日本人は破滅を求めているのだろうか。
もとより、インターネットの匿名の場では、「こんな国滅びればいい」などという怨嗟の声はいくらでもあった。しかし最近、著述家の間でも破滅願望を指摘し、警鐘を鳴らす声が上がっているようだ。
例えば、思想家の内田樹はこう述べる。
多くの人がこの国にうんざりしているというのは事実なんです。過労死寸前のサラリーマンでも誰でも、みんなこんな生活は嫌だと思っている。それが、選挙を通じて政権を代えて漸進的に変化するのではなく、「こんな国もう壊したらいいんじゃないか。いっそ戦争でもしてみたらいいんじゃないか」というふうに表出している。「一回壊しちゃえばいいんだよ」というような絶望的な思いはこの体制下で苦しんでいる人たちの中に確かにあると思います。
(中略)
「ガラガラポン」願望です。ガラガラポンに類する言葉って、たぶん他の国の言語にはないんじゃないかな。ヨーロッパでは、ドイツでもイタリアでも、市街が空襲で焼き払われたあと、中世の都市をそのままに再構築しますよね。でも、日本はそういうことをしなかった。まったく違う町並みを作った。それに飽きたらまたそれを壊して、次のものを作る。変なものを作って、すぐ嫌になって、嫌になったら全部壊す。これって『方丈記』以来の日本人の心性かもしれないです。
(内田樹、福島みずほ『「意地悪」化する日本』岩波書店)
また、評論家の佐藤建志は次のように述べている。
彼[引用者注・哲学史家のスティーブン・トゥルミン]によれば「ご破産で願いましては神話」こそ、近代の改革志向の根底にある発想です。
簡単に要約すれば以下のとおり。物事がうまくいっていないときは、障害となっている要因をできるだけ徹底的に解体し、一から新たに作り直すのが良い。ゆえに社会システムが機能不全に陥っているときは、システム全体をいったん破壊するのが正しい対応である。
(中略)
「ご破産で願いましては神話」の問題は、破壊が美化されてしまうこと。現在のシステムに問題があるとしても、すべてをいったんチャラにしたあとで、もっと良いシステムが作られるという保証はどこにもない。
いや、たいていの場合は「今までのシステムの良い点まで壊したあげく、欠点だらけの新システムを苦しまぎれにでっちあげる」という、洒落にならない結末を迎える。歴史上、「ご破産で願いましては神話」を初めて本格的に実践したフランス革命は、みごとにそうなりました。
(佐藤建志、中野剛志『国家のツジツマ――新たな日本への筋立て』VNC新書)
内田の言う「ガラガラポン願望」と、トゥルミン、及び佐藤の言う「ご破産で願いましては神話」は、同じ心的欲求を指し示しているとみていいだろう。たったふた例しか取り上げられないのは恐縮だが、同様の主張をしている知識人は、探せばまだまだ見つかる筈である。
ところで佐藤は、「ポップカルチャーを通じて現実社会を分析する」手法を得意としているが、その題材として最も多く俎上にのせているのが『ゴジラ』である。
『震災ゴジラ!』でも触れましたけど、東日本大震災が発生したとき、いわゆるインテリを中心に、世直し実行(=抜本的な構造改革)のチャンスが転がり込んできたかのごとくハシャいだ連中が少なからずいます。(中略)
被災地や被災者のことをどう思っているのかと言いたくなるものの、「ご破産で願いましては神話」のもとでは、むしろ当然なんですね。この神話に取りつかれると、物事がうまくいくのを阻害している原因を見つけだし、破壊しなければならない強迫観念に駆られる。
(中略)
物事がうまくいかないからには、まだ破壊が足りなかったんだと考え、より大きな破壊を待ち望むようになるのです!震災でも不足だった以上、次はゴジラにでも来てもらい、何もかもぶち壊してグレート・リセットしなければ、そんな話になるでしょう。
日本の保守派の多くは、このような意味で、ひそかにゴジラを夢見ています。
(前掲書)
また佐藤は、『震災ゴジラ!』の中で、戦後日本は虚妄であるとも述べている。
太平洋戦争時、一億玉砕を唱えていながら、最後はあっさりと降伏に転じ、それまで鬼畜と呼んでいた相手にすり寄るいう変節を見せ、それとともに、自国の正義と信じてきたものを「悪しき帝国主義的な野望」として否定した。あまつさえ、「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」と呼び変えたり、戦後復興を遂げると、「繁栄こそが勝利なのだ」と主張するなどして、戦争に負けた事実を糊塗しようとした。そのことによって、戦後の日本は虚妄を孕んでおり、その後ろめたさから、歴史に筋を通すために、「本土決戦を遂行したい願望」を抱くようになった。
そして、その願望の反映こそが、繰り返し何度も日本に来襲するゴジラである、というのだ。(もっとも、佐藤によれば戦後のみならず、戦前の日本も虚妄であるという。詳しくは『震災ゴジラ!』を読まれたし)
ゴジラといえば、小生にも思い当たるフシがある。
第一作目の『ゴジラ』に関してだ。同作には、テレビ塔の展望台で中継を行っていたレポーターがゴジラに襲撃され、「さようなら、みなさんさようなら」と叫び、タワーと共に倒壊する、有名なシーンがある。
小生は、映画を頭から通して鑑賞する前に、この場面だけをテレビの特番か何かで観ていた。で、「このレポーターは、ゴジラに襲われる直前に展望台を脱出するつもりでいたのだが、停電か何かのイレギュラーな事態の発生により展望台に閉じ込められてしまい、やむを得ず腹をくくって最期までレポートを続けることにしたのだろう」と思っていた。
しかし、そうではなかった。
後年、改めて『ゴジラ』を観てみると、展望台から脱出できなくなる事態は、何ら発生していなかったのだ。レポーターは、逃げられるのに逃げなかったのである。
これには結構驚いた。
(後編に続く)
オススメ関連本・大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』岩波新書
もとより、インターネットの匿名の場では、「こんな国滅びればいい」などという怨嗟の声はいくらでもあった。しかし最近、著述家の間でも破滅願望を指摘し、警鐘を鳴らす声が上がっているようだ。
例えば、思想家の内田樹はこう述べる。
多くの人がこの国にうんざりしているというのは事実なんです。過労死寸前のサラリーマンでも誰でも、みんなこんな生活は嫌だと思っている。それが、選挙を通じて政権を代えて漸進的に変化するのではなく、「こんな国もう壊したらいいんじゃないか。いっそ戦争でもしてみたらいいんじゃないか」というふうに表出している。「一回壊しちゃえばいいんだよ」というような絶望的な思いはこの体制下で苦しんでいる人たちの中に確かにあると思います。
(中略)
「ガラガラポン」願望です。ガラガラポンに類する言葉って、たぶん他の国の言語にはないんじゃないかな。ヨーロッパでは、ドイツでもイタリアでも、市街が空襲で焼き払われたあと、中世の都市をそのままに再構築しますよね。でも、日本はそういうことをしなかった。まったく違う町並みを作った。それに飽きたらまたそれを壊して、次のものを作る。変なものを作って、すぐ嫌になって、嫌になったら全部壊す。これって『方丈記』以来の日本人の心性かもしれないです。
(内田樹、福島みずほ『「意地悪」化する日本』岩波書店)
また、評論家の佐藤建志は次のように述べている。
彼[引用者注・哲学史家のスティーブン・トゥルミン]によれば「ご破産で願いましては神話」こそ、近代の改革志向の根底にある発想です。
簡単に要約すれば以下のとおり。物事がうまくいっていないときは、障害となっている要因をできるだけ徹底的に解体し、一から新たに作り直すのが良い。ゆえに社会システムが機能不全に陥っているときは、システム全体をいったん破壊するのが正しい対応である。
(中略)
「ご破産で願いましては神話」の問題は、破壊が美化されてしまうこと。現在のシステムに問題があるとしても、すべてをいったんチャラにしたあとで、もっと良いシステムが作られるという保証はどこにもない。
いや、たいていの場合は「今までのシステムの良い点まで壊したあげく、欠点だらけの新システムを苦しまぎれにでっちあげる」という、洒落にならない結末を迎える。歴史上、「ご破産で願いましては神話」を初めて本格的に実践したフランス革命は、みごとにそうなりました。
(佐藤建志、中野剛志『国家のツジツマ――新たな日本への筋立て』VNC新書)
内田の言う「ガラガラポン願望」と、トゥルミン、及び佐藤の言う「ご破産で願いましては神話」は、同じ心的欲求を指し示しているとみていいだろう。たったふた例しか取り上げられないのは恐縮だが、同様の主張をしている知識人は、探せばまだまだ見つかる筈である。
ところで佐藤は、「ポップカルチャーを通じて現実社会を分析する」手法を得意としているが、その題材として最も多く俎上にのせているのが『ゴジラ』である。
『震災ゴジラ!』でも触れましたけど、東日本大震災が発生したとき、いわゆるインテリを中心に、世直し実行(=抜本的な構造改革)のチャンスが転がり込んできたかのごとくハシャいだ連中が少なからずいます。(中略)
被災地や被災者のことをどう思っているのかと言いたくなるものの、「ご破産で願いましては神話」のもとでは、むしろ当然なんですね。この神話に取りつかれると、物事がうまくいくのを阻害している原因を見つけだし、破壊しなければならない強迫観念に駆られる。
(中略)
物事がうまくいかないからには、まだ破壊が足りなかったんだと考え、より大きな破壊を待ち望むようになるのです!震災でも不足だった以上、次はゴジラにでも来てもらい、何もかもぶち壊してグレート・リセットしなければ、そんな話になるでしょう。
日本の保守派の多くは、このような意味で、ひそかにゴジラを夢見ています。
(前掲書)
また佐藤は、『震災ゴジラ!』の中で、戦後日本は虚妄であるとも述べている。
太平洋戦争時、一億玉砕を唱えていながら、最後はあっさりと降伏に転じ、それまで鬼畜と呼んでいた相手にすり寄るいう変節を見せ、それとともに、自国の正義と信じてきたものを「悪しき帝国主義的な野望」として否定した。あまつさえ、「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」と呼び変えたり、戦後復興を遂げると、「繁栄こそが勝利なのだ」と主張するなどして、戦争に負けた事実を糊塗しようとした。そのことによって、戦後の日本は虚妄を孕んでおり、その後ろめたさから、歴史に筋を通すために、「本土決戦を遂行したい願望」を抱くようになった。
そして、その願望の反映こそが、繰り返し何度も日本に来襲するゴジラである、というのだ。(もっとも、佐藤によれば戦後のみならず、戦前の日本も虚妄であるという。詳しくは『震災ゴジラ!』を読まれたし)
ゴジラといえば、小生にも思い当たるフシがある。
第一作目の『ゴジラ』に関してだ。同作には、テレビ塔の展望台で中継を行っていたレポーターがゴジラに襲撃され、「さようなら、みなさんさようなら」と叫び、タワーと共に倒壊する、有名なシーンがある。
小生は、映画を頭から通して鑑賞する前に、この場面だけをテレビの特番か何かで観ていた。で、「このレポーターは、ゴジラに襲われる直前に展望台を脱出するつもりでいたのだが、停電か何かのイレギュラーな事態の発生により展望台に閉じ込められてしまい、やむを得ず腹をくくって最期までレポートを続けることにしたのだろう」と思っていた。
しかし、そうではなかった。
後年、改めて『ゴジラ』を観てみると、展望台から脱出できなくなる事態は、何ら発生していなかったのだ。レポーターは、逃げられるのに逃げなかったのである。
これには結構驚いた。
(後編に続く)
オススメ関連本・大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』岩波新書