気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

中世上京を歩く その7 報恩寺の内外

2021年01月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宝鏡寺の辻、「百々橋ひろば」からの小川通は、もとは「洛中洛外図」に描かれる通りにまっすぐ南下していましたが、その後の街区再編によって東にずれており、現在は東へ二番目の辻まで進んで右折し、再び南下するルートになっています。
 しかし、町並みの様子をみるに、もとは東へ一番目の辻で右折するほうもかつては小川通だったのではないかと思います。この通りのほうが立派な構えの古民家が多く、上図のように現代の民家と入り混じって並びます。

 

 とりあえず、この東へ一番目の辻で右折するほうの通りを南下しました。現在の小川通のひとつ西側の通りです。この通りに立ち寄りたい寺院が一ヶ所あったからです。

 

 その立ち寄りたい寺院とは、報恩寺でした。上図は門前に立つ案内板です。

 

 案内板は寺号標柱の脇に立てられています。標柱の横から参道が山門へとのびています。

 

 立ち寄った理由は、まだ未訪の寺であったのと、上図の国重要文化財の梵鐘を拝見するためでした。実は平安時代の梵鐘というのは大変に数が少なく、京都市においてはいわゆる日本三大名鐘のうちの二つ、神護寺梵鐘と平等院梵鐘がありますが、その他の遺品はあまり伝わっていません。

 

 なので、この報恩寺梵鐘は日本国内でも数少ない平安期梵鐘の貴重な遺品であるわけです。私自身は平安期梵鐘を京都以外では滋賀県の佐川美術館、奈良の栄山寺の二ヶ所でしか見た事がありませんので、今回の散策では報恩寺梵鐘をどうしても見ておきたかったのでした。

 上図のように、平安期の梵鐘としては古式を示します。笠形が割合に高く、細長いスマートな形態の梵鐘で、見た感じでは栄山寺梵鐘に似ている気がします。乳の形もシンプルで、八角素弁小形の撞座(つきざ)が龍頭(りゅうず)の方向と直交するあたりは天平時代ふうの伝統的要素です。池の間(いけのま)に金剛界四仏を籠字(かごじ)であらわし、その下に梵文の真言を刻んでいますが、これはあまり類例を思いつかない珍しい意匠です。

 

 梵鐘を吊るす鐘楼の横には無縁墓地があり、数多くの石仏や板碑、五輪塔が集められていますが、ほとんどが中世戦国期の古い遺品なので、石造品の歴史も勉強した身としては色々と興味深いものがあります。応仁の乱の戦没者の関連品も相当数混じっているのではないかと思います。

 

 報恩寺は、寺伝では室町時代に一条高倉に開創したと伝わります。もとは法園寺または法音寺という天台・浄土の兼宗寺院でしたが,文亀元年(1501)に堀川今出川に移転,浄土宗報恩寺と改めました。さらに天正十三年(1585)に豊臣秀吉の街区再編事業により現在地に移され、享保・天明の大火に類焼したものの、いまに至っています。

 

 境内にあるこの丸い石、どうみても礎石なんですね・・・。かつての堂宇のそれでしょうか。

 

 さらに気になるのが、寺の山門である東門の建築です。寺院の正門にはめずらしい高麗門の形式です。屋根は近年に葺き替えられているようですが、鏡柱や控柱などの軸部はかなり古く見えますので、江戸期ぐらいの建物のようにみえます。寺でも案内文を出しておらず、京都府の指定文化財建築リストにも載っていませんので、実年代はもっと新しいのかもしれません。  (続く)

 


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