今日は江戸の仇ならぬ長崎ちゃんぽんです。
カップ麵の中で一番おいしいちゃんぽんだと思います。マルタイは乾麵を数多く製造しており、俗に「棒ラーメン」と呼ばれるマルタイラーメンが有名。なぜ棒ラーメンなのかは画像検索してもらえればわかります。2食入りで100円ちょい、安くておいしい袋麵なのです。ちゃんぽんとともにご賞味ください。
ただ、マルタイは福岡の会社なので全国販売はしていないのかもしれません。九州外の人は九州のアンテナショップに行くか、ネット通販で捜してみてください。
今日も今日とて思い出話。僕は以前、警備の仕事をしていました。車の誘導なんかを行う、あの警備ですね。
警備員はとにかく、つねに自分の安全を確保しろとやかましく言われます。それは、車道とか工事現場とか、事故が起こりやすい場所での仕事が多いから、というのもありますが、警備の特徴として、「自分が消えてしまいがち」だからです。
自分が消えるとはどういうことか。聞いた話ですが、バックしてる車を「オーライ、オーライ」と誘導しながら、その車と壁の間に挟まれてしまった警備員がいたらしいのです。
自分でオーライと言いながら誘導していたのに、その誘導していた車に挟まれてしまったのです。傍から見ていたら、まるで自分から挟んでくれと頼んだようにしか思えないでしょう。マヌケと言えばあまりにマヌケな話ですが、しかしこれ、実は人間心理の落とし穴で、誰にでも起こりうることなのです。
なぜこんな珍事が起こるのかというと、誘導に集中しすぎると、意識の中から自分の存在が消えてしまうからなのです。
警備員は、誘導してる車がスムーズに動けるか、車が周囲のモノにぶつからないか、に心を砕きます。車と、その周囲のモノに注意が向かう。
その際、集中力が強すぎると、意識の対象が「車」と「周囲のモノ」だけになってしまう。自分自身が意識の中から抜け落ちてしまうのです。
警備員は、車やその周囲のモノのみならず、自分の身の安全も守らなければならない。それは誰しもわかってはいるのですが、油断すると、守るべき自分の体の存在が、意識の中から消えてしまう。
自分自身が透明になり、あたかもそこにいないかのように感得されてしまう。体を失った意識そのものが、車を「オーライ」と誘導するのです。あたかも『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように。
だから、自分が誘導している車に轢かれてしまうという、一見理解不能なことが起こってしまうのです。これが警備の、そして人間心理の恐ろしさなのです。
だから自分の身の安全は必ず確保しろと言われるのです。それはつまり、誘導に集中しすぎるな、ということです。つねに意識を分散させ、車にも自分にも、それ以外の物にも同時に注意を払う。それが警備に求められる態度なのです。
集中しすぎると自分が消える。これは警備のみならず、どんな仕事でも起こることでしょう。ただ、警備だとその現象が命の危機に直結してしまうのです。
意識の中から自分の存在が消えると、仕事の効率が高まります。「我を忘れる」「没頭する」などと呼ばれる状態は、仕事をこなすペースが最も早まっている状況を指しているはずです。おそらくそれは、労働の成果を拡充させるための、人類の進化によって引き起こされた現象なのでしょう(人間以外でも同じような心理の働きがあるのかもしれませんが)。
その能力のお陰で今日の人類は繁栄を築きました。しかしその代償として、迫りくる身の危険に鈍感になってしまった。車と壁に挟まれてようやく自分の体がそこにあったことを思いだすという、弱肉強食の自然界ではおよそ通用しそうにない脳天気さ。
いい面も悪い面も両方ある能力なのですね。皆さん、命の危機が高まる状況に陥ることがあれば、自分の体を意識から消さないよう注意を払ってください。
ひとつのことに集中しすぎない。意識を複数のモノに分散させる。
これって、けっこういろんな現場に適用すべき姿勢なのではないでしょうか。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
最近はそうですね、人の間の距離が近くなってるようにかんじますね。ちょっと前までソーシャルディスタンスってやかましく言われてましたけど、その規範意識がやや緩み、行列の間隔が短くなってるように思えるんですよね。あくまで印象論ですが。
あ、規範意識が緩んでるっつーのは、ソーシャルディスタンスが不必要になってるってことじゃなくて、「そこまで気にしなくていいんじゃない?」という空気が拡がりつつある、ということです。
僕はコロナが社会に与えた影響は大きく、ちょっとやそっとじゃ元に戻らないだろうと思っていたのですが、そうでもないようですね。それよりも、元々の社会感覚のほうが強く、危機意識が弱まれば、慣性の法則のようにそちらに帰っていく・・・。
そのへんはそんなに心配しなくていいのかもしれません。あとはマスク外せなくなる人がどれくらい出てくるかですね。聞いた話では、お互いの素顔を見たことがない若いカップルがいるそうです。
カップ麵の中で一番おいしいちゃんぽんだと思います。マルタイは乾麵を数多く製造しており、俗に「棒ラーメン」と呼ばれるマルタイラーメンが有名。なぜ棒ラーメンなのかは画像検索してもらえればわかります。2食入りで100円ちょい、安くておいしい袋麵なのです。ちゃんぽんとともにご賞味ください。
ただ、マルタイは福岡の会社なので全国販売はしていないのかもしれません。九州外の人は九州のアンテナショップに行くか、ネット通販で捜してみてください。
今日も今日とて思い出話。僕は以前、警備の仕事をしていました。車の誘導なんかを行う、あの警備ですね。
警備員はとにかく、つねに自分の安全を確保しろとやかましく言われます。それは、車道とか工事現場とか、事故が起こりやすい場所での仕事が多いから、というのもありますが、警備の特徴として、「自分が消えてしまいがち」だからです。
自分が消えるとはどういうことか。聞いた話ですが、バックしてる車を「オーライ、オーライ」と誘導しながら、その車と壁の間に挟まれてしまった警備員がいたらしいのです。
自分でオーライと言いながら誘導していたのに、その誘導していた車に挟まれてしまったのです。傍から見ていたら、まるで自分から挟んでくれと頼んだようにしか思えないでしょう。マヌケと言えばあまりにマヌケな話ですが、しかしこれ、実は人間心理の落とし穴で、誰にでも起こりうることなのです。
なぜこんな珍事が起こるのかというと、誘導に集中しすぎると、意識の中から自分の存在が消えてしまうからなのです。
警備員は、誘導してる車がスムーズに動けるか、車が周囲のモノにぶつからないか、に心を砕きます。車と、その周囲のモノに注意が向かう。
その際、集中力が強すぎると、意識の対象が「車」と「周囲のモノ」だけになってしまう。自分自身が意識の中から抜け落ちてしまうのです。
警備員は、車やその周囲のモノのみならず、自分の身の安全も守らなければならない。それは誰しもわかってはいるのですが、油断すると、守るべき自分の体の存在が、意識の中から消えてしまう。
自分自身が透明になり、あたかもそこにいないかのように感得されてしまう。体を失った意識そのものが、車を「オーライ」と誘導するのです。あたかも『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように。
だから、自分が誘導している車に轢かれてしまうという、一見理解不能なことが起こってしまうのです。これが警備の、そして人間心理の恐ろしさなのです。
だから自分の身の安全は必ず確保しろと言われるのです。それはつまり、誘導に集中しすぎるな、ということです。つねに意識を分散させ、車にも自分にも、それ以外の物にも同時に注意を払う。それが警備に求められる態度なのです。
集中しすぎると自分が消える。これは警備のみならず、どんな仕事でも起こることでしょう。ただ、警備だとその現象が命の危機に直結してしまうのです。
意識の中から自分の存在が消えると、仕事の効率が高まります。「我を忘れる」「没頭する」などと呼ばれる状態は、仕事をこなすペースが最も早まっている状況を指しているはずです。おそらくそれは、労働の成果を拡充させるための、人類の進化によって引き起こされた現象なのでしょう(人間以外でも同じような心理の働きがあるのかもしれませんが)。
その能力のお陰で今日の人類は繁栄を築きました。しかしその代償として、迫りくる身の危険に鈍感になってしまった。車と壁に挟まれてようやく自分の体がそこにあったことを思いだすという、弱肉強食の自然界ではおよそ通用しそうにない脳天気さ。
いい面も悪い面も両方ある能力なのですね。皆さん、命の危機が高まる状況に陥ることがあれば、自分の体を意識から消さないよう注意を払ってください。
ひとつのことに集中しすぎない。意識を複数のモノに分散させる。
これって、けっこういろんな現場に適用すべき姿勢なのではないでしょうか。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
最近はそうですね、人の間の距離が近くなってるようにかんじますね。ちょっと前までソーシャルディスタンスってやかましく言われてましたけど、その規範意識がやや緩み、行列の間隔が短くなってるように思えるんですよね。あくまで印象論ですが。
あ、規範意識が緩んでるっつーのは、ソーシャルディスタンスが不必要になってるってことじゃなくて、「そこまで気にしなくていいんじゃない?」という空気が拡がりつつある、ということです。
僕はコロナが社会に与えた影響は大きく、ちょっとやそっとじゃ元に戻らないだろうと思っていたのですが、そうでもないようですね。それよりも、元々の社会感覚のほうが強く、危機意識が弱まれば、慣性の法則のようにそちらに帰っていく・・・。
そのへんはそんなに心配しなくていいのかもしれません。あとはマスク外せなくなる人がどれくらい出てくるかですね。聞いた話では、お互いの素顔を見たことがない若いカップルがいるそうです。