今日は日本初のやつです。
日本で最初にポテトチップの販売を始めたという湖池屋。Since1962。
なんでも、創業者夫妻が太平洋戦争後に、リヤカーで売り歩いていたのが始まりだとか。日本にポテトチップスという食文化を根付かせた、功労者(社)と言えましょう。じゃがいもとともに、その歴史を噛みしめましょう。僕はガーリックがお気に入りです。
文化・・・そう、文化の話をしましょう。「文化をどこまで認めるのか」という話。
もう20年くらい前になると思いますけど、テレビニュースで、タトゥーを入れた外国人女性が、銭湯の入場を断られた、という出来事が報じられていました。多くの銭湯には、「入れ墨の方お断り」という取り決めがありますよね。それに引っかかってしまったのです。
女性は、たしかニュージーランド人だったと記憶しています。「タトゥーは私の国の文化なのです。それを認めてほしい」と訴えていました。
そのニュースが流れていたのは、たしかTBSかテレビ朝日で(曖昧なところが多くてすみません)、論調は、「外国の方のタトゥーは、日本のヤクザの入れ墨とは違うのに、入浴を拒否するのはおかしいのではないか」という、リベラルなものでした。
僕はそれを観て、「文化だからっていう言い分じゃダメだろ」と思いました。
なぜなら、銭湯の「入れ墨の方お断り」もまた「文化」だからです。
外国人のタトゥーを文化として認め、銭湯の入場を許可するのなら、日本の銭湯の、「入れ墨の方お断り」の文化をないがしろにすることになります。
タトゥーが文化なら、「入れ墨の方お断り」も文化なのです。文化と文化が対立しているのであって、文化と「銭湯経営者の無理解」が対立しているわけではない。
だから、「なにゆえ「入れ墨の方お断り」の文化より、外国人のタトゥー文化のほうを優先せねばならないのか」ということになってしまうのです。
リベラルなメディアはよく、「外国は進んでいて正しく、日本は遅れていて間違ってる」という判断をしがちです。それはあまりにも盲目的というか、固定観念でしかないと思うのですが、とにかくひたすら「外国は正しい」と言い続けている。
ここで起こっているのは、文化と文化の対立なのです。「外国の文化を柔軟に受け入れるか否か」の2択ではない。
だから、「文化だから認めろ」という主張は認められないのです。「日本の「入れ墨の方お断り」の文化はないがしろにしていいのか」ということになってしまうからです。
じゃあ、外国人女性の銭湯への入場を拒否したのは、正当な対応と言えるのか。
それも違うと思います。
そもそも、「入れ墨の人の入場を断っている」のがおかしいからです。
なぜ「入れ墨の方お断り」の取り決めがあるのかと言うと、ヤクザに対する否定的なイメージがあるからです。ヤクザは反社会的勢力。暴力的で威圧的で、何をしでかすかわからない。そのようなイメージがあり、面倒事を起こしたくない銭湯側が、入場を拒否するようになった。
では、その判断は正しかったのでしょうか。僕はそう思いません。
たしかに、ヤクザは一般的な人々よりは暴力的で威圧的なのかもしれない。でもだからといって、いついかなるときでも暴力的かつ威圧的に振る舞うわけではない。
必ずしも銭湯の中で誰かに暴力を振るったり、威圧したりするとは限らない。そーゆーことをするヤクザもいるかもしれませんが、可能性を言うのなら、一般人だって同じことをするかもしれない。ヤクザばかりが暴力的で威圧的なわけではないのです。
「暴力や威圧がなくても、入れ墨姿だけで周囲は委縮するし、客足が遠のくかもしれない」という意見もあるでしょう。でも、それだって過剰な思い込みというか、入れ墨ばかりに注目しすぎだと思うんですよね。
入れ墨そのものが威圧的なのはその通りかもしれませんが、「威圧的な要素」というのは、ほかにもあります。いかつい顔とか、巨大な肉体とかですね。
「威圧感を与えるからよくない」というのであれば、入れ墨だけでなく、威圧感を与えるすべてのものを排除しなければならなくなります。そうなるともう、キリがない。
威圧的であろうとも、それも社会の一部、人間集団の一部として受け入れるべきです。威圧的なのを不快に感じる人もいるでしょうが、それ自体は罪ではない。ひとつの個性として許容されるべきものです。それが許容されないのであれば、社会は偏狭になってしまいます。
もし暴力行為に及ぶヤカラがいたら、ヤクザだろうと一般人だろうと排除すればいい。最初から「入れ墨=ヤクザ」だけを排除するのはおかしい。
また、「ヤクザは犯罪者集団だから排除すべき」という意見もあるかもしれません。ですが、すべてのヤクザが犯罪行為を犯しているわけではありません。一般人の集団よりはヤクザの集団のほうが犯罪率が高い、という傾向はあるかもしれませんが、全員が全員何かしらの罪を犯しているというわけではない。
それに、罪を犯しているヤクザがいたとしても、それに対応するのは警察の役目であって、銭湯の経営者ではない。犯罪の取り締まりは警察に任せておいて、(銭湯経営者も含めた)一般人は普通に接すればいいのです。もちろん、何かしらの犯罪行為を目撃した場合はすみやかに通報すべきですけれども。
そして、上に述べたニュースは20年ほど前の話でしたが、今や入れ墨(タトゥー)は、日本においてもカジュアルなファッションの一部となっています。すでに、反社会勢力の指標という意味合いは薄れている(ゼロになってはいませんが)。
つまり、銭湯の「入れ墨の方お断り」も、外国のタトゥーと同じく文化ではあるのですが、そもそも誤った文化であって、即刻廃止しても差しつかえない、というかむしろ、即刻廃止すべき文化だということです。ヤクザを銭湯から排除してきたのがそもそも間違いだったのです。
だから、銭湯に入れなかった外国人女性は、「タトゥーは私の国の文化だから認めてほしい」と主張するのではなく、「タトゥー(入れ墨)が入っている人を排除する文化はおかしい」と言うべきだったのです。もちろん外国の方は日本の文化を充分理解できてないでしょうから、「なぜそう言わなかったんだ」と批判するのはおかしいですよね。僕が言っているのは、理論的にはそのほうがスジが通っているという話で、外国人女性を批判しているわけではありません。
もっとも、20年前の話なので、こんなことを言うまでもなく、すでに銭湯の「入れ墨の方お断り」は消滅へと向かっているのかもしれませんが。はやいとこ、「今は無き過去の文化」のひとつになるといいですね。
それにしても・・・捕鯨とか、食文化とか、宗教とか、文化の対立というのはやっかいなものですね。
日本で最初にポテトチップの販売を始めたという湖池屋。Since1962。
なんでも、創業者夫妻が太平洋戦争後に、リヤカーで売り歩いていたのが始まりだとか。日本にポテトチップスという食文化を根付かせた、功労者(社)と言えましょう。じゃがいもとともに、その歴史を噛みしめましょう。僕はガーリックがお気に入りです。
文化・・・そう、文化の話をしましょう。「文化をどこまで認めるのか」という話。
もう20年くらい前になると思いますけど、テレビニュースで、タトゥーを入れた外国人女性が、銭湯の入場を断られた、という出来事が報じられていました。多くの銭湯には、「入れ墨の方お断り」という取り決めがありますよね。それに引っかかってしまったのです。
女性は、たしかニュージーランド人だったと記憶しています。「タトゥーは私の国の文化なのです。それを認めてほしい」と訴えていました。
そのニュースが流れていたのは、たしかTBSかテレビ朝日で(曖昧なところが多くてすみません)、論調は、「外国の方のタトゥーは、日本のヤクザの入れ墨とは違うのに、入浴を拒否するのはおかしいのではないか」という、リベラルなものでした。
僕はそれを観て、「文化だからっていう言い分じゃダメだろ」と思いました。
なぜなら、銭湯の「入れ墨の方お断り」もまた「文化」だからです。
外国人のタトゥーを文化として認め、銭湯の入場を許可するのなら、日本の銭湯の、「入れ墨の方お断り」の文化をないがしろにすることになります。
タトゥーが文化なら、「入れ墨の方お断り」も文化なのです。文化と文化が対立しているのであって、文化と「銭湯経営者の無理解」が対立しているわけではない。
だから、「なにゆえ「入れ墨の方お断り」の文化より、外国人のタトゥー文化のほうを優先せねばならないのか」ということになってしまうのです。
リベラルなメディアはよく、「外国は進んでいて正しく、日本は遅れていて間違ってる」という判断をしがちです。それはあまりにも盲目的というか、固定観念でしかないと思うのですが、とにかくひたすら「外国は正しい」と言い続けている。
ここで起こっているのは、文化と文化の対立なのです。「外国の文化を柔軟に受け入れるか否か」の2択ではない。
だから、「文化だから認めろ」という主張は認められないのです。「日本の「入れ墨の方お断り」の文化はないがしろにしていいのか」ということになってしまうからです。
じゃあ、外国人女性の銭湯への入場を拒否したのは、正当な対応と言えるのか。
それも違うと思います。
そもそも、「入れ墨の人の入場を断っている」のがおかしいからです。
なぜ「入れ墨の方お断り」の取り決めがあるのかと言うと、ヤクザに対する否定的なイメージがあるからです。ヤクザは反社会的勢力。暴力的で威圧的で、何をしでかすかわからない。そのようなイメージがあり、面倒事を起こしたくない銭湯側が、入場を拒否するようになった。
では、その判断は正しかったのでしょうか。僕はそう思いません。
たしかに、ヤクザは一般的な人々よりは暴力的で威圧的なのかもしれない。でもだからといって、いついかなるときでも暴力的かつ威圧的に振る舞うわけではない。
必ずしも銭湯の中で誰かに暴力を振るったり、威圧したりするとは限らない。そーゆーことをするヤクザもいるかもしれませんが、可能性を言うのなら、一般人だって同じことをするかもしれない。ヤクザばかりが暴力的で威圧的なわけではないのです。
「暴力や威圧がなくても、入れ墨姿だけで周囲は委縮するし、客足が遠のくかもしれない」という意見もあるでしょう。でも、それだって過剰な思い込みというか、入れ墨ばかりに注目しすぎだと思うんですよね。
入れ墨そのものが威圧的なのはその通りかもしれませんが、「威圧的な要素」というのは、ほかにもあります。いかつい顔とか、巨大な肉体とかですね。
「威圧感を与えるからよくない」というのであれば、入れ墨だけでなく、威圧感を与えるすべてのものを排除しなければならなくなります。そうなるともう、キリがない。
威圧的であろうとも、それも社会の一部、人間集団の一部として受け入れるべきです。威圧的なのを不快に感じる人もいるでしょうが、それ自体は罪ではない。ひとつの個性として許容されるべきものです。それが許容されないのであれば、社会は偏狭になってしまいます。
もし暴力行為に及ぶヤカラがいたら、ヤクザだろうと一般人だろうと排除すればいい。最初から「入れ墨=ヤクザ」だけを排除するのはおかしい。
また、「ヤクザは犯罪者集団だから排除すべき」という意見もあるかもしれません。ですが、すべてのヤクザが犯罪行為を犯しているわけではありません。一般人の集団よりはヤクザの集団のほうが犯罪率が高い、という傾向はあるかもしれませんが、全員が全員何かしらの罪を犯しているというわけではない。
それに、罪を犯しているヤクザがいたとしても、それに対応するのは警察の役目であって、銭湯の経営者ではない。犯罪の取り締まりは警察に任せておいて、(銭湯経営者も含めた)一般人は普通に接すればいいのです。もちろん、何かしらの犯罪行為を目撃した場合はすみやかに通報すべきですけれども。
そして、上に述べたニュースは20年ほど前の話でしたが、今や入れ墨(タトゥー)は、日本においてもカジュアルなファッションの一部となっています。すでに、反社会勢力の指標という意味合いは薄れている(ゼロになってはいませんが)。
つまり、銭湯の「入れ墨の方お断り」も、外国のタトゥーと同じく文化ではあるのですが、そもそも誤った文化であって、即刻廃止しても差しつかえない、というかむしろ、即刻廃止すべき文化だということです。ヤクザを銭湯から排除してきたのがそもそも間違いだったのです。
だから、銭湯に入れなかった外国人女性は、「タトゥーは私の国の文化だから認めてほしい」と主張するのではなく、「タトゥー(入れ墨)が入っている人を排除する文化はおかしい」と言うべきだったのです。もちろん外国の方は日本の文化を充分理解できてないでしょうから、「なぜそう言わなかったんだ」と批判するのはおかしいですよね。僕が言っているのは、理論的にはそのほうがスジが通っているという話で、外国人女性を批判しているわけではありません。
もっとも、20年前の話なので、こんなことを言うまでもなく、すでに銭湯の「入れ墨の方お断り」は消滅へと向かっているのかもしれませんが。はやいとこ、「今は無き過去の文化」のひとつになるといいですね。
それにしても・・・捕鯨とか、食文化とか、宗教とか、文化の対立というのはやっかいなものですね。
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