今日はギリシャ神話の女神っぽいやつです。
真夏の水分補給にも、風邪を引いたときにも。スポーツ選手の常備飲料、アクエリアス。
スポーツと言えば体育会系。体育会系と言えば気合いと根性。そう、気合いと根性の話をしましょう。不愉快極まりない精神論の話。
18か19のころ、まだ熊本に住んでいたときですけど、焼肉屋さんでアルバイトをしようと、面接を申し込んだことがありました。当時は人と話すのがとにかく苦手だったので、厨房を希望しました。履歴書を持ってお店に行くと、30代くらいの男性店員さんが面接を担当してくれました。
そのとき何を話したか、詳しくは覚えていません。どんなメニューがあるか、どんな仕事なのかなどの説明を受けた記憶はあります。
その後、志望動機とか、個人的なことをいくつか質問されました。その中で店員さんが、「徳丸君は根性ある?」と訊いてきたんですね。
僕は笑いながらも、「いやぁ~、どうですかねぇ」などと、曖昧な答えを返しました。顔が引きつっていたかもしれません。
僕は、気合いとか根性とか、その手の精神論が大嫌いなのです。
店員さんは、仕事の大変さを強調したかったのだと思います。昼食時と夕食時、お客さんが押しかける混雑時はとにかく忙しく、バタバタになる。体力的に厳しいので、強い気持ちを持っていないと乗り越えられない。そう言いたかったのでしょう。
ですが僕は、「根性」という言葉にアレルギー的嫌悪感を覚え、肯定的な答えを返すことができなかったのです。結果は不採用でした。
もしあの質問に、力強く「あります!!」と答えていれば、採用になっていたでしょう。ですが、当時の僕は、軽々しく「根性」などと口にするような人のもとで働きたくはなかった。だから、正直不採用になってホッとしました。
その店員さんは、仕事内容のキツさを伝えたくて、根性の有無を尋ねていたのかもしれません。でも、ひょっとしたらそうじゃなかったかもしれない。従業員に対し、有無を言わさず体育会系ノリを強要するような人だったのかもしれません。
もしそうだったら、僕にとっては地獄のような職場だったはずです。デカい声を出すのが暗黙のマニュアルで、どんなにしんどかろうが「気持ちがあれば乗り越えられる」と、負担が過度に大きい、無理な労働、過重な労働量の消化を求められる。そんな職場だったのかもしれないのです。
いずれにせよ、時代は1990年代。当時はまだ、気合いだの根性だの、多くの人が頻繁に口にしていたし、それを他人に押し付けるのがハラスメントだとも思われていませんでした。そして、小心者で、武道やスポーツが特に好きではない僕にとって、「男なら当然共有すべき」と盲信されていたその精神論、時代の空気は、どうしても馴染むことができないものだったのです。
それから3,4年後。僕は福岡に移り住み、フリーター生活をしていました。あるとき、日雇い派遣で引っ越しの仕事をしたことがありました。
派遣のバイトは、20~30人ほど集められ、数人ずつ別々のグループに割り振られます。だいたい引っ越し会社の社員さん2~5人くらいのもとに、やはり2~5人ほどバイトが付いて、あれこれ指示されながら雑用をこなすのです。
その日あてがわれたリーダー格の、20代後半くらいの社員さんは、挨拶するやいなや、「気合い入っとるや?」と訊いてきました。
いかにも元ヤンキーといった風貌の、いかつい見た目の社員さん。僕はそのころには、表向きその手のノリに合わせることができる程度には大人になっていましたので、できるだけ元気よく「はい!」と、その場における正解の返答をしました。内心では「ああ、ハズレだ。今日1日はひたすらガマンだ」と、落ち込んでいましたが。
その元ヤン社員さんは、なかなか厳しめの人で、仕事中ちょいちょい叱責されました。冗談を口にすることもありましたが、このタイプの人がいかにも言いそうな、下品な冗談でした。
その日のチームには、もうひとり社員さんが付いていました。その方は元ヤンさんより年下で、元ヤンさんにとっては後輩か、弟分のような相手だったみたいなんですね。その日の終盤、社員さんたちのあいだで、勤務時間が長くて仕事がキツいという話題になったとき、元ヤンさんが後輩さんに、「絶対に辞めるなよ。辞めたら負けやけんな」と言ってたんですよね。
僕は、「そんなん人に押しつけんなよ」と思いました。
元ヤンさんが、「仕事を辞めたら負け」という教訓、もしくは美学を、自分自身に言い聞かせるのは個人の自由だし、ひとつの生き方として尊重されるべきです。でも、それを人に押し付けるのはよくない。いくら後輩だからといって、価値観の共有を無理強いしていいはずがない。
なんか、気合いだの根性だのを口にしたがる人って、価値観を押し付けることを問題と思っていなかったり、もしくは押し付けているという自覚がなかったりしますよね。頭の中が単純で、価値観はこの世にひとつしかないと思い込んでいるのでしょう。そして、その価値観を自分はちゃんと理解できていると。困ったものです。
ちなみに、あとで後輩さんと2人きりになったんですけど、そのときに、「もう少ししたらこの仕事辞めようと思ってる」って打ち明けられたんですよ。思い返してみれば、後輩さんは元ヤンさんの話を聞いてるとき、ちゃんと1回1回「はい」って相槌打ってたのに、「絶対に辞めるなよ」って言われたときだけ黙ってたんですよね。ああそーゆーことだったかと思うと同時に、いざ「辞める」となったとき、元ヤンさんから何言われるだろって、少し心配になりました。
それから20年ほど経ちました。今や多様性が常識して認知されだし、公教育の場に精神論が持ち出される機会も減少しつつあります。精神論に寄りかかって生きてきた世代も、徐々に社会から退場し始めています。気合いや根性が持ち出される機会も、どんどん減少していくことでしょう。
気合いや根性といった考え方、精神論がなくなればいいとまでは思いません。それを価値観として選び取る生き方は、これからもあっていい。でも、それを人に押し付けるのは、もうやめにしていただきたい。それが迷惑であるという自覚をちゃんと持ってもらいたい。そう思います。
僕は気合いと根性ではなく、テキトーとダラクです。
真夏の水分補給にも、風邪を引いたときにも。スポーツ選手の常備飲料、アクエリアス。
スポーツと言えば体育会系。体育会系と言えば気合いと根性。そう、気合いと根性の話をしましょう。不愉快極まりない精神論の話。
18か19のころ、まだ熊本に住んでいたときですけど、焼肉屋さんでアルバイトをしようと、面接を申し込んだことがありました。当時は人と話すのがとにかく苦手だったので、厨房を希望しました。履歴書を持ってお店に行くと、30代くらいの男性店員さんが面接を担当してくれました。
そのとき何を話したか、詳しくは覚えていません。どんなメニューがあるか、どんな仕事なのかなどの説明を受けた記憶はあります。
その後、志望動機とか、個人的なことをいくつか質問されました。その中で店員さんが、「徳丸君は根性ある?」と訊いてきたんですね。
僕は笑いながらも、「いやぁ~、どうですかねぇ」などと、曖昧な答えを返しました。顔が引きつっていたかもしれません。
僕は、気合いとか根性とか、その手の精神論が大嫌いなのです。
店員さんは、仕事の大変さを強調したかったのだと思います。昼食時と夕食時、お客さんが押しかける混雑時はとにかく忙しく、バタバタになる。体力的に厳しいので、強い気持ちを持っていないと乗り越えられない。そう言いたかったのでしょう。
ですが僕は、「根性」という言葉にアレルギー的嫌悪感を覚え、肯定的な答えを返すことができなかったのです。結果は不採用でした。
もしあの質問に、力強く「あります!!」と答えていれば、採用になっていたでしょう。ですが、当時の僕は、軽々しく「根性」などと口にするような人のもとで働きたくはなかった。だから、正直不採用になってホッとしました。
その店員さんは、仕事内容のキツさを伝えたくて、根性の有無を尋ねていたのかもしれません。でも、ひょっとしたらそうじゃなかったかもしれない。従業員に対し、有無を言わさず体育会系ノリを強要するような人だったのかもしれません。
もしそうだったら、僕にとっては地獄のような職場だったはずです。デカい声を出すのが暗黙のマニュアルで、どんなにしんどかろうが「気持ちがあれば乗り越えられる」と、負担が過度に大きい、無理な労働、過重な労働量の消化を求められる。そんな職場だったのかもしれないのです。
いずれにせよ、時代は1990年代。当時はまだ、気合いだの根性だの、多くの人が頻繁に口にしていたし、それを他人に押し付けるのがハラスメントだとも思われていませんでした。そして、小心者で、武道やスポーツが特に好きではない僕にとって、「男なら当然共有すべき」と盲信されていたその精神論、時代の空気は、どうしても馴染むことができないものだったのです。
それから3,4年後。僕は福岡に移り住み、フリーター生活をしていました。あるとき、日雇い派遣で引っ越しの仕事をしたことがありました。
派遣のバイトは、20~30人ほど集められ、数人ずつ別々のグループに割り振られます。だいたい引っ越し会社の社員さん2~5人くらいのもとに、やはり2~5人ほどバイトが付いて、あれこれ指示されながら雑用をこなすのです。
その日あてがわれたリーダー格の、20代後半くらいの社員さんは、挨拶するやいなや、「気合い入っとるや?」と訊いてきました。
いかにも元ヤンキーといった風貌の、いかつい見た目の社員さん。僕はそのころには、表向きその手のノリに合わせることができる程度には大人になっていましたので、できるだけ元気よく「はい!」と、その場における正解の返答をしました。内心では「ああ、ハズレだ。今日1日はひたすらガマンだ」と、落ち込んでいましたが。
その元ヤン社員さんは、なかなか厳しめの人で、仕事中ちょいちょい叱責されました。冗談を口にすることもありましたが、このタイプの人がいかにも言いそうな、下品な冗談でした。
その日のチームには、もうひとり社員さんが付いていました。その方は元ヤンさんより年下で、元ヤンさんにとっては後輩か、弟分のような相手だったみたいなんですね。その日の終盤、社員さんたちのあいだで、勤務時間が長くて仕事がキツいという話題になったとき、元ヤンさんが後輩さんに、「絶対に辞めるなよ。辞めたら負けやけんな」と言ってたんですよね。
僕は、「そんなん人に押しつけんなよ」と思いました。
元ヤンさんが、「仕事を辞めたら負け」という教訓、もしくは美学を、自分自身に言い聞かせるのは個人の自由だし、ひとつの生き方として尊重されるべきです。でも、それを人に押し付けるのはよくない。いくら後輩だからといって、価値観の共有を無理強いしていいはずがない。
なんか、気合いだの根性だのを口にしたがる人って、価値観を押し付けることを問題と思っていなかったり、もしくは押し付けているという自覚がなかったりしますよね。頭の中が単純で、価値観はこの世にひとつしかないと思い込んでいるのでしょう。そして、その価値観を自分はちゃんと理解できていると。困ったものです。
ちなみに、あとで後輩さんと2人きりになったんですけど、そのときに、「もう少ししたらこの仕事辞めようと思ってる」って打ち明けられたんですよ。思い返してみれば、後輩さんは元ヤンさんの話を聞いてるとき、ちゃんと1回1回「はい」って相槌打ってたのに、「絶対に辞めるなよ」って言われたときだけ黙ってたんですよね。ああそーゆーことだったかと思うと同時に、いざ「辞める」となったとき、元ヤンさんから何言われるだろって、少し心配になりました。
それから20年ほど経ちました。今や多様性が常識して認知されだし、公教育の場に精神論が持ち出される機会も減少しつつあります。精神論に寄りかかって生きてきた世代も、徐々に社会から退場し始めています。気合いや根性が持ち出される機会も、どんどん減少していくことでしょう。
気合いや根性といった考え方、精神論がなくなればいいとまでは思いません。それを価値観として選び取る生き方は、これからもあっていい。でも、それを人に押し付けるのは、もうやめにしていただきたい。それが迷惑であるという自覚をちゃんと持ってもらいたい。そう思います。
僕は気合いと根性ではなく、テキトーとダラクです。