
山名時氏場所の隣には、倉吉市を代表する古墳として知られる三明寺古墳があります。後世に地蔵石仏をおさめて長く地蔵堂として信仰を集めてきたようですが、それはこの古墳が早くに開かれて内部へ出入り出来るようになっていたことを示すのでしょう。

その築造時期は六世紀末ないし七世紀初頭とされています。いわゆる大化の薄葬令の施行前の遺構で、規模は径18メートル、高さは6メートルを測ります。現在の地形状況では分かりにくくなっていますが、円墳です。
その埋葬施設は、山陰地方最大級の横穴式石室です。切石造りの両袖式で、石室全長8.3メートル、玄室長3.7メートル、玄室高3.1メートルを測ります。奥壁には巨大な一枚石を立て、玄室の奥壁に接して板石を組み合わせた囲いを設け、柩に供したものとみられます。羨道部の一部も残り、この種の古墳としては稀な保存状態を示しています。

Kさんはこうした古代の遺跡が専門なので、色々と専門用語を呟いては各部を子細に観察し、楽しげにこう言いました。
「伯耆守、福庭古墳を覚えてるかね」
「ああ、波々伎神社の境内にあるやつやね。ここと、ほぼ同時期の古墳やろ?」
「そうだけど、構造や技術的にはあちらの方が上やなと思う」
「と言うと?」
「石の組み方、加工の程度とか、やね」
「ああ、それなら福庭古墳の方がしっかり造ってあるな。切石のはめ込みもきっちり隙間無く仕上げてるし、段差をつけて石を組んでるあたりも、なにか木造建築からの応用みたいなのをイメージさせる」
「だろ?終末期の古墳ともなりゃ、石室にも当時の技術レベルがストレートに反映されるわけや」
「確か、木組みみたいな石の組み合わせがあったね・・・」
「それ、それよ。ああいうの、畿内にはあるんかね?」
「奈良のか?・・・いや、見てきた限りでは覚えとらんね。宇陀郡の渡来系の遺構も幾つか見たけど、木組みみたいな組み方は見たこと無いな」
「だろ?山陰じゃ古墳にも仏教建築からの影響がみられる。古代寺院の多さも伯耆は際立っとる。古代には相当の技術レベルが確立されてて、畿内よりも先進しとった部分があったと思う」
「それはそうやろうな。伯耆国は律令の制では中国にあたってるが、実質的には上国とみなしていい。因幡国は上国だが、その国力に見合った歴史がどうも感じられん」
「やっぱりそう思うか。いや僕も地元民のくせに因幡国にはあんまり歴史的な精彩を感じねえのよな」
「そこまで言うかね・・・。まあ地域の資源とか経済とか生産力を考えたら、伯耆国の方がちょっと勝ってるかな、という感触はある。古代の遺跡群の層の厚さはもちろんだが、中世戦国期の遺跡や歴史もなかなかの厚みがある。歴史に厚みがある、ってのは、だいたい古代の段階で相当の国力と生産力を持っていたことによって人や物資が集まったり交流が盛んだった流れがあったからやな」
「うん、そうやね」

色々話しつつ参道を戻り、本堂の前を過ぎました。一般公開寺院ではないので、見学は境内地のみとなります。

Kさんは、境内地よりも山門付近の彼岸花の景色に興味があったようで、そっちへ行って写真を撮ろう、と言ってきました。

確かに、美しい景色でした。山門付近を埋め尽くすように紅く咲き乱れる彼岸花の群生は、山名氏の哀しい歴史に手向けられるかのように、静かにそよ風に揺れていました。墓場の花として忌み避ける向きもあるようですが、個人的には秋の景色を彩る季節の花として、それ自体は綺麗な自然の姿の一要素として捉えています。
奈良に住んでいた時期にも、秋の景色を撮った写真が沢山ありますが、多くは彼岸花を被写体に加えています。曼珠沙華、という正式名称も、仏教文化の香りただよう奈良の風土にはむしろ相応しい、と思います。

山名寺を辞して、近くの田内城跡に移動しました。天神川に架かる巌橋の北側に突き出た岩山が所在地です。山名時氏が守護所を置いた場所とされますが、現存の遺構は戦国期の改修状況を伝えています。

隣のオムロンさんの正門前の車道脇に車を停め、登山口に向かいました。倉吉市内の城館遺跡は、ほとんどが標識や散策路を備えて見学も容易に出来ますが、市街地に近接する範囲においてはこの田内城跡が最も入り易く見学し易いです。

城跡のある岩山は仏石山といい、もとは仏教信仰の道場であったのかもしれませんが、いま南側の岩壁には「南無阿弥陀佛」の語句を刻んだ岩阿弥陀が祀られます。戦国期の天文十三年(1544)の天神川の大氾濫によって壊滅した城下町「見日千軒(みるかせんげん)」の死者の供養碑にあたります。
それを見上げつつ、Kさんの質問が始まりました。
「その「見日千軒」ってのが、山名時氏時代の倉吉の中心やったのかね?」
「そう。やから山名時氏は、見日千軒を見下ろす仏石山に守護所を置いて支配を行なったわけやな」
「千軒、って広島の福山の草戸千軒っていうあれと同じ意味なのか?」
「そう。中世期には地域の中心的な街区のことを千軒と呼んだ。千軒あるという意味じゃなくて、沢山の家屋が集まって街が形成されている、という意味やな」
「ふーん、古代には国府にあった街区が、中世にはこっちに移ったわけか。水運を交通の要にする中世期ならばでの現象なんやねえ」
「そう。水運や海路が重視されたから、鎌倉期にはもう主要街区が川か海に接して発展しているケースが見られる。京都でも平安京よりも巨椋池に面する地域が発展したし、奈良では大和川流域に中心街が移動してる。因幡でも国府より北に街区が移って千代川と湖山池のエリアに政治の中心が移動している。因幡山名氏の守護所の布施天神城はその象徴的な結果やね」
「なるほど。するとここでは見日千軒が中心街になって、それが氾濫で全滅してしまったから、新たな中心街を倉吉に移して再建したということか」
「時系列的にはそれで大体合ってる筈。倉吉という地名自体がな、一次史料のうえでは十六世紀にならないと出てこないんで、たぶん山名時氏やその嫡男の師義の時期には、いまの倉吉というのは地名も街もまだ無かったんやろう、と思うね」
「ふーん、するとこの「見日町」ってのが、かつての見日千軒の位置なのか?」
Kさんは地図を広げながら、いま石谷精華堂やスーパーヒーローなどがある場所を指して聞きました。
「厳密にはもう少し東寄り、いまの巌橋の両側の河川敷あたりになると思う。氾濫で天神川の流路も変わってしまってるんで。以前は小鴨川ともども違うコースを流れてたけど。中世期には暴れ川と恐れられて度々水害を出しているが、その最大のやつが天文十三年の大氾濫やったらしい」
その供養碑が、あの立派な岩阿弥陀なのでした。

田内城へは、北および西麓の墓地から参道を経て登りました。墓地から外れて散策路を登ると、尾根筋に堀切や平坦地が見え始め、やがて土塁状の高まりを伴う虎口状の部分を通りました。Kさんは田内城跡へは初めての訪問になるので、周囲を見回しつつ、私が持参した縄張図を参考にして色々と観察していました。
古代の遺跡は埋もれてしまっていて、発掘でもしないと姿も分からないのが普通ですが、中世戦国期の城跡などはまだ埋まっていないケースが殆どで、堀や郭などの遺構は今でも大体認められて容易に見学することが出来ます。だから、遺跡散策を楽しむならば中世戦国期のそれが一番面白い、というのが私なりの持論です。

丘上の頂上の平坦地に着きました。ここが城跡の主郭にあたります。近世城郭では本丸と呼ばれる場所に相当し、いまは上図のごとく近世風の模擬櫓が建てられています。
ですが、中世戦国期の田内城にこのような建物が存在した筈は無く、当初は守護所の館と付属建築、後には戦国期の城砦としての最小限の設備しか無かった筈です。
近世には廃されていた田内城ですので、このような近世風の模擬櫓を建ててしまうと、あらぬ誤解も出てくるでしょう。状況が許せば、こういった模擬施設は撤去し、遺構の実年代に見合った考証をもとにした復原模擬施設を暫定的に具体化したほうが、遺跡の周知や社会教育効果なども効果的なものになると思います。

模擬櫓の壁面に埋め込まれた解説板です。内容的には推測も混じるので再検討の余地が多いです。特に山名時氏の嫡男の師義が打吹城を築いて移った、というくだりは二次史料の「陰徳太平記」に拠ったもののようで、信憑性には疑問がもたれます。
打吹山城は、現存遺構からみる限りでは戦国期の様相が濃く、山名師義の時期まで遡るかどうかは確証がありません。一次史料に城名が「宇津吹城」または「倉吉城」と出てくるのも、十六世紀後半になってからなので、山名氏が守護職として大いなる権勢を発揮していた十四世紀代に、果たして打吹山城が存在したのかどうかは、現時点では確証がありません。
それらの事をかいつまんで説明すると、Kさんは感心しながら「中世戦国期の歴史もまた謎だらけなんやね。謎解きの面白さは古代に劣らないんやね」と言いました。
全くその通りです。日本の歴史で一番面白いのは、中世戦国期のそれである、と個人的には常に感じております。 (続く)