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山崎の合戦 天下分け目の天王山

2018-06-13 21:57:21 | BOOK/COMICS
6月13日は山崎合戦の日
本能寺で討たれた織田信長の弔い合戦として、羽柴秀吉と明智光秀が戦った日。(西暦だと7月2日だけどね)

山崎と言えばサントリーのウイスキー山崎とか工場が有名だけど、これが実は大阪府側にあることはあまり知られていない。

山崎は大阪府三島郡島本町山崎(サントリーの工場はこっちね)と京都府乙訓郡大山崎(アサヒビール大山崎山荘美術館はこっちね)にまたがってる。阪急電車の大山崎駅とJRの山崎駅があり、その距離は徒歩2-3分で阪急富田駅とJR摂津富田駅よりも近い。

多くの人が甲子園球場が兵庫県ではなく大阪と勘違いしてるように、東京ディズニーランドが千葉だと知らないというのと同じで、天下分け目の天王山とか、山崎の戦いとか揶揄されるこの場所は、摂津(今の大阪府)と山城(今の京都府)の境である。
まぁ、どんな有名な合戦の場所も、実際どこにあるのかわかっていないってのは多いけどね。

関ヶ原の戦い=岐阜県不破郡
川中島の戦い=長野県長野市
三方ヶ原の戦い=静岡県浜松市
賤ヶ岳の戦い=滋賀県長浜市
長篠の戦い=愛知県新城市
桶狭間の戦い=愛知県豊明市
源平合戦の壇ノ浦の戦いや、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島は山口県の下関市だ。

6月2日に本能寺にて明智光秀が織田信長を討った。
なぜ光秀が謀反を起こしたか、なぜ信長の首は出なかったのかとか、日本の歴史でミステリーとされる本能寺の変。
高松城を包囲してた秀吉の援軍に行くのが嫌だったとか、領地丹波の国替えを指示されたのが不服だったとか、家康の饗宴をボロクソに言われた恨みとか、身内(信忠)に全権を譲る信長に呆れたとか、秀吉・家康・公家の陰謀説とかいろいろあるけど、いろんな文献や歴史本見ても読んでもさっぱりわからないとこが謎。坂本龍馬の暗殺と同じく歴史ファンによっていろんな説があるけどね。

知らない人はいないと思うが、本能寺の変から山崎の合戦までを一気におさらい。

秀吉の援軍のために一度は坂本城から丹波亀山に移動した光秀が、1万3000人の兵には詳細を言わず「敵は本能寺にあり」(本当に言ったかどうかは不明)と京に戻り、本能寺にて信長を、二条城にて嫡男信忠を討った。

中国地方で毛利(毛利輝元・小早川隆景・吉川元春)攻めをしてた秀吉は6月3日に訃報を知り、急遽水攻めで陥落手前の高松城城主清水宗治の自刃で毛利と和解。全軍撤退して7日に姫路城11日には尼崎に入った。今でも理論上不可能と言われるこれが俗に言われる中国大返しである。

四国の長曾我部征伐のために大坂(現・大阪)にいた信長の三男・織田信孝(神戸信孝)と家康の接待で堺にいた信長四天王の一人丹羽長秀(羽柴秀吉の羽は丹羽から頂いた)と合流。中川清秀や高山右近ら摂津の大名も合流し、富田で作戦会議をして信孝を総大将として2万(最終的には約4万)の軍で光秀と戦うことを決める。

家康は謀反の報せを聞き次は自分が狙われると一目散に境から脱出。服部半蔵や堺衆のおかげで伊賀越えという陸路〜海路で駿河に逃げ帰る。

明智光秀は謀反後京の治安維持と安土に行き柴田勝家に対し防衛線を張る。そして新しい政権確立に奔走するが、秀吉があっという間に戻ってきたことによって誤算が生じる。味方になってくれると思ってた筒井順慶や細川幽斎・忠興(奥さんは光秀の娘ガラシャ)親子が動かず、少ない軍勢のまま秀吉と戦うことになる。

山崎に布陣した秀吉軍と光秀軍の本格的な戦闘が始まったのは13日の午後4時くらいだと記録に残ってる。
わずか数時間で決着のついたこの山崎の戦い。敗走した明智軍は勝龍寺城に行くが、夜になり光秀はこの城を抜け出し坂本城に戻ろうとするが、途中で(伏見あたりと言われてるが長岡京あたりとも言われてる)落ち武者狩りにあって絶命。なぜか首は上がっていない。

この合戦の明暗を分けたのが天王山の制圧。合戦場を見下ろし動きを把握できるこの場所は今ではハイキングの名所だ。
8合目には旗立松という場所があり、この合戦時に秀吉が千成り瓢箪の旗印を掲げた場所と言われてる。
この場所からは桂川・宇治川・木津川が淀川になる三川合流の場所を一望できる。



この天王山には、幕末の禁門の変で敗退し自刃した長州藩の真木和泉他17名の墓、十七烈士の墓もある。
名神高速の天王山トンネルは、以前は最も渋滞と事故があると言われた場所で、明智軍の落ち武者や長州藩烈士の怨念のせいとまで言われてた。
ちなみに先日の山中にバラバラ遺体が捨てられてた島本町はここから車で数分の場所だ。

宝積寺は724年に聖武天皇の勅命で行基が建てたと言われる真言宗の寺院。秀吉が一夜で建てたと言われる三重の塔(一夜の塔)がある。
秀吉は大阪城築城までこの山崎に立てた山崎嬢を本拠地にしてた。
離宮八幡宮や、妙喜庵(千利休の待庵/国宝)などもある。

ついでにその後の織田家の流れも書いておこうか。

織田四天王の一人、柴田勝家は上杉と対峙しててため山崎の合戦までに戻れなかった。
滝川一益も北条と戦っていたため戻れなかった。
池田恒興は秀吉軍にいち早く合流し、天王山の戦いでは最前線で戦った。
丹羽長秀も秀吉軍の参謀として織田信孝のサポート兼ねて参戦。

山崎の合戦後、清洲会議で領地分配や今後の織田家のことの話し合いをしたらしいが、上記のことから秀吉の独壇場だっただろうな。

これはあまり知られてない話だが、清洲会議で秀吉が担ぎ上げた三法師。織田信忠の嫡男は織田秀信となり、秀吉の庇護のもと13万石の大名となっている。関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗戦後は出家して高野山に行き、そこで亡くなってる。

山崎の合戦で総大将を務めた織田信孝は柴田勝家や滝川一益と組んで秀吉と賤ヶ岳の戦いをするが負けて自害する。
柴田勝家は追撃してきた秀吉軍の前で、信長の妹お市の方(浅井長政の妻)とともに自爆。
秀吉と夫婦ともに仲の良かった前田利家は柴田軍だったが、戦線から離脱。のちに加賀100万石の領主になる。
滝川一益は賤ヶ岳の戦い後は秀吉に臣従。

織田信長の次男・信雄は徳川家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦うが、勝手に秀吉と和解したりする困ったちゃん。関ヶ原の戦いの後は大和国5万石の領主。

徳川家康は伊賀越えで駿河に戻った後すぐに光秀討伐に向かおうと思ったが、山崎の合戦の報を聞き武田領(甲斐・信濃)を攻める。その後信雄と組んで小牧・長久手の戦いを秀吉相手にして優勢を誇るが、勝手に信雄が和解しやがるから大義名分がなくなりどないせいって感じになる。

小牧・長久手の戦い家康についた元柴田勝家の家臣・佐々成政は真冬のアルプス越えを敢行した。同じくこの戦いで池田恒興が戦死する。

そして四国の長曾我部、九州の大友や島津、北陸の上杉、関東の北条、東北の伊達や蒲生を制し、秀吉の天下になる。
天下取りのきっかけになった天王山、山崎の戦い。

つわものどもが夢の跡。
再来年の大河ドラマ「麒麟がくる」(長谷川博己主演)でこの山崎の合戦がどう描かれるか楽しみだ。
真田丸の三谷幸喜のように手抜きでナレ死とかにしたら怒る。