徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

ジャパンフリトレー レイズ チーズ味

2023-04-21 22:07:44 | 
今日はメジャーリーグです。




世界中で食べられている安定のブランド、レイズ。これは台湾産。女子はみんな大好きチーズ味。
ファミレスのメニューについて話します。ロイヤルホストの話。
ロイヤルホストには、生ハムというメニューがあります。イタリア産の生ハム。細かく刻んだ、パルミジャーノレッジャーノっつー固くて水分量が少ないチーズが添えられています。チーズを生ハムで巻いて食べるんですね。
その生ハム、よく頼んでいたんですけど、注文するとかなりの確率で、「生ハムサラダですか?」って訊き返されるんですよね。生ハムとは別に、生ハムサラダというメニューもあるのです。注文を間違えないための確認です。
それに対し、「いや、ただの生ハムです」と答えると、今度は「生ハムとチーズのやつですか?」と尋ねてくるのです。たしかに、生ハムにはチーズが付いています。でもメニューには「生ハム」としか書かれていないのです。
僕はそんなやり取りがあるたび、「じゃあメニュー名を「生ハムとチーズ」にしとけよ!」と思ってました。
メニューに「生ハム」としか書かれていないから生ハムと頼んでいるのに、それじゃ通じない。理不尽じゃないですか。
「生ハムとチーズ」であれば、「生ハムサラダ」との区別もつきやすいから、サラダと間違えていないかどうかの確認の質問もしなくてすみます。「生ハム」だけじゃまぎらわしいなら、最初から名前を「生ハムとチーズ」にしておくべきなんですよ。なんでそうしねーんだと。
細かいことですが、ストレスでした。
そんな生ハムですが、数年前に付け合わせのチーズがなくなり、オリーブオイルがかかったものに変わったあと、いつの間にかメニューからなくなっていました。生ハムサラダはまだあるんですけどね。僕がブツブツ言ってたのが呪いとなって消滅したのかもしれません。
なんか納得いかねーっていう、そんな思い出です。
でもそんなロイホが「SUKKYA!」(by.アインシュタイン 稲ちゃん)


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
最近の話題じゃないんですけど、上の記事が短めに終わったんで、コロナによって沸き起こった出来事について解説します。
おもにコロナが流行り始めたばかりのころ、感染者が非感染者から責められる事例が相次ぎました。感染というのは単なる不運でしかないものです。誰しも意図的に感染したわけではない。
それなのに、あたかも感染者に非があるかのような発言が飛び交いました。「感染したのはお前が悪い、お前のせいでみんなが迷惑している」などの罵声が投げつけられたのです。それでなくてもしんどい思いをしている感染者は、心無い非難によって二重三重に苦しめられたことでしょう。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。なぜ運悪く感染しただけで、なんの責任もない感染者が責められねばならなかったのでしょうか。感染者は同情しいたわるべき相手であって、立ち向かうべきは病そのものであるはずです。なぜこのような倒錯が起きるのでしょう。
実はこのような反応には、歴史的な理由があります。
太古の昔、まだ人類が科学的思考を身に着けていなかった時代。その当時、世の中の事象を説明するのは呪術でした。目に見えない力がことわりとなってこの世界を動かしている、という考え方です。
人は、説明を求めるものです。わからないものをわからないままにしておくのが堪えられない。
なので、原因がわからない病もまた、呪術で解釈しようとしました。
病の原因は、「ケガレ」にあるとされました。ケガレとは、罪のことです。罪があるから病にかかる、というわけです。
そして、あまりにも流行り病がひどいときは、ケガレを一部の人間に押し付けようとしました。選ばれたのは、共同体の中の被差別者、賤民です。
被差別者が何か悪さをしたせいでケガレている。だから流行り病が起きた。そのようなストーリーをでっち上げたのです。
そして、そのケガレを背負わせた被差別者を、共同体から追放したのです。そうすることで、ケガレ(=病)を共同体から追い出したことにした。
感染症はウイルスが原因ですので、実際には追い出せてはいないのですが、追い出したと思い込むことで安心を得ようとしたのです。科学的思考が存在していなかった時代、ウイルスという真の原因に気づけなかった時代、人は、このように考えなければ安心することができなかった。なんとか不安にさいなまれずにすむように、「ケガレ」という概念をでっち上げたのです。
それは、その時代としてはしょうがないことだったと思います。でも、いい加減その思考法から脱却しないといけない。
人がなんの責任もない感染者を責めるのは、ケガレという考え方が遺伝子レベルで身についているからです。おそらく日本人は、日本列島に住み着いて以来、近代化までの長い間、ずっと流行り病をケガレによって説明してきたのでしょう。長くて数万年の歴史がある思考法なのです。対して、科学的思考はわずか100年ちょい。まだ馴染みがないのです。頭では理解していても、行動様式に沿わせることができない。
ケガレという概念は、日本人の骨の髄までしみ込んでいるのです。だから、ことあるごとにこの思考法が顔を出す。ウイルスという存在を知っているにもかかわらず、ケガレによって解釈しようとするのです。
ほぼ無意識で「感染者=ケガレている=罪がある」という連想が起こる。だから何も悪くない感染者に責任があるかのような言い方をするのです。
その思考法が身についている以上、それに引っぱられてしまうのはある程度しかたないとは思います。
でも、いい加減やめにしないといけない。こんな非科学的で非合理で、何より非人道的な思考法は、科学を知らなかった時代の負の遺産であると認識し、別れを告げるべきです。
一体いつまで、責めるべきでない相手を責め続けるのでしょうか。立ち向かうべき相手を取り違え、誤った取り組みを繰り返すのでしょうか。
我々は科学的思考の世界に生きています。感染症は、ケガレではなくウイルスによって引き起こされるのです。
いつまでこんな倒錯を繰り返すのか。いい加減目を醒まさないといけません。

ブルボン トリュフ ミルクガナッシュ・カフェミルク

2023-04-14 23:32:17 | 
今日は世界三大珍味のひとつです。






わずか100円ちょっとで珍味にありつけるのです。なんともありがたい話ではありませんか。珍味は甘かった。
中学のとき、友達が「世界のミュージシャンベスト100」というものがあると教えてくれたことがあります。世界中のミュージシャンの中から特に優れている100組(人)を、ランキング形式で発表したものでした。
友達は、「日本のミュージシャンはひとりも入っとらんとばい」と言いました。世界のレベルは高く、日本のミュージシャンはその水準まで届いていないのだ、ということでした。ランキングには、ビートルズやローリング・ストーンズやボブ・ディランやマイケル・ジャクソンなどが選出されていたように記憶しています。
対して、日本のミュージシャンはただのひとりもランクインしていませんでした。世界のサカモトも北島サブちゃんも入っていなかったのです。
僕は不愉快に感じながらも、やむを得ないことなのかと思いました。事実としてランキングに入っていない以上、それは評価されていないということであり、いくら自分が日本の音楽を優れたものと考えていようとも、世界中のありとあらゆる音楽を聴きこんでいる人達にとっては、けっしてレベルが高いとは言えないということなのかと。
中学生だった僕は、それを悔しさとともに納得せざるを得ませんでした。世界レベルとはそれほど高いものであり、日本はまだその足元にも及んでいないのだと。
ですが、今となってはそれは間違っていたとはっきり言えます。「世界のミュージシャンベスト100」の「世界」とは、「欧米」のことだったからです。
このランキングを決めた人たちはみな欧米人で、欧米のミュージシャンしか選別の対象になっていなかったのです。彼らは、「欧米」を「世界」と呼んでいたのです。
すべての国の有名どころの音楽を聴いたうえで公正に選出したのではなく、ごく限られた国の音楽しか聴いていなかったのです。アジアやアフリカや南米の音楽は、最初から範疇に入れていなかったのです。
ひょっとしたら、「ちゃんと世界中が対象になってますよ」という言い訳のために、中国やメキシコやソビエトやトルコのミュージシャンを「お情け程度」にランクインさせていたのかもしれませんが、それはあくまで「世界のミュージシャン100選」の体面を保つための方便。公正な評価でもなんでもなかった。
結局、「世界のミュージシャンベスト100」とは、そのような性質のものだったのです。欧米こそが世界だと思い上がった人々が、欧米以外の音楽、欧米以外の評価軸には目もくれず、自分達の感性、自分達の評価軸こそが絶対、もしくは普遍的なのだと決めつけていた。その独断と偏見に基づいて選定されていたのが「世界のミュージシャンベスト100」だったのです。テレ朝でやってる「プロレス総選挙」が露骨に新日寄りなのと一緒ですね。
中学のときの僕は、そのことに気づかなかった。思い上がった欧米様の前に、こうべを垂れるしかなかったのです。

このような思い上がりは、ほかの場面でも見られます。
たとえば、「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」という表記。僕は初めて「世界大戦」という言葉を聞いたとき、世界中のすべての国が入り乱れて繰り広げられた戦争のことだと思いました。「世界」大戦というからには、世界中で戦いが起こっているはずだと。つまり、すべての国が参戦しているはずだと解釈したのです。
でも、そうではありませんでした。世界大戦に加わっていたのは、おもに欧米の国々。それ以外はソ連やオスマン帝国や中華民国や日本など、ごく一部。あとは参戦したというより、巻き込まれたといったほうが正しい植民地の国々。
「世界大戦」とは、おもに欧米を舞台とした戦争であって、参戦していない国のほうが圧倒的多数でした。「世界」と呼ぶにはふさわしくない、極めて局地的な戦争だったのです。
子供のころの僕は、「世界中のすべての国が戦う」という光景を夢想してワクワクしていましたし、世界中の国が参戦していなかったと知ったときはガッカリしました。それは不謹慎極まりない幼稚な感情だったのですが、それはそれとして、「世界」という言葉の表記の問題もあります。
なぜ「欧米」を「世界」と呼ぶのか。なぜごく一部の国を世界そのものと取り違えるような錯誤を犯すのか。
それはひとことで言うなら、「思い上がり」にほかなりません。
自分達こそが世界の中心だと、自分達の基準こそが世界基準だという思い上がり。自分たちが世界を作り上げているのであって、すべての国は否応なしにそれに従わなければならないという思い上がり。このような思い上がりこそが、「世界とは欧米様のことだ」という妄想にリアリティを与えていたのです。
まあヨーロッパのほうじゃ「世界大戦」ではなく、「欧州大戦」って呼んでるらしいんですけどね。だとすると、思い上がった欧米様ではなく、欧米様のお仲間になりたいモンキーバナナの日本が、自分達はアジアではなく欧米に属していることにするべく、世界大戦という不自然な造語をでっち上げたのかもしれません。
あと「北米大陸」「南米大陸」っていう名称もねぇ。南米はアメリカじゃないじゃないですか。それにコロンビアだのベネズエラだの、アメリカと仲悪い国も多い。「南米は反米」ってわけわかんねーよ。

いずれにせよ、「世界」という言葉には、充分気をつけなくてはいけません。その「世界」とは、何を指しているのか。世界中のすべての国が含まれているのか。ごく一部の国や地域をもって「世界」と呼んでいるだけではないのか。その「世界」に含まれない国、こぼれ落ちている地域があるのではないか。
そして、その「世界」にスポットライトが当たるとき、そこからこぼれ落ちた国や地域はどのような状況なのか。光が当たれば、影もできる。輝かしい光を浴びる「世界」のその裏で、暗闇に覆われた「世界」に含まれない国々。その格差と差別。
ごく一部の国を「世界」と呼ぶとき、見えなくなっているものが確かにあるのです。
見たくないものを見ないために「世界」という言葉が使われているのかもしれない。「世界」という言葉によって見えなくなっているものほど、しっかり見据えないといけないものなのかもしれない。「世界」という言葉によって、意図的に現実が歪められているのかもしれない。
「世界」という言葉は、それだけ慎重に接する必要があるのです。自分が使う場合も、よく注意しなければならない。そうしないと、都合よく現実を改変する「自己中」の理論にからめ捕られてしまうかもしれない。気づかないうちに自分が自己中になっているかもしれないのです。
その「世界」は、本当に「世界」ですか。