徳丸無明のブログ

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芸術するは我にあり

2015-12-14 19:48:37 | 雑文
中学の時の美術教師が、どういう話の流れであったか、
「山下清なんか芸術家じゃない」
と言っていたのをよく覚えている。
なぜ覚えているのか。後にして思えば、違和感を感じていたからだ。
現代芸術はとみに、同じように槍玉に挙げられがちだ。例えば、日用品や消耗品を何百、何千と繋ぎ合わせた作品が、「芸術じゃなくてただのパフォーマンスだ」と評されたりする。
今、「現代芸術はとみに」と書いたが、そもそも芸術は、必ずしも美を追求するものではなく、社会を批判したり、攪乱する目的で表されることもある。だから、これまでにない形式を用いようとした時、既存の体制から反発が起こるのは当然のことなのかもしれない。
ともあれ、今言わんとしているのはそういうことではない。
「こんなものは芸術じゃない」という物言いに関してだ。
この手の発言をする人に対して、小生は、
「何が芸術で、何が芸術でないか、自分ひとりの価値基準で断定するなんて、おこがましいとは思わないのですか?」
と問いたい。
意見の多様性は認められるべき、というのはもちろんあるのだが、それは芸術作品をどう評するか、のレベルの問題であって、その手前の、「芸術/非芸術」の分類まで恣意的に決めていい、とは言えない。
なぜひとりの人間に、「芸術/非芸術」を分類する権利があるのか。自分に特権的な審美眼が備わっていると考えるのは、思い上がり以外の何者でもないのではないか。
一個人に許されるのは、「好きか嫌いか」という、好悪のレベルで作品を評することくらいだろう。
ナチスドイツは、政権を掌握しているさなかに、自分達の美的感覚にそぐわない芸術作品に対して、「頽廃芸術」というレッテルを貼り、破棄したり、晒しものにしたりした。
「こんなのは芸術じゃない」という言明は、それと五十歩百歩ではないのか。
小生は、これと似た感覚を、10代の半ばに、村上龍の『69 sixty nine』を読んだ時に味わった。
同作は、村上の高校時代の実体験を基にした青春ラブコメ小説で、たいへん笑える作品になっており、小生も笑いながら読んだ。しかし、笑いながら、微かな苦みというか、不快感を感じていた。それが何に由来するのか、最初はわからなかった。なんとなく「大胆で、行動力も度胸もあるこの主人公は、小心な自分とは全然違う。だから、感情移入することができず、また、羨望を覚えてしまうので、それが不快感の源となっているのではないか」と思っていた。
事実に気付いたのは、読後しばらくしてからのことだ。
村上は、自身で作品を解説したあとがきの中で、こう書いている。


この小説に登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。
楽しんで生きないのは、罪なことだ。
(村上龍『69 sixty nine』文春文庫)


楽しんで生きるとは、どういうことだろうか。
人はそれぞれ、好みも趣味も違う。旅行が好きな人、読書が好きな人、スポーツが好きな人、それぞれだ。SMのような、苦痛をもたらす行為に、喜びを見出す人もいる。
何を楽しいと感じるか、何を以て喜びとするか、それは、人それぞれ違う。価値観の相違、というやつだ。
どうやって人生を楽しむかは、価値観による。
しかし村上は、自分の価値観を唯一の尺度とし、「こいつは楽しんでる、こいつは楽しんでない」と分類していたのだ。小生は、そこに不快感を感じていたのである。(この他にも村上の小説はいくつか読んだが、どうも彼の哲学は肌に合わない)

ところで、自分で書いておいてこう言うのもなんだけど、ナチスを引き合いに出す、というやり方は、できるだけ慎むべきだと思う。
「まるでナチスだ」という言い方は、相手を非難する言葉として、強い力を持つ。言われたほうは、「あのナチスと同類」扱いになり、第三者から白い目で見られる恐れがある。そうなると、自分の正しさを証明するために議論をするのではなく、「ナチスとは違う」ことをまず立証せねばならなくなり、立場がすごく不利になる。ナチスには、優生思想、ユダヤ人虐殺、周辺諸国への侵略等、多くの負のイメージがつきまとっている。ナチス呼ばわりされた人は、それらのイメージに引き付けられ、暴力を振るったわけでもなく、ましてや他人を殺めたわけでもないのに、「大量虐殺者」であるかのように思い込まされてしまう。
だから、軽々しく「ナチスのようだ」などと言うべきではない。いや、ホントに自分でやっておいてなんだけれども。
話を戻す。
何が芸術で、何が芸術でないかを、一個人が決してはならない、という考えが正しいとして、では、芸術と非芸術の区別をどうつけたらいいのか、という、長年論争の種になってきた問題は残るだろう。
これをどう解決すればいいか。
小生の意見を言えば、「一人でも『これは芸術だ』と主張する人がいれば、それは芸術として認められる」ことにしていいと思う。
このように述べれば、「お前だって自分ひとりで芸術の分別を行っているじゃないか」と論難されそうだが、小生の基準は、「〇〇は芸術じゃない」という、減算法による決め方ではなく、「〇〇は芸術だ」という加算法よるものなので、まあ認めてもらっていいんじゃなかろうか。
それに、あくまでひとつの見解として紹介しているだけであって、この見立てが唯一の真理だと決めつけているわけではない。
では、なぜ一人でも芸術と言えば芸術だと考えるのか。
それは、世の中には芸術よりも価値のあるものがたくさんあり、芸術は、相対的にはさほど希少だとは思わないからである。
我々は、億単位の値が付けられた絵画を前にすると、畏れおののいてしまう。しかし、仮に雪山で遭難して、暖をとるための手段が、一億円の画布を燃やすしかない、という状況に追い込まれたとしたらどうか。ためらうことなく火を灯すだろう。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
それは確かにそのとおり。
でも、パンがあってこその芸術だ。餓死してしまっては、芸術もへったくれもない。
芸術よりも、命のほうが大事。芸術よりも大切なものは、いくらでもある。基本的に芸術は、生活の余剰物。
その程度のものだから、敷居は低くていいと思う。
だから、道端に転がっているゴミに心を打たれることがあれば、それは芸術で、幼稚園児のわが子の落書きを「傑作だ」と評すれば、それもやはり芸術なのだと思う。
同じように感興を震わせてくれる人が多いか少ないか、の違いは当然あるだろう。その多寡こそが、作品の評価を決するのである。
ピカソの絵画は、何十億もの人が至高の芸術とみなし、幼稚園児のそれを褒め称えるのは両親だけ。でも、どちらも芸術であることは同じ。…ということでいいのではないかと思う。


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