上御霊前通を西へ進むとまもなく、かつての京七口のひとつであった清蔵口の交差に突き当たります。ここで南北に通る小川通と交わりますが、その辻の北東に広大な寺地を構える妙覚寺があります。上図は上御霊前通に面する妙覚寺の大門です。
上図の説明板にあるように、寺伝によれば天正十八年(1590)に豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文三年(1663)に当地に移建したものとされています。
ですが、実際に建物の細部を見たところでは、古材が混じっており、もう少し建築年代が遡るかもしれません。いずれにしても織豊期の建築であることは間違いないので、寺伝にしたがえば西本願寺飛雲閣、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構であることになります。
上図のように、両潜(りょうくぐり)扉がつけられる点は城郭の門の特徴のひとつです。梁の上には束が無いので一定の空間がありますが、俗に伝えられるところの伏兵を隠す場所であったかは確証がありません。
この門建築の立派さは内側からみてもよく分かります。寺院の門には不釣り合いなほどの大きな間口、太い四脚と長い長押が目立ちます。屋根を支える小屋組みに江戸期の追加工作が加わっていますが、要するに移築前の姿とは少し変わっているのでしょう。この規模の門にしては造りがやや地味ですが、聚楽第の裏門だったのであれば違和感はありません。
大門からは本堂が望まれます。京都の多くの古刹がそうであるように、この妙覚寺も何度か移転しています、創建時には四条大宮に在りましたが、二条衣棚、泉州堺と移転し、三度目に二条衣棚の旧地に戻りますが、天正十年(1582)6月2日の本能寺の変にて本能寺に次ぐ明智光秀軍の攻撃目標となりました。変の当日に織田信長の嫡男の織田信忠がこの妙覚寺に泊まっていたためです。
しかし、信忠が明智の謀反を知って二条御所へ移動し、敵を迎え撃ったためか、妙覚寺に戦火が及んだ形跡は史料の上では確認出来ていません。明智勢によって放火され焼失したのは本能寺と二条御所の一部、としか諸史料には書かれていないからです。
織田信長といえば、本能寺によく泊まったというイメージがありますが、実際にはこの妙覚寺のほうが京滞在中の定宿でありました。本能寺に斃れるまで信長は20度余り京に滞在していますが、本能寺に泊まったのは3度だけで、妙覚寺には18度も滞在しています。つまりは妙覚寺のほうが信長にとっては居心地が良かったわけでしょう。
なにしろ、妙覚寺は、信長の岳父であった斎藤道三入道秀龍の父松波庄五郎が出家得度したところです。したがって斎藤道三とも関係が深く、信長が泊まった頃の住持十九世の日饒は道三の四男でした。つまり日饒は信長の義弟にあたるわけで、要するに織田家の縁戚の一人でした。
20度余りの京滞在のうちに18度までを妙覚寺で過ごしたのも、信長にとって斎藤家ゆかりの寺であり、とりわけ懐かしい岳父道三の思い出が鮮やかであったからでしょう。
妙覚寺を辞して清蔵口の交差点に行きました。上図の通りが小川通で、かつてはこの西側に沿って小川(こかわ)が流れていたため、扇橋と呼ばれる橋も架けられていました。現在の当地の地名も扇町で、中世戦国期には扇辻子(おうぎずし)と呼ばれた場所です。
辻子とは平安期以来の言葉で交差点を指しますが、中世戦国期にはこの扇辻子、清蔵口に上京の惣構の門が置かれていました。ここから南に続く小川通は、管領細川京兆家の屋敷に面した上京のメインストリートの一つでしたから、足利将軍以下幕府重臣、諸国守護も行き来していた筈です。
その小川通を、かつての扇辻子、清蔵口より見たところです。 (続く)
妙覚寺の地図です。