2018年11月、内閣府のセクハラ防止啓発ポスターが物議を醸していた。
ポスターは、タレントの東幹久を起用したもので、毎年11月12日~25日の「女性に対する暴力をなくす運動」期間に合わせて制作された。
その内容は、「今日の服かわいいね。俺、好みだな。」「痩せてきれいになったんじゃない?」と話しかける東に対し、イラストの女性がそれぞれ、「関係ないでしょ!」「そういうことだけ見てるんですね・・・」と答えている。そして中央に、困り顔をした東と「これもセクハラ?」の文字(これがこのポスターのメインの文字となっている)があり、その下に「セクハラを決めるのは、あなたではない!」「相手や周囲に配慮した言動を!」と書かれている。(もしこのポスターを見たことがなければ、「東幹久 セクハラポスター」で画像検索していただきたい)
これがセクハラの啓発ではなく、逆にセクハラをする側の擁護になっている、という指摘が相次いだのだ。たしかに、「これもセクハラ?」というセリフがポスター全体のまとめになっているため、セクハラ擁護の表現になっているように読めてしまう。それは故無きことではない。しかし、その指摘は正当なものなのか。
今回はこの騒動について論じてみたい。しかし、これは実にナイーブな問題である。というのも、もしセクハラ告発を批判するかのような発言をすれば、即家父長的な保守反動というレッテルを張られかねないからだ。ただひたすらセクハラを批判することだけが政治的に正しい振る舞いであって、それに疑義を呈することは時代に逆行する行為だという空気が、現代の日本にはある。
それは、このポスター騒動のひとつの結果として、東幹久本人が謝罪せざるを得なくなったことにも表れている。あくまでモデルとして起用されたにすぎず、その制作意図に関して何の責任もない東が、謝罪に追い込まれてしまったのだ。これは「セクハラ告発を疑ってはならない」という空気が支配していることの証左であろう。
そんなややこしい問題に敢えて切り込もうとしているのは、セクハラ告発を行っている女性の側にこそセクハラ問題を後退させている要因が潜んでいる気がするからだ。そのことについて、順を追って説明したい。ここであらかじめ断っておくが、セクハラは必ずしも男性から女性に対して行われるものではなく、女性から男性に対して行われるものもあるし、LGBTの人々に対するそれももちろんある。しかし本論では、議論をわかりやすくするために、セクハラを男性から女性に対して行われるものだけに限定させてもらう。
まずはっきり言わせてもらうと、「これもセクハラ?」という困惑は、男性の側に少なからずあると断言できる。正直な話、小生にもその感覚はある。そして、大半の男性は、困惑を抱えながらも、それが何に起因するのかをうまく言語化することができず、腑に落ちないながらも、セクハラオヤジの同類と思われたくはないので、セクハラ告発者の側に立つ、というスタンスをとっているのではないだろうか。
では、男性側のモヤモヤした感情はどこに由来するのだろうか。おそらくそれは、セクハラ判定の過剰なまでの幅の広さ、および恣意的さからきているものと推察される。
セクハラとはセクシャル・ハラスメントの略で、「性的嫌がらせ」の意である。「嫌に感じる」行為の対象は、「性」にまつわる事柄に限定される。
しかし、女性がセクハラ認定を行うとき、性的ではない言動まで標的にしてはいないだろうか。セクハラというのは、ある意味すごく便利な言葉である。男性がその指摘を受ければ、思わず口ごもり、固まってしまう。女性が男性の言動を封じ込めるには、実に使い勝手のいい言葉だ。だから、いついかなる場面であっても、女性が男性を黙らせたいと思えば、ただ一言「セクハラ」と呟けばいいのである。
セクハラは、女性にとって都合のいい「マジックワード」と化してはいないだろうか。
マジックワードとは、なんにでも使える便利な言葉のことで、特に要求を通すときに効力を発揮する。男性は、セクハラだと指摘されると、たとえ「性的な事柄とは関係ないのではないか」という思いがよぎったとしても、平然とセクハラをはたらくような男だと思い込まれたくはないので、疑問を飲み込み、謝罪を行う。かくして、女性は男性を都合よくコントロールするすべを身につけ、男性は、納得いかないながらも、セクハラオヤジ認定されたくないがゆえに、自らの言動を律するようになる。
このような意見を述べると、「些細なことでセクハラセクハラと騒ぐな、コミュニケーションが取れなくなる」とか、「自意識過剰女のヒステリーだ」といった自分勝手なオヤジと同類の発言、あるいはそれらの発言の擁護者と思われるかもしれない。だからナイーブな問題なのであるが、もちろん小生が言わんとしているのはそのようなことではない。
セクハラ認定は、もっと厳密に行われなければならない、と主張したいのである。セクハラをマジックワードにしてはならない、ということである。
自分勝手なオヤジの主張は、「そんなのはセクハラではない/だから黙れ」というものだ。小生が言わんとしているのは、それとは違い、「それはセクハラではない/だから“セクハラ”以外の言葉で対抗すべきだ」ということである。
不愉快に感じる言動というのは、いくらでもあるだろう。しかし、それらがすべてセクハラに含まれるわけではない。セクハラは、不快に感じる言動のうちのごく一部でしかない。だから、不快に感じる言動の中の、性的な事柄には属さないものは、セクハラ以外の言葉を用いて批判されねばならない。
「今日の服かわいいね。俺、好みだな」という言葉には、「テメーの好みなんか知らねえし」と返せばいいし、「痩せてきれいになったんじゃない?」という言葉には、「キモいんだよ」と答えてもいいだろう。対応のしようなどいくらでもある。セクハラという言葉に頼る必要などないはずだ。
「セクハラを決めるのは、あなたではない!」というのは、男性側がセクハラの基準を恣意的に線引きしてはならない、という意味であろう。それはもちろんその通りだ。男性側にセクハラの判定権が一任されていれば、何をしようがセクハラではないとする、男性にとってやりたい放題の無法状態が出現してしまいかねない。
だが、それと同じように、女性側がセクハラの範囲を恣意的に拡張することだって許されないはずだ。女性側がひとことセクハラと指摘するだけで、問答無用でセクハラが行われたと認定されてしまうのであれば、それは中世ヨーロッパの魔女裁判となんら変わらないではないか。
思えば、性差別に敏感な人達というのは、女性に対する差別にのみ条件反射的に反応してばかりいる。少し前にテレビで流れていた洗剤のCMに、佐々木健介の「洗濯は男の仕事」というセリフがあった。真に性差別の解消を目指すのであれば、このようなセリフも問題視していかねばならないはずである。それこそ、かつて「私作る人、僕食べる人」が批判されたのと同じ文脈において批判されるべきだったのだ。なのに、些細な言動がすぐに炎上に結びつくくらい神経質な現代日本にありながら、健介のセリフは話題になることすらなかった。
性的役割分担の固定化が性差別の一側面であるのなら、洗濯は男の仕事でも女の仕事でもあってはならない。フェミニストをはじめとした性差別に敏感であるはずの人達は、「男性に対する性差別」を見ようとしない(あるいは、意識すらされない)。
性差別は、男女の力関係、並びに社会的処遇の非対称性に起因しているわけだが、それを糾弾する社会運動もまた、性差別を鏡写しにしたように非対称的である。性差別が歪みであるなら、それと同じように反性差別運動も歪んでいる。運動に携わる人々が、その非対称性を歪みとして認識し、対称性を取り戻すことこそが、目標とする男女間の対称性の獲得に繋がるはずである。まずはそこに気付かなければならない。
セクハラの対象は、あくまで「性的な嫌がらせ」に限定されなければならない。
とは言え、そこには常に困難さがともなっている。何を性的と感じるかは人それぞれの感受性によるので、一元的に規定できないという面もあるし、親しい間柄であれば交際関係になくても下ネタを言い合うことができるように、「相手が誰であるか」によってもその適用範囲は左右されるからだ。
だから、「何がセクハラであるか」という統一的な基準を決めることはできない。しかし、客観的かつ常識的な観点から考えれば、「何がセクハラでないか」を決めることはできるはずだ。そこを足掛かりにして議論を進めればいい。
セクハラは、ある意味便利な言葉である。それを男性に投げつければ、相手をひるませ、言動を制限することができる。だから、男性を委縮させたいときにはそれをマジックワードとして口にすればそれでいい。女性はいともたやすく快適さを手に入れることができるだろう。だが、それによって失われるものもあるはずだ。
女性がセクハラをマジックワードとして多用すれば、男性は困惑する。そのうちの何割かは、「これもセクハラ?」という思いが頭をよぎるだろう。そして、その疑義はセクハラ告発を行う女性への反発に変質する。反発は、心の中にとどまっているだけのこともあれば、なんらかの形で放出されることもあるはずだ。反発が向かう先は、セクハラをマジックワード化している女性だけに限らない。正当なセクハラ告発を行っている女性、セクハラに心底苦しめられている女性に対してもその矛先は向かっていきかねない。そうすると、すべてのセクハラ告発をひっくるめて、「些細なことでセクハラセクハラ騒ぐな」という非難に結実してしまう。
つまり、セクハラをマジックワードとして使用することは、真にセクハラ被害で苦しむ女性の首を絞めることに繋がってしまうのだ。だからこそ、セクハラ判定には慎重でなければならないのである。
言われると嫌な言葉、されたら嫌な行為というのは、いくらでもあるだろう。セクハラを拡大解釈し、それらの言動を含められるだけ含ませてしまえば、女性は楽である。ひとつひとつの嫌な言動に応じた抵抗の言葉を紡ぐ労力から解放され、ただひとこと「セクハラ」とだけ呟けばそれで済むのだから。しかし、そのマジックワードとしてのセクハラ告発によって、確実に損なわれているものがある。
セクハラに対する理解は、男性側に反省と自律を促し続けるだけで深まるものではない。女性側が安易なセクハラ認定を避けること、セクハラの適用範囲に厳格であることもまた求められなければならない。使い勝手のいいマジックワードに頼るのではなく、ひとつひとつの嫌な言動に対し、個別の対抗の言葉を紡いでいかねばならない。
そうしない限り、「これもセクハラ?」という疑問は、何度でも男性の脳裏に去来することだろう。
オススメ関連本・大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍――サブカルチャーと戦後民主主義』角川文庫
ポスターは、タレントの東幹久を起用したもので、毎年11月12日~25日の「女性に対する暴力をなくす運動」期間に合わせて制作された。
その内容は、「今日の服かわいいね。俺、好みだな。」「痩せてきれいになったんじゃない?」と話しかける東に対し、イラストの女性がそれぞれ、「関係ないでしょ!」「そういうことだけ見てるんですね・・・」と答えている。そして中央に、困り顔をした東と「これもセクハラ?」の文字(これがこのポスターのメインの文字となっている)があり、その下に「セクハラを決めるのは、あなたではない!」「相手や周囲に配慮した言動を!」と書かれている。(もしこのポスターを見たことがなければ、「東幹久 セクハラポスター」で画像検索していただきたい)
これがセクハラの啓発ではなく、逆にセクハラをする側の擁護になっている、という指摘が相次いだのだ。たしかに、「これもセクハラ?」というセリフがポスター全体のまとめになっているため、セクハラ擁護の表現になっているように読めてしまう。それは故無きことではない。しかし、その指摘は正当なものなのか。
今回はこの騒動について論じてみたい。しかし、これは実にナイーブな問題である。というのも、もしセクハラ告発を批判するかのような発言をすれば、即家父長的な保守反動というレッテルを張られかねないからだ。ただひたすらセクハラを批判することだけが政治的に正しい振る舞いであって、それに疑義を呈することは時代に逆行する行為だという空気が、現代の日本にはある。
それは、このポスター騒動のひとつの結果として、東幹久本人が謝罪せざるを得なくなったことにも表れている。あくまでモデルとして起用されたにすぎず、その制作意図に関して何の責任もない東が、謝罪に追い込まれてしまったのだ。これは「セクハラ告発を疑ってはならない」という空気が支配していることの証左であろう。
そんなややこしい問題に敢えて切り込もうとしているのは、セクハラ告発を行っている女性の側にこそセクハラ問題を後退させている要因が潜んでいる気がするからだ。そのことについて、順を追って説明したい。ここであらかじめ断っておくが、セクハラは必ずしも男性から女性に対して行われるものではなく、女性から男性に対して行われるものもあるし、LGBTの人々に対するそれももちろんある。しかし本論では、議論をわかりやすくするために、セクハラを男性から女性に対して行われるものだけに限定させてもらう。
まずはっきり言わせてもらうと、「これもセクハラ?」という困惑は、男性の側に少なからずあると断言できる。正直な話、小生にもその感覚はある。そして、大半の男性は、困惑を抱えながらも、それが何に起因するのかをうまく言語化することができず、腑に落ちないながらも、セクハラオヤジの同類と思われたくはないので、セクハラ告発者の側に立つ、というスタンスをとっているのではないだろうか。
では、男性側のモヤモヤした感情はどこに由来するのだろうか。おそらくそれは、セクハラ判定の過剰なまでの幅の広さ、および恣意的さからきているものと推察される。
セクハラとはセクシャル・ハラスメントの略で、「性的嫌がらせ」の意である。「嫌に感じる」行為の対象は、「性」にまつわる事柄に限定される。
しかし、女性がセクハラ認定を行うとき、性的ではない言動まで標的にしてはいないだろうか。セクハラというのは、ある意味すごく便利な言葉である。男性がその指摘を受ければ、思わず口ごもり、固まってしまう。女性が男性の言動を封じ込めるには、実に使い勝手のいい言葉だ。だから、いついかなる場面であっても、女性が男性を黙らせたいと思えば、ただ一言「セクハラ」と呟けばいいのである。
セクハラは、女性にとって都合のいい「マジックワード」と化してはいないだろうか。
マジックワードとは、なんにでも使える便利な言葉のことで、特に要求を通すときに効力を発揮する。男性は、セクハラだと指摘されると、たとえ「性的な事柄とは関係ないのではないか」という思いがよぎったとしても、平然とセクハラをはたらくような男だと思い込まれたくはないので、疑問を飲み込み、謝罪を行う。かくして、女性は男性を都合よくコントロールするすべを身につけ、男性は、納得いかないながらも、セクハラオヤジ認定されたくないがゆえに、自らの言動を律するようになる。
このような意見を述べると、「些細なことでセクハラセクハラと騒ぐな、コミュニケーションが取れなくなる」とか、「自意識過剰女のヒステリーだ」といった自分勝手なオヤジと同類の発言、あるいはそれらの発言の擁護者と思われるかもしれない。だからナイーブな問題なのであるが、もちろん小生が言わんとしているのはそのようなことではない。
セクハラ認定は、もっと厳密に行われなければならない、と主張したいのである。セクハラをマジックワードにしてはならない、ということである。
自分勝手なオヤジの主張は、「そんなのはセクハラではない/だから黙れ」というものだ。小生が言わんとしているのは、それとは違い、「それはセクハラではない/だから“セクハラ”以外の言葉で対抗すべきだ」ということである。
不愉快に感じる言動というのは、いくらでもあるだろう。しかし、それらがすべてセクハラに含まれるわけではない。セクハラは、不快に感じる言動のうちのごく一部でしかない。だから、不快に感じる言動の中の、性的な事柄には属さないものは、セクハラ以外の言葉を用いて批判されねばならない。
「今日の服かわいいね。俺、好みだな」という言葉には、「テメーの好みなんか知らねえし」と返せばいいし、「痩せてきれいになったんじゃない?」という言葉には、「キモいんだよ」と答えてもいいだろう。対応のしようなどいくらでもある。セクハラという言葉に頼る必要などないはずだ。
「セクハラを決めるのは、あなたではない!」というのは、男性側がセクハラの基準を恣意的に線引きしてはならない、という意味であろう。それはもちろんその通りだ。男性側にセクハラの判定権が一任されていれば、何をしようがセクハラではないとする、男性にとってやりたい放題の無法状態が出現してしまいかねない。
だが、それと同じように、女性側がセクハラの範囲を恣意的に拡張することだって許されないはずだ。女性側がひとことセクハラと指摘するだけで、問答無用でセクハラが行われたと認定されてしまうのであれば、それは中世ヨーロッパの魔女裁判となんら変わらないではないか。
思えば、性差別に敏感な人達というのは、女性に対する差別にのみ条件反射的に反応してばかりいる。少し前にテレビで流れていた洗剤のCMに、佐々木健介の「洗濯は男の仕事」というセリフがあった。真に性差別の解消を目指すのであれば、このようなセリフも問題視していかねばならないはずである。それこそ、かつて「私作る人、僕食べる人」が批判されたのと同じ文脈において批判されるべきだったのだ。なのに、些細な言動がすぐに炎上に結びつくくらい神経質な現代日本にありながら、健介のセリフは話題になることすらなかった。
性的役割分担の固定化が性差別の一側面であるのなら、洗濯は男の仕事でも女の仕事でもあってはならない。フェミニストをはじめとした性差別に敏感であるはずの人達は、「男性に対する性差別」を見ようとしない(あるいは、意識すらされない)。
性差別は、男女の力関係、並びに社会的処遇の非対称性に起因しているわけだが、それを糾弾する社会運動もまた、性差別を鏡写しにしたように非対称的である。性差別が歪みであるなら、それと同じように反性差別運動も歪んでいる。運動に携わる人々が、その非対称性を歪みとして認識し、対称性を取り戻すことこそが、目標とする男女間の対称性の獲得に繋がるはずである。まずはそこに気付かなければならない。
セクハラの対象は、あくまで「性的な嫌がらせ」に限定されなければならない。
とは言え、そこには常に困難さがともなっている。何を性的と感じるかは人それぞれの感受性によるので、一元的に規定できないという面もあるし、親しい間柄であれば交際関係になくても下ネタを言い合うことができるように、「相手が誰であるか」によってもその適用範囲は左右されるからだ。
だから、「何がセクハラであるか」という統一的な基準を決めることはできない。しかし、客観的かつ常識的な観点から考えれば、「何がセクハラでないか」を決めることはできるはずだ。そこを足掛かりにして議論を進めればいい。
セクハラは、ある意味便利な言葉である。それを男性に投げつければ、相手をひるませ、言動を制限することができる。だから、男性を委縮させたいときにはそれをマジックワードとして口にすればそれでいい。女性はいともたやすく快適さを手に入れることができるだろう。だが、それによって失われるものもあるはずだ。
女性がセクハラをマジックワードとして多用すれば、男性は困惑する。そのうちの何割かは、「これもセクハラ?」という思いが頭をよぎるだろう。そして、その疑義はセクハラ告発を行う女性への反発に変質する。反発は、心の中にとどまっているだけのこともあれば、なんらかの形で放出されることもあるはずだ。反発が向かう先は、セクハラをマジックワード化している女性だけに限らない。正当なセクハラ告発を行っている女性、セクハラに心底苦しめられている女性に対してもその矛先は向かっていきかねない。そうすると、すべてのセクハラ告発をひっくるめて、「些細なことでセクハラセクハラ騒ぐな」という非難に結実してしまう。
つまり、セクハラをマジックワードとして使用することは、真にセクハラ被害で苦しむ女性の首を絞めることに繋がってしまうのだ。だからこそ、セクハラ判定には慎重でなければならないのである。
言われると嫌な言葉、されたら嫌な行為というのは、いくらでもあるだろう。セクハラを拡大解釈し、それらの言動を含められるだけ含ませてしまえば、女性は楽である。ひとつひとつの嫌な言動に応じた抵抗の言葉を紡ぐ労力から解放され、ただひとこと「セクハラ」とだけ呟けばそれで済むのだから。しかし、そのマジックワードとしてのセクハラ告発によって、確実に損なわれているものがある。
セクハラに対する理解は、男性側に反省と自律を促し続けるだけで深まるものではない。女性側が安易なセクハラ認定を避けること、セクハラの適用範囲に厳格であることもまた求められなければならない。使い勝手のいいマジックワードに頼るのではなく、ひとつひとつの嫌な言動に対し、個別の対抗の言葉を紡いでいかねばならない。
そうしない限り、「これもセクハラ?」という疑問は、何度でも男性の脳裏に去来することだろう。
オススメ関連本・大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍――サブカルチャーと戦後民主主義』角川文庫