

 

 

 

コメント

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

2022年10月02日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員。

 

 

警視庁公安部が押収した、西新井事件などで使用された工作機器類。

北朝鮮による日本人拉致事件が頻発した1978年(昭和53)の夏に、時計の針を戻す。

 

 

1978年7月7日の七夕の夜、福井県小浜市の海岸で、

地村保志さんと浜本富貴恵さんが北朝鮮工作員、

辛光洙容疑者と、特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる工作員3人に拉致された。

 

その24日後の7月31日夜、同じく日本海側の新潟県柏崎市の海岸から、

帰省中だった中央大学法学部3年の蓮池薫さんと、

当時交際していた奥土祐木子さんも北朝鮮工作員らに連れ去られた。

 


真夏ゆえに日は長かったが、午後7時半ごろになると、さすがに夕闇が迫る。

人けのない海岸に腰を下ろした2人の背後から4人組の男が近づいてきた。

1人は40代、残りの3人はいずれも体格の良い20代にみえた。

年長の男が話しかけてきた。

 

「たばこの火を貸してくれないか」

蓮池さんが火を差し出そうとした瞬間、

後方から体格の良い3人組に羽交いじめにされ、拘束された。

その後、祐木子さんも拘束され、2人は船に乗せられ北朝鮮に拉致された。

 


手口は、地村さん事件と酷似していた。

拉致実行犯部隊は、指揮役の日本語ができる工作員と、

腕っぷしが強い「戦闘員」3人で構成。

 

蓮池さん事件を指揮した工作員も、地村さん事件の辛容疑者のように、

日本に密入国を繰り返していた大物工作員だった。


あえて「大物」と付言したのは、

警視庁公安部などの公安当局が後に血眼になって行方を追うことになったからだ。

その男は、戦後屈指の北朝鮮スパイ事件の容疑者でもあった。

 


 頓挫した背乗り


昭和45年夏、大物工作員は秋田県の男鹿半島から秘密裏に入国した。

おそらくは、工作船を乗り継ぎ、最後はゴムボートで接岸したのだろう。


「松田忠雄」を名乗り、東京都足立区のゴム製造会社に就職した。

日本人の身分がすでに用意されていたことをみれば、

国内に協力者がいたことは間違いない。

 

「松田」は未亡人の同僚女性に近づき、

彼女の連れ子とともに一つ屋根の下で暮らすようになった。

 


工場の作業員にカムフラージュした北の工作員は大阪に赴き、裏の顔をあらわにする。

あらかじめ目をつけていた在日朝鮮人の男を訪ね、切り出した。

「北朝鮮にいる家族を知っている。

協力してほしい」。有無を言わさず、男を配下に置いた。

 


工作船に乗せ、北朝鮮に送り込み、

補助工作員としての技能を習得させ、日本に再上陸させたのだ。

このころ、「松田」は名前を変える。

 

日雇い労働者らが集う東京・

山谷の街で路上に倒れていた福島県出身の小熊和也さん(34)に近づき、

入院させた上で、自らが「小熊和也」を名乗るようになった。

 


戸籍抄本も入手し、旅券と運転免許証を取得。

日本人の身分を合法的に獲得したわけだ。

ところが、〝本物〟が日本にいると、不都合が生じる。

〝偽物〟は配下の補助工作員に命じた。

「小熊を共和国に送れ」。

 


日本人拉致の目的の一つに、

「身分の盗用」があるが、拉致の〝源流〟がここにあった。

 


実在の日本人に成りすますスパイ行為は「背乗り」と呼ばれるが、

入院していた小熊さんの容体が悪化し死亡したことで、背乗りは頓挫した。

 

病院から死亡届が出されたからだ。

「小熊和也」として非合法活動することができなくなった

大物工作員は昭和51年ごろ、北へ戻っていった。

 

 

 

チェ・スンチョル容疑者が小住健蔵さんに成りすまし

取得した運転免許証(警察庁刊行「焦点」)から。

 

 各国9回の渡航。

チェ・スンチョル容疑者(自称1932年生まれ)。

両親は朝鮮半島出身で、本人は大阪生まれ。

父親は幼いころ事故死し、母子家庭で育った。

 


先の大戦中は、小牧飛行場(愛知県)で整備担当に従事した。

終戦と同時に現在の韓国慶尚道に渡り、農家の手伝いをしていたが、

朝鮮戦争勃発(1950年)とともに北朝鮮の義勇軍に入隊する。

 

休戦後は北朝鮮で炭鉱労働者として働いたが、

日本語能力を買われ、工作員に選抜されたという。

 


工作員としての評価も高く、

「日本で初めて合法身分を獲得した工作員」と称賛されていた、との証言もある。

 

風貌は身長約170センチ、髪は七三分けに整えられ、

四角い顔に金縁のめがねをかけていた。


地村さん夫妻や、大阪の中華料理店員、原敕晁さん(43)の拉致を主導した辛容疑者と、

生い立ちや経歴、身なりが重なる。


日本語が堪能で、日本で暮らしていても違和感がない。

表面上はある意味、目立たない人物だった。

 


「小熊和也」としての身分を浄化したチェ容疑者は再び日本に密入国し、

昭和53年7月に、蓮池さん夫妻を拉致し、北朝鮮に連れ去った。

そして、翌昭和54年に、また日本で別の背乗り事件に関与していった。

 

 

北朝鮮工作員らは当時、いとも簡単に、不法に、出入国を繰り返していた。

日本人拉致はそうした文脈の中で起きたのだ。

水際の警備、国内の防諜捜査はかいくぐられ、わが国の主権は侵害された。

 


チェ容疑者は昭和36年以降、

行方不明扱いになっていた北海道出身の小住健蔵さん(51)の戸籍抄本を入手し、

小熊さんの時と同じように旅券と運転免許証を取得した。

 


公安当局によれば、小熊さん、小住さんに背乗りしたチェ容疑者は

北朝鮮の工作機関、対外調査部の極東地域幹部として、

フランス、ソ連、タイ、香港、韓国などに延べ9回にわたって渡航。

 

①北朝鮮やその海外拠点との連絡。

②在日韓国人の取り込みや韓国への送り込み。

③在日スパイ網の構築。

④日本の防衛力、極東外交などの情報収集。

⑤米軍基地に関する情報収集―などの工作活動を展開していた。


小住さんの消息は不明のままで、拉致されたのか、

亡くなったのかも含め、真相は藪の中だ。

 

チェ容疑者の2つの背乗り事件は、

容疑者の住んでいた地名にちなみ「西新井事件」といわれている。

 


補助工作員とは、チェ容疑者や辛容疑者がスパイ活動をするにあたって、

補助工作員の存在は重要だった。活動拠点や協力者の確保は欠かせない。

 


小住健蔵(51)として、チェ容疑者が暗躍していたころ、

東京都内のアパートを借りる際に保証人になったのは、

「宮本明」こと「李京雨(イ・ギョンウ)」という在日工作員だった。

 

 

この男もまた昭和53年に起きた日本人拉致事件に

関与していたことが公安当局の調べで分かっている。

 


1987年11月(昭和62年11月)に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、

金賢姫元工作員に日本人化教育をさせられた田口八重子さん(22)に近づき、

誘い出し、工作員らに引き渡したとみられている。

 


爆破事件のもう一人の実行犯、金勝一工作員(事件直後に服毒自殺)が使用した

「蜂谷真一」名義の偽造旅券の入手にも強く関与していた。

 


工作員と「戦闘員」、補助工作員らの非公然ネットワークが

蜘蛛の巣状に張り巡らされていた実態が浮かぶ。

日本社会はそうしたことを知る由もなかった。

 


警視庁公安部が昭和60年3月、西新井事件の摘発に踏み切った際、

チェ容疑者と「李京雨」はすでに行方をくらましていた。

 

チェ容疑者が配下に置いた大阪の補助工作員を逮捕し、

非公然活動に使用していた機器類などを押収するだけにとどまった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん  ←クリック。


(3)国家主権の侵害 張り巡らされた北のスパイ網

   不法に出入国繰り返した工作員  ←この記事です。


(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔 ←クリック。 


(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  ←クリック。

 

 

 

 

コメント

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO2

2022年10月02日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO2

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔

 

開港を目前に控えた成田空港は混乱の極みに達していた。

空港内に入り込んだ反対派の左翼活動家らが機動隊の隊列に向けて火炎瓶を投げつける。

周囲を取り囲む制服の警察官が拳銃を構えて応戦した。

空港の管制塔も活動家らに占拠され、機器が破壊された。

最後は機動隊が制圧したが、日本の表玄関の開港は予定より50日近く遅れた。

あのころは、安保闘争や過激化した学生運動の余韻を残しながらも、

一方で時代が少しずつ変わっていく社会変革の風を感じた。

 

キャンディーズが引退し、ピンクレディーの全盛期。

東京・池袋に地上239・7メートルの、

当時アジアで最も高い超高層ビル「サンシャイン60」が開業。

カップ麺「マルちゃん赤いきつねうどん」が発売された。

巨人の王貞治選手が通算800号本塁打を達成。

ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」の日本上映が始まったのもこの年だった。

 

1978年(昭和53年)。

50歳代以上の世代には「ノスタルジア(郷愁)」を覚えさせるが、

この年は北朝鮮による日本人拉致が多発した年でもあった。


 あの夏は、異様だった。「静かにしろ」拘束。


七夕の夜。レストランで食事を終えた若い男女は、

福井県小浜市の小浜公園展望台に車を走らせた。

当時婚約中だった地村保志さんと浜本富貴恵さんは「まだ帰るには少し早いから」

と夜景を楽しむために目的地に向かった。

 

展望台の手前数十メートルの道がカーブしているところで、

車のヘッドライトは4人組の男が縦一列になって展望台の方に上っていくのを照らした。

ハンドルを握っていた地村さんは「こんな時間に?」と感じたが、

それ以上、気にすることもなかったという。

 


人けのない展望台近くのベンチにはもう一組の男女が座っていた。

しばらくすると、車が走り出す音を聞いたので、

地村さんは男女が帰っていったのだと思ったという。

 

展望台2階のベンチに腰かけた地村さんと富貴恵さんは背後に人の気配を感じた。

振り返ると、後ろ手にされて手錠をかけられ、足も拘束された。

富貴恵さんも同じように拘束された。

 


「静かにしろ」。4人組のうちの1人から日本語でそう言われた後、

布袋のようなものを全身にかぶせられ、展望台下の浜辺に運ばれた。

その後、ゴムボートに乗せられ沖に。沖合でエンジン音がする船に移され、

数十分後にさらに別のもっと大きな船に乗せられて北朝鮮に連れ去られた。

船にはあの4人組の男たちが乗っていた。リーダー格は日本語ができた。

残りの3人は若く、日本語は話せないようだった。

 

日本語を話すリーダー格は、北朝鮮工作員、

辛光洙(シン・グァンス)容疑者とみられ、

警察当局は国外移送目的略取容疑で国際手配している。

 

 

地村保志さんと富貴恵さんが拉致された小浜公園展望台。

1979年(昭和54年)福井県小浜市。

 

 

「北の英雄」見覚え

2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相と金正日総書記による日朝首脳会談で、

金総書記は拉致を認めた。


地村さんと富貴恵さんは「生存」とされた5人に含まれ、翌10月に帰国する。

だが、北朝鮮に子供を残しての帰国だったため、

警察当局に「辛容疑者が実行犯グループに含まれていた」と証言したのは、

子供らが帰国した後の2005年12月になってからだった。

 

 

無理もない。子供が人質に取られた状態で、

北朝鮮の闇に触れるような証言をすれば、安全は保証できない。

被害者たちはその恐ろしさを十分に知っていた。

 

 

韓国で死刑判決を受けたが、恩赦で釈放された辛光洙容疑者。

2000年、韓国・ソウル

 

 

韓国で死刑判決を受けたが、恩赦で釈放された辛光洙容疑者。

2000年、韓国・ソウル。  日本の警察は何をしていたんでしょう~?

日本政府は、無名な一市民の事など、何も考えていないのです。(真実)。

 

 

しかしなぜ、地村さんらは辛容疑者を知っていたのか。

拉致を指揮した実行犯は被害者が北朝鮮到着後、監視を兼ねて教育係に付く。

地村さんらに付いたのが辛容疑者だった

(地村さんと富貴恵さんは拉致された後、しばらくは別々に管理された)。

辛容疑者は地村さんに自分の名字が「辛」であることを伝えたという。

 

だが、さすがに名前までは明かさなかった。

辛容疑者は地村さんらを拉致した2年後の昭和55年6月、

大阪の中華料理店員、原敕晁さんも拉致し、

原さんに成りすまし韓国に非合法に入国。

国家保安法違反容疑で逮捕され、公判で死刑判決を受けた。

 


その後、恩赦で釈放され、北朝鮮に身柄が送還されることになったとき、

北朝鮮では「祖国の英雄」とメディアで大々的に報じられ、

見覚えのあるあの男が「辛光洙」だと知ったのだ。


「辛光洙」・・「筋金入り」の経歴


《1929年(昭和4年)6月27日、静岡県新居町(現・湖西市)で生まれた。

兵庫県尼崎市の小学校、富山県高岡市の国民学校などで学び、

日本の敗戦を機に家族とともに帰国し、慶尚北道浦項市に住んだ》


《朝鮮戦争(1950~1953年、休戦中)が始まると、北朝鮮義勇軍に自ら入隊した。

朝鮮人民軍第1師団第14連隊に配属されて朝鮮戦争に出兵。

1952年5月、朝鮮労働党に入党した》

 


《1954年、東欧諸国の戦後復興支援の一環として

実施された海外留学生選抜試験に合格し、

ルーマニアのブカレスト工業大学の予科に入学。

機械学部を卒業して機械技師の資格を取得した後、北朝鮮に戻った》

韓国の情報当局が1980年代に把握した辛容疑者の経歴だ。

 


 金日成主体思想

金日成革命史など政治思想学習と通信技術教育、

工作(スパイ)実務教育を受けた筋金入りの工作員である。

韓国の公判で明らかになった辛容疑者の密入国の方法はこうだった。

北朝鮮東部の元山港を工作母船で出港。

2日後、石川県の能登半島沖で工作子船に乗り換え海岸に近づき、

ゴムボートに乗り換えて岸辺から上陸した。

 

工作母船とは2001年12月に九州南西海域で海上保安庁の巡視船との銃撃戦の末、

沈没し、その後海底から引き揚げられた

漁船にカムフラージュした工作船と同様の船のことだ。

船体後部の扉が開き、格納庫から工作子船が出てくるタイプもある。

工作子船は中型モーターボートサイズ。

そして、ゴムボートに空気を入れて、岸辺まで漕いだ。

 

日本に潜伏後は、北朝鮮に親族がいる在日朝鮮人を配下に置くなどして、

アジト(隠れ家)を確保し、本国の指示に従い、スパイ活動を展開した。


さまざまな手口で地村さんらを拉致した4人組のうち、

辛容疑者以外の3人は、

力ずくで拉致するために実行日に合わせて潜入した

「戦闘員」と呼ばれる特殊訓練を受けた工作員たちだったとみられる。

 


本国からの拉致実行の指令は、

あらかじめ潜入している工作員(辛容疑者)と工作船(戦闘員ら)に発せられ、

双方は上陸ポイント周辺などで落ち合う。

戦闘員は被害者を船に乗せ、北朝鮮まで確実に運び込む。

 

先述した原敕晁さんの事件では、

辛容疑者が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系商工会幹部らを配下に置いて、

原敕晁さんに架空の就職話を持ちかけた。

内定を理由に「社長が別荘にいる」と宮崎県・青島海岸に連れ出し、

「前祝い」で泥酔させて船に乗せて連れ去った。

 

乗船させる際になって戦闘員とみられる4人の男が姿を現す。

「船を持ってきた人です。心配いらない」。辛容疑者は原さんを促した。

力ずくの拉致ではなかったが、

原さんが抵抗するなどした場合も想定していたとみられる。

拉致の手口はさまざまだが、

昭和53年夏の福井、新潟、鹿児島など5件の拉致事件(未遂含む)は、

戦闘員が上陸しての暴力的なものだった。

指示役の工作員らも、わが国で暗躍していたに違いない。

 

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん  ←クリック。


(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員  ←クリック。

(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔  ←この記事です。

(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を・・  ←クリック。

 

 

 

 

コメント

教科書が教えない 北朝鮮・拉致問題 NO1

2022年10月01日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO1

(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を… 

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

大韓航空機爆破事件で逮捕され、

韓国・金甫空港に移送された金賢姫元工作員。(1987年12月)。

 


メインスタジアムには色とりどりの国旗がはためいていた。

祝祭の始まりを告げる開会式は異様な盛り上がりを見せた。

第二次世界大戦後に建国されたアジアの新興国で初めて開催される夏季五輪は特別だった。

 


1980年のソ連・モスクワ大会は、前年のソ連によるアフガニスタン侵攻を理由に、

米国や西ドイツなどがボイコットし、日本も同調した。

1984年の米ロサンゼルス大会はソ連を中心とした社会主義諸国などが参加せず、

報復に打って出た。


だから、米ソ両国をはじめ、

東西の主要国が一堂に会する198年のソウル(韓国)五輪は世界の注目を浴びた。


そうした背景もあり、

当初は東西冷戦や分断の象徴であったソウルと平壌(北朝鮮)での共催も取り沙汰されたが、

北朝鮮側は開会式と閉会式などをソウルと平壌で別々に実施することにこだわった。


五輪開催権はあくまで韓国側にあるというのが国際オリンピック委員会の見解で、

結局、共催が実現することはなかった。


北朝鮮はソウル五輪の前年の1987年11月、大韓航空機爆破事件を起こす。

恐怖をあおり、ソウル五輪への各国の参加申請を妨害する狙いがあったとされる。

 

後に分かることだが、この大韓機爆破事件が北朝鮮による日本人拉致事件と密接に関係し、

なぜ北朝鮮工作員が日本人を拉致したのかを示唆していたのだ。

 

大韓機爆破事件の実行犯は、北朝鮮工作員の男女。

男は当時59歳、女は25歳で、日本人親子を装った。

 

バグダッド(イラク)発アブダビ(アラブ首長国連邦)、

バンコク(タイ)経由ソウル行きの機内の棚に時限爆弾を置いた2人はアブダビで降機した。

 

その後、爆破事件が発覚し、

アブダビを出国しようとして2人は身柄を押さえられたが、

男はその場で服毒自殺した。

「金勝一(キム・スンイル)」と名乗り、

「蜂谷真一(はちや・しんいち)」名義の日本の偽造旅券を所持していた。

 

蜂谷さんは実在の人物で、日本に密入国した北朝鮮工作員に勧められ、

旅券を取得し、

その旅券を一時的に預けていたことが日本の公安当局の捜査で判明。

 

「蜂谷真一」名義の旅券は北朝鮮で偽造されていた。

蜂谷さんが、日本国内のスパイ網に取り込まれていた疑いも浮上した。

国際的に信用度が高いとされていた日本人に成りすました典型的な事件だ。

北朝鮮工作員が各国に潜入しスパイ活動を展開するため、

日本人に成りすますことこそが、日本人拉致の目的のひとつだったのだ。

 

大阪市の中華料理店員、原敕晁さん=拉致当時(43)は、

昭和55年6月、「新しい仕事を紹介する」と持ちかけられ、

北朝鮮工作員や在日朝鮮人団体幹部らにだまされて拉致された。

 

実行犯は北の工作員、辛光洙容疑者=国外移送目的略取容疑などで国際手配中。

生存していれば92歳になる。

辛容疑者は北朝鮮から工作母船、工作子船、ゴムボートを乗り継いで

日本に密入国、出国を繰り返していた。

国内の補助工作員の協力を得て、拉致対象者を原さんに決め、

就職斡旋を偽って宮崎・青島海岸に連れ出した。

 

前祝いと称して原さんに大量の酒を飲ませて泥酔させ、

工作船に乗せて北朝鮮に拉致していった。

その後、日本に舞い戻り、原さんに成りすまして旅券や運転免許証を取得。

「原敕晁」としてスパイ活動を始めた。

 

背乗り。身分を盗用し別人に成りすます行為を公安捜査員たちはそう呼んだ。

辛容疑者と日本で同居していた在日朝鮮人女性はかつて産経新聞の取材に

「(辛容疑者は)以前は『坂本』と名乗っていたのに、

しばらくして再会すると、免許証の名前が『原』になっていた」と証言した。

 

辛容疑者の背乗りの前と後を知るこの女性は

「(辛容疑者は)夜になると部屋に閉じ籠もり、

数字を羅列する朝鮮語のラジオを聞いていた」とも話した。

 


平壌からの暗号放送。スパイ活動の指示にほかならない。

辛容疑者は原さん名義の旅券を使って3回、海外渡航し、

東南アジアの工作拠点を埋設した。

 

そして、任務の本丸である対南(韓国)工作のために韓国に初めて入国した際、

韓国内の協力者から情報が漏れて逮捕された。

その後の韓国当局の調べで、原さん拉致の詳細が明らかになっていった。

 

 

原さんのほかにも、

昭和52年9月に拉致された東京都三鷹市のガードマン、久米裕(52)は、

北朝鮮から指示を受けた在日朝鮮人の工作員にもうけ話を持ちかけられ、

拉致されたが、その時点で戸籍謄本は工作員が持っていた。

そそのかされて謄本を渡していたとみられる。

 

昭和53年6月にオーストリア・ウィーン経由で拉致された兵庫県のラーメン店員、

田中実さん(28)も、失跡直前、周囲に「戸籍を売ると金になる」と話していた。

いずれも、背乗り目的でターゲットにされた可能性が強い。

 

 話を大韓機爆破事件に戻す。自殺した「金勝一」の娘として、

「蜂谷真由美」名義の旅券を所持して捕まった金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員は、

韓国当局の取り調べに、

「日本人に成りすますために、平壌で日本人化教育を受けた。

教官は日本から拉致されてきた女性で『李恩恵(イ・ウネ)』と名乗っていた」などと供述。

大韓機爆破事件で、日本人拉致がクローズアップされた。

 

平壌郊外の東北里(トンプンニ)地区。

金賢姫元工作員と「李恩恵」がともに生活しながら、

日本人化教育が行われた招待所は、大きな農業貯水池沿いにあり、

風の音と虫の鳴く声だけが聞こえる静かな場所にあった。

 

金賢姫元工作員はここで、日本語だけでなく、

日本人女性の振る舞いや化粧、食事の仕方などを習得した。

 

そのすべてを教え込まさせられた「李恩恵」は、

昭和53年6月に拉致された田口八重子さん(22)だったのだ。

 

田口さんを言葉巧みに誘い出したのは、

勤務先の飲食店に頻繁に顔を出していた常連客の男とみられる。

「李京雨(イ・ギョンウ)」という名の在日工作員。

日本名は「宮本明」と名乗った。

蜂谷さんの手帳に「宮本明」の連絡先が記されるなど浅からぬ関係にあったのも、

今になってみれば偶然ではなかった。

 

金賢姫元工作員の同僚の金淑姫(キム・スクヒ)工作員に一時期、

日本語を教えさせられていたのが、横田めぐみさん(13)だった。


2002年(平成14年)10月に帰国した拉致被害者の証言で判明し、

金賢姫元工作員も追認している。


日本人拉致のもうひとつの目的に、

工作員に日本語教育や日本人化教育を施す人材が必要だったことが挙げられる。

田口さんや久米さん、原さん、田中さんのように対象を絞った形の拉致がある一方、

横田めぐみさんのように北朝鮮からの指令と合致する対象だった可能性がある拉致など、

パターンはさまざまだ。


その点については、拉致被害者と家族の支援組織「救う会」が分析しており、

今後、検証を試みる。

 

 

◆ 拉致被害者の奪還はいまだかなわず、問題の風化さえ懸念されている。

拉致事件を知らない世代も増える昨今、

改めて事件の背景や問題の本質を解き明かしてみたい。

日本社会がこの問題を忘れることがないように。

 

【用語解説】大韓航空機爆破事件

1987年(昭和62年)11月29日、

バグダッド発ソウル行きの大韓航空機858便がビルマ(現ミャンマー)のアンダマン海上空で爆発し、

乗客・乗員計115人が死亡した。

捜査当局は時限爆弾による爆破事件と断定。

同便の経由地のアブダビで降りた「蜂谷真一」

「蜂谷真由美」名義の日本人旅券を所持した北朝鮮工作員の男女が身柄を拘束され、

男はその場で服毒自殺。女も自殺を図ったが、一命を取りとめた。

女は犯行を認め、日本人拉致被害者から日本人化教育を受けたことなどを供述した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん  ←クリック。

 

NO3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員 ←クリック。

 

(NO2)だれが日本人を  辛光洙容疑者、リーダーの素顔 ←クリック。 


(NO1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  この記事です。

 

 

 

コメント