報恩寺の東門は、かつて小川に面していましたので、それに架かる石橋がいまも残っています。江戸期の慶長七年(1602)架橋の刻銘があります。本法寺の石橋とともに小川の名残をとどめる遺構として知られます。それ以前の橋は、おそらく板橋であったものと推定されます。
石橋から横を見ますと、このように小川の跡が細長い空間となって残されています。いまは境内外縁の通路として使用されているようです。
報恩寺の東門と石橋をあらためて振り返りました。
報恩寺門前より再び南下して上立売通に出て左折し、次の辻で右折して、上図の小川通に戻りました。左手に小川児童公園がありますが、この辺りはかつては摂家近衛氏の屋敷地の付近にあたり、「洛中洛外図」でも「近衛殿」と記されます。「近衛殿」は近衛家17代当主の左大臣近衞前久(このえさきひさ)にあたります。左大臣は太政官の職務を統べる議政官の首座ですから、今でいうと総理大臣にあたるポストです。
そしてこの通りの東側に「高畠甚九郎」の屋敷地がありました。「高畠甚九郎」とは細川氏の家臣であった高畠伊豆守長直にあたります。通りの西側には「飛鳥井殿」の屋敷地がありました。「飛鳥井殿」とは藤原北家師実流(花山院家)の一つ難波家の庶流であった飛鳥井家のことで、「洛中洛外図」が描かれた頃の当主は第13代の権大納言飛鳥井雅庸(あすかい まさつね)でした。
つまり、この辺りはかつての上京の中心地であり、当時の幕府および朝廷のトップクラスの重臣の屋敷が並んでいた地域です。
小川通と交差する上立売通です。中世戦国期を通じて上京の東西路として機能し、足利氏の御所および菩提寺への連絡路でもありました。東は室町御所に接し、西は北山御所や等持院にも繋がる重要な街路として、南北路の室町通と並んで重視された通りです。
この上立売通の北側は、「洛中洛外図」では「細川殿」と記されます。室町幕府の管領職を務めた細川京兆家、右京太夫の屋敷地です。当時の当主は15代の細川高国または16代稙国の父子にあたります。
向かいの小川児童公園に建つ案内板です。「細川殿」の屋敷地を11代細川勝元以来のそれと見なす見解に拠って述べられていますが、考古学的な知見は未だに得られていませんから、確証はありません。
最近の研究動向によれば、細川管領家の屋敷は応仁の乱前後に移転している可能性があるようで、もとは室町御所に近い所、寺之内通の南に位置していたとの推論もあるようです。いずれにせよ、発掘調査で確定したわけではないので、今後もしばらくは謎の部分が多いままとなるでしょう。
案内板の上京復原推定図を見ると、この大して広くない範囲に足利将軍の室町第をはじめ、細川氏、畠山氏、山名氏ら幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷が集まっていたことが分かります。まさに中世戦国期の日本の政治機能の中心地でしたが、首都と呼ぶにはいささか貧弱な様相であったようです。いまの京都市街の10分の1にも満たない面積であり、防御線として堀や土塁を設けて構の形態を示していました。
これで上京の史跡の大半は回りましたので、小川児童公園にて、お茶を飲みながら一休みしました。
それから小川通をふたたび南下して、今出川通との交差点を通りました。中世戦国期の上京の南限は一条通であったので、この辺りにも幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷地が並んでいました。
最後の目的地は、かつての上京の宗教的エリアとされて信仰の結集点とされた小川通沿いの寺院群の旧跡でした。上図の案内板にあるとおり、現在は丸太町寺町にある革堂行願寺などが、中世戦国期にはこの辺りに並んでいました。
他に六角通の誓願寺、百万遍の知恩寺もかつてはこの地において甍を並べていたのですが、いずれも豊臣秀吉の街区再編事業によって移転させられ、それぞれの現在地へ移りました。
革堂行願寺などの旧跡の一部は、現在は小川通の西側にある「小川なかよし広場」となっています。前掲の案内板も広場内に建ちます。
「小川なかよし広場」から小川通を今出川通へ引き返す途中、西側の京都市立みつば幼稚園の敷地内にある上図の旧石橋の遺品を見ました。今出川通の小川にかつて架かっていた石橋の親柱です。左が今出川通、右が小川の名を刻してあります。かつての小川の名残の一つです。
以上で、中世上京エリアの散策を終えて、近くの上京総合庁舎前から市バスに乗って帰りました。 (了)