続、こどもの国線



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 昨日は書きませんでしたが、なぜ長津田からこどもの国までの盲腸線(注)があるのか、不思議に思われた方もおられたことと思います。古くから沿線にお住いの方は経緯をご存知かとは思いますが、ご存知ない方のために少しだけ書いておきたいと思います。
注:営業距離が短い鉄道路線で、起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線のこと。

 「こどもの国」は横浜市青葉区奈良町と町田市三輪町にかけて広がる広大な自然公園ですが、80年前までは旧日本陸軍の弾薬庫(田奈弾薬庫)だったのです。1942(昭和17)年に弾薬運搬用引き込み線として横浜線長津田から弾薬まで建設されたのが現在の東急こどもの国線なのです。

 戦後は進駐軍に接収されていましたが、返還後の1959(昭和34)年4月の皇太子明仁親王成婚(現上皇)と1960(昭和35)年の浩宮徳仁親王(現天皇)生誕を記念して、国費をはじめで全国から寄せられたお祝い金、多くの民間企業や団体・個人の協力を基金に弾薬庫跡地を公園として整備し、1965(昭和40)年5月5日のこどもの日に開園したのが「こどもの国」なのです。

 「こどもの国」開園にあたり来園者のアクセスのために弾薬運搬用引き込み線を再整備し開業したのが現在のこどもの国線です。開通は開園から2年遅れの1967(昭和42)年4月28日でした。来園者のアクセスのための専用線でしたので「こどもの国」が休園となる月曜日は電車も運休であったと記憶しておりますが、沿線の宅地開発に伴う人口増加により需要が高まり通勤線化されることになりました。

 そのために、それまで「こどもの国協会」が所有していた線路施設が1997(平成9)年) に第三種鉄道事業が第三セクター横浜高速鉄道に譲渡され(上下分離方式)、ロングレール化や列車交換ができる中間駅「恩田駅」を設置するなど改良・整備がなされ2.000(平成12)年3月29日から沿線住民の通勤・通爆の需要をも担う全時間帯運行の鉄道路線としての運行が開始されました。


 話は「こどもの国」が開園した1965(昭和40)以前に戻りますが、こどもの国線整備の検討の中で、こどもの国駅の北方2.5kmにある小田急線鶴川駅もしくは西北西2kmにある同線玉川学園前駅まで延伸も検討されたとのことですが、こどもの国線整備の目的が来園者専用アクセス線と云う位置付けであったために実現しなかったようです。

 鶴川あるいは玉川学園前までの延伸がこの時に実現していれば、現在のような盲腸線にはならず、宅地開発も早い時期から始まり沿線住民の通勤・通学需要を取り込み単線のままであっても十分黒字化が可能であったのではないかと思われます。今となっては用地買収が難しい延伸も、40年前なら可能であっただろうと考えると実に残念な気がします。

 と云う訳で今日の一枚は、通常は池上線と東急多摩線で運行されている3両編成の7000系がこどもの国線を走行する図(2024年5月4日撮影)。この時にはこどもの国線専用のY000系も2両✖2の4両編成で運行しておりました。通常は2両編成のY000系3編成(うし電車、ひつじ電車、通常仕様)で運行されているこどもの国線ですが、多客期対応のため他の路線で運行されている車両が投入されることもあります。10分間隔で運行されていたようで、多くの時間帯で中間駅である恩田駅で列車交換(上下線行き違い)が行われておりました。

横浜市青葉区の住宅地の中に残された小さな里山の四季の移ろいを毎週撮影・掲載しているblog「恩田の森Now」に、ただいまは3月9日に撮影した写真を5点掲載いたしております。霙の降った翌日、佳き春の日となった森の様子をご覧いただけたら嬉しいです。
https://blog.goo.ne.jp/ondanomori/e/d63ca9bbe133b1e57d6145fd49188f4a

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