(前編からの続き)
もう少し私見を述べる。
報道されている事実を見聞きする限り、確かに中国の言動は身勝手に感じる。小生とて、つい感情的になってしまいそうになる。
だが、これは「中国人は我儘で自分勝手」というのとは、少し違うと思う。中国という国の特徴を織り込んだ上で捉えなければならない問題ではないかと思うのだ。
中国の特徴。それは人口が世界一で、近年急速な経済発展により国力を高めている、というものだ。
単独でいるよりも、集団で行動している時のほうが気が大きくなり、単独ではやらないような大胆な振る舞いをしてしまう、という経験はないだろうか。いわゆる集団心理というやつだが、これと同じ作用が国のレベルでも生じ得ると思うのである。
中国が傍若無人な振る舞いをするのは、決して中国人が傲慢なわけでも、それが中国の国民性であるわけでもなく、中国が大国であるという社会的背景が中国人を傍若無人な行為に向かわせているのではないか。それが証拠に、「個人的に接してみると、中国人の一人一人はみんな良い人」という証言は、いくらでも存在する。
かつて石原慎太郎が東京都知事時代に、「中国人は民度が低い」などと呼ばわったことがあったが、これなどは論外である。他国民を公然と侮辱する輩が都の代表に選出されていたという事実は、「日本国民の民度の高さ」を証明することにはならない。
今の中国から感じる傲慢さは、かつてのアメリカ――世界のリーダーと謳われ、地上に敵なしであった頃のアメリカ――から感じられたそれと同種のものであろう。(なので、ここで言う「大国」とは、単に人口が多いというだけでなく、経済力や軍事力の高さも構成要件とする)
また、次のような見方もある。
ビザンチン帝国、またの名を東ローマ帝国。四世紀から一五世紀まで地中海沿いに存在した。長い国境線を有し、さまざまな異民族と境界を接し、しばしば領土を侵犯され、崩壊の危機にいつも怯える。そういう内陸型の巨大国家の宿命を長く引き受けた。その国のかたちがロシア帝国へ、ついでソ連へと、ギリシア正教の移入とともに受け継がれているのではないか。(中略)
「ビザンチン型」の帝国であるソ連は、ユーラシア大陸の内側に位置する大国として、とてつもない長さの地続きの国境線を有している。その気になれば、いつでもどこからでも侵入されてしまう。やられてしまう。地続きというのはそういうことだ。真の安心がない。いつも不安である。それが歴史の記憶としてロシア人にしみついている。
ならどうするか。常に先手を打ち続けるしかない。向こうが来る前にこっちから行く。それゆえに「ビザンチン型」の帝国、ソ連はいつも際限なく間断なく広がろうとする。国の本能である。相手のあるところを侵蝕するのだからリスクを伴う。が、歩みを止め、相手に猶予を与えては、逆に侵蝕される。だから歩みは止められない。日々やるかやられるか。ギリギリのところで勝負を続ける。(中略)「ビザンチン型」の世界に属する人間にはそのように生きる習性が備わっている。
(片山杜秀『見果てぬ日本――司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』新潮社)
「とてつもない長さの地続きの国境線を有している」のは、中国も同様である。であれば、ここで指摘されているのと極めて近い精神性を、中国社会が胚胎している可能性は高い。その心的作用の極端な発露が、世界最大の建築物たる「万里の長城」なのではないだろうか。(ひとつ注意しておくが、引用文で主張されているのは、「ビザンチン型」なる精神性が、実体として存在する、ということではない。ソ連(ロシア)を見るときに、「ビザンチン型」というフィルターを通して眺めると、それまで見えなかったものに気付ける、ということである。それは、これまでとは違った面を提示するためのフレームワークであり、実体ではない。わが国における「大和魂」のようなものだ。「全ての日本人には大和魂が備わっている」とか、「大和魂は実在する」などと断ずることはできない)
やはり、国民性だとか、国民一人一人が何を考えているかとは無関係に、「大国であること」それ自体が言動を方向付けてしまう、という作用があるのだ。そういう、一人一人の意志ではどうにもならない面をも織り込んだ上で、国際問題は考えられねばならない。
ま、感情的にならず、ひとつ冷静に、ということですな。
オススメ関連本・鈴木秀明『中国の言い分――なぜそこまで強気になるのか?』廣済堂新書
もう少し私見を述べる。
報道されている事実を見聞きする限り、確かに中国の言動は身勝手に感じる。小生とて、つい感情的になってしまいそうになる。
だが、これは「中国人は我儘で自分勝手」というのとは、少し違うと思う。中国という国の特徴を織り込んだ上で捉えなければならない問題ではないかと思うのだ。
中国の特徴。それは人口が世界一で、近年急速な経済発展により国力を高めている、というものだ。
単独でいるよりも、集団で行動している時のほうが気が大きくなり、単独ではやらないような大胆な振る舞いをしてしまう、という経験はないだろうか。いわゆる集団心理というやつだが、これと同じ作用が国のレベルでも生じ得ると思うのである。
中国が傍若無人な振る舞いをするのは、決して中国人が傲慢なわけでも、それが中国の国民性であるわけでもなく、中国が大国であるという社会的背景が中国人を傍若無人な行為に向かわせているのではないか。それが証拠に、「個人的に接してみると、中国人の一人一人はみんな良い人」という証言は、いくらでも存在する。
かつて石原慎太郎が東京都知事時代に、「中国人は民度が低い」などと呼ばわったことがあったが、これなどは論外である。他国民を公然と侮辱する輩が都の代表に選出されていたという事実は、「日本国民の民度の高さ」を証明することにはならない。
今の中国から感じる傲慢さは、かつてのアメリカ――世界のリーダーと謳われ、地上に敵なしであった頃のアメリカ――から感じられたそれと同種のものであろう。(なので、ここで言う「大国」とは、単に人口が多いというだけでなく、経済力や軍事力の高さも構成要件とする)
また、次のような見方もある。
ビザンチン帝国、またの名を東ローマ帝国。四世紀から一五世紀まで地中海沿いに存在した。長い国境線を有し、さまざまな異民族と境界を接し、しばしば領土を侵犯され、崩壊の危機にいつも怯える。そういう内陸型の巨大国家の宿命を長く引き受けた。その国のかたちがロシア帝国へ、ついでソ連へと、ギリシア正教の移入とともに受け継がれているのではないか。(中略)
「ビザンチン型」の帝国であるソ連は、ユーラシア大陸の内側に位置する大国として、とてつもない長さの地続きの国境線を有している。その気になれば、いつでもどこからでも侵入されてしまう。やられてしまう。地続きというのはそういうことだ。真の安心がない。いつも不安である。それが歴史の記憶としてロシア人にしみついている。
ならどうするか。常に先手を打ち続けるしかない。向こうが来る前にこっちから行く。それゆえに「ビザンチン型」の帝国、ソ連はいつも際限なく間断なく広がろうとする。国の本能である。相手のあるところを侵蝕するのだからリスクを伴う。が、歩みを止め、相手に猶予を与えては、逆に侵蝕される。だから歩みは止められない。日々やるかやられるか。ギリギリのところで勝負を続ける。(中略)「ビザンチン型」の世界に属する人間にはそのように生きる習性が備わっている。
(片山杜秀『見果てぬ日本――司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』新潮社)
「とてつもない長さの地続きの国境線を有している」のは、中国も同様である。であれば、ここで指摘されているのと極めて近い精神性を、中国社会が胚胎している可能性は高い。その心的作用の極端な発露が、世界最大の建築物たる「万里の長城」なのではないだろうか。(ひとつ注意しておくが、引用文で主張されているのは、「ビザンチン型」なる精神性が、実体として存在する、ということではない。ソ連(ロシア)を見るときに、「ビザンチン型」というフィルターを通して眺めると、それまで見えなかったものに気付ける、ということである。それは、これまでとは違った面を提示するためのフレームワークであり、実体ではない。わが国における「大和魂」のようなものだ。「全ての日本人には大和魂が備わっている」とか、「大和魂は実在する」などと断ずることはできない)
やはり、国民性だとか、国民一人一人が何を考えているかとは無関係に、「大国であること」それ自体が言動を方向付けてしまう、という作用があるのだ。そういう、一人一人の意志ではどうにもならない面をも織り込んだ上で、国際問題は考えられねばならない。
ま、感情的にならず、ひとつ冷静に、ということですな。
オススメ関連本・鈴木秀明『中国の言い分――なぜそこまで強気になるのか?』廣済堂新書