徳丸無明のブログ

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R-1グランプリ2024 感想

2024-03-12 23:47:44 | 雑文
3月に入り、寒さのピークはようやく過ぎたものの、それでも春の訪れにはまだしばらくかかりそうで、やはり冬は長いとあらためて実感せざるを得ないとはいえ、解散したプラス・マイナスの今後が気になってしょうがない今日この頃、皆さんご機嫌いかがですか的なR-1グランプリの感想文です。
明治がスポンサーになることで、ヨーグルトのR-1とのコラボという、長年の悲願がついに達成されたR-1グランプリ。今回から芸歴10年以内という制限が撤廃されましたが、それとネタ時間が3分から4分に変更されました。前からネタ時間が短いと思ってましたので、個人的には喜ばしいです。

個別の感想は以下の通り。まずはファーストステージから。


真輝志・・・高校に入学したての、一見平凡な少年。しかし隠れた才能があった?ドラマやマンガによくある、オープニングで「これはどのような物語か」「どんな結末が待ち受けているのか」をナレーションで示すという演出を利用したネタ。普通登場人物にナレーションは聞こえないが、なぜか聞こえてしまうことで、これから選択しようとしている活動が、つまらない結末をもたらすことを知ってしまう。
フィクションのお約束を逆手に取った、お遊びネタですね。英語のナレーション、なんて言ってたの?誰か教えて!あと、軟式ラグビーって実在するんですか?主人公の結末ばかりが示されるのかと思いきや、クラスメイトの女子も入ってきて、2人の物語が交差するというドラマチックな展開。全体のまとまりがよくできていました。
おそらくこれが全国はじめましての真輝志。「ほなええわ」の人として覚えられるかもしれません。

ルシファー吉岡・・・婚活パーティーに参加した男・戦原(そよぎはら)。しかし女性陣はパーティーのルールを理解しておらず、説明役を負わされてしまう。
1分ごとに対面相手が入れ代わる自己紹介タイムという形式をうまく利用しています。時間が1分しかないので、説明が終わるとともに相手が交代し、自己紹介をするヒマがない。同じパターンを繰り返すたびに、チャイムの「チーン」という音が主人公のガッカリ感の表れのようにむなしく響く。最初は説明するのが煩わしかった主人公が、だんだんムキになっていき、説明に対する責任感が生まれていく。
いや、よくできていますね。このシンプルな設定。日常の延長のようなありきたりなストーリーでよくここまで。「空回り」とか「孤軍奮闘」とか、お笑いの典型ですけど、その基本に立ち返りつつ精度の高さを見せつけられた思いです。

街裏ぴんく・・・ルシファーを称するのはともかく、「こう見えても女芸人」とは?ちょい不安なスタートでした。
作り話を実体験のように語る、ぴんくのファンタジー漫談。プールに行ったら石川啄木と遭遇、正岡子規やキュリー夫人まで登場するというタイムスリップ的な話。
ぴんくの漫談は、和田アキ子とX JAPANのToshiがケンカする話とか、芸能人が登場するのもありますけど、今回1本目にこのネタを持ってきたのは、認知度がほぼゼロだからでしょうね。自分のネタがファンタジー漫談だと知らなければ、事実を話してるのか、ウソの話なのかどうかが、よくわからない。芸能人が登場する話だと、本当のことと受け止めてしまうかもしれない。だから、作り話であるとすんなり理解してもらうために、歴史上の人物が登場する話にしたのです。その判断は正解でした。この1本目で街裏ぴんくという芸人を知らしめ、2本目のファイナルステージにつなぎ、優勝への流れを作ったのだと思います。

kento fukaya・・・マッチングアプリのネタ。男たちのプロフィールが奇妙なものばかりで混乱してしまう。フリップではなく、モニター使ってましたが、kentoの感覚ではフリップの変形(もしくは延長)なのでしょう。
最初は男の選択眼が厳しい女による毒舌ネタかと思いきや、登録している男の大半がおかしなやつらだった。ガラケーユーザーの僕には、iPhone 2Sのおかしさが理解できませんでした。「人人」を一発で「ひとんちゅ」と読めるのはスゴい。こういうプロフィールをひたすら考えるのが楽しくてしょうがないんでしょうね。それが伝わってきました。
陣内智則が指摘していた通り、くりちゃんの趣味がサプライズだったので、そこをオチに持ってくるべきだったと思います。あと、手にした「ト」の使い道が何かあったはずです。

寺田寛明・・・ツカミの「今日の偏見」、「インスタにしょっちゅう肉寿司の写真を載せる女は肉寿司がだぁいすき」って?思わず「そのまんまじゃねーか!」と叫んでしまいました。マイナスからのスタート。
国語辞典にネットのようなコメント欄があったら、というネタ。寺田らしい、知性を感じる考え込まれた作り。コメントによって、「言われてみればたしかにそうだな」と思わされる。聞いたことない言葉であってもちゃんと笑える構成。犬侍の、「応仁のわん」「ポメ騒動」みたいなダジャレは、いかにもネットのコメント欄にありそうなノリ。最後の「暗澹たる」の、「あんたんが重い樽を運んでいる」という解釈からの畳みかけで爆発していました。よくできていましたが、爆発、やや遅し。

サツマカワRPG・・・不審者と思わせといて、実は防犯ブザーの講習会。そういやサツマカワはカツラユーザーでしたね。今まで地毛を隠していたのが、武器として使う決意を固めたということでしょうか。カツラを取ったサツマカワ、うっすら遠藤憲一に似てますね。
お父さんの肉声バージョンに対する当たりが強すぎる。特定のユーモアに憎しみを抱いているのでしょうか。最後、子供と思いきや幽霊だったというオチ、少々安易に思いました。こういう「私のことが見えるんですか?」と話しかけられるのって、よくコントで使われてますよね。驚かす手法として便利なんでしょうけど、いろんな芸人さんが使ってるのを見てると、あまり軽々しくやらないでほしいと思っちゃいます。
大会後、でか美ちゃんとの結婚を発表したサツマカワ。末永くお幸せに。

吉住・・・彼氏の両親の家に挨拶に来た女。実は頻繁にデモ活動している危険人物だった。吉住の得意とする世界観。可愛い子ぶった振る舞いと狂気のギャップ。初め「ナオキさん」だったのが、2回目から「ナオくん」になっており、その礼儀のわきまえなさが、イタいキャラであることをさりげなく示しています。この作り込み、実にうまい。
多くの人が指摘していることですが、演技力も高く、ネタの世界に引き込まれます。さすが女優。個人的に今大会で一番よかったです。
なんでも、吉住のこのネタに対し、SNSで非難の声が上がっているそうで。いわく、「デモを揶揄するのはよくない」。あのね、これはお笑いなんですよ。冗談でコミカルに描いているのであって、本気でバカにしているわけじゃないんです。弱い立場にいる人を、さらに追い詰めかねない表現ならともかく、この程度で揶揄ってねえ。なんにでも難癖つけたがる人って、どこにでもいますね。

トンツカタン お抹茶・・・かりんとうの車のネタ・・・ってなんじゃそりゃ?かりんとうで作られた自動車が街を疾走。ミュージックビデオよろしく歌が情景を説明する。
歌ってるのは本人ではなく、録音された他人の声(ひょっとしたらボイスチェンジャーかも)で、たまに入るコーラスが本人。逆じゃない?もうわけがわからない。わからな過ぎて、「もう徹底的に好きなようにやってくれ」という気分になってしまいます。かりんとうと抹茶の相性のよさは認めざるを得ないとしても。審査員泣かせのネタ。あとなんか、ひさしぶりにかりんとうが食べたくなりました。
曲の完成度は高いので、聴いていて気持ちよくなります。しかし、「気持ちよさ」が「面白さ」を上回ってしまった感が否めません。ネタとして賞レースに持ってくるより、TikTokで流したほうがいいんじゃないでしょうか。バズりますよ、きっと。お抹茶はもう、好き勝手やらせるのが一番いい芸人のひとりと認めていいでしょう。トンツカタンではこのエキセントリックさがいっさい表れていませんが、そのほうがいいのでしょうか。トリオだとあまり目立てないので、その反動でこのようなピンネタが生まれてる、とか。それと、ここまでキャラが立ってるとは知りませんでした。なんとなくおとなしいタイプかと思っていたのに、妙にポジティブな陽キャ。このキャラだけで売れる余地アリです。
この世界観、クセになってしまうかもしれません。クセになる、つまりお抹茶にハマっちゃうということです。

どくさいスイッチ企画・・・ツチノコを発見した男の人生。よくも悪くもツチノコに振り回される一生を送る。リアルな描写を重視したんでしょうけど、10分後・3時間後・18時間後あたりは省いていいと思います。それよりもっとドラマチックなことが起こる場面を入れてたら、笑いが増えていたはずです。リアリティを多少犠牲にして、非現実的な飛躍をもうちょっと入れていたら。それでも充分面白かったですけどね。
どくさいはこれからもアマチュアのまま活動を続けるのでしょうか。だとしても、ネタ番組に呼ばれるようになってほしいです。


続きましてファイナルステージ。


吉住・・・窃盗事件の現場に駆けつけた鑑識。そこは交際相手の会社だった。彼氏の前では可愛い子ぶり、上司の前では冷静なプロの顔になる。ひとつ思ったのが、この「ツン」と「デレ」の切り替わりがもっと激しく行われてたらよかったんじゃないか、ということ。あと、浮気が発覚して態度豹変しますけど、その冷酷に詰め寄るさまが「ツン」と「デレ」より面白いので、このパートをもっと長くしてたら、と思いました。
1本目がよすぎたせいで、こちらがイマイチに見えているのかもしれません。

街裏ぴんく・・・実は自分はモーニング娘。の初期メンバーだったという告白。その舞台裏を打ち明ける。1本目で自己紹介は済んでますから、みんなファンタジーを素直に楽しめます。悦夫・越・嗚咽。漢字で入力して確認したくなりました。
トータルで感じたこと。台本の出来(面白さ)とは別に、話術の巧みさというのもあって、巧みであればあるほど「つい引き込まれる」とか「ずっと聞いてられる」ようになります。落語や講談などの話芸に共通する心地よさ。ぴんくにはその巧みさがある。加えて、熱量。とにかく懸命に、大きな声でまくし立てるその熱量に、聞き手は「本当のことを話している」と同意せざるを得ません。同意するといっても、このデタラメな話をまんま信じるということではなく、「ウソとわかりつつもノリを共有し、ファンタジーの世界にともに入り込む」ということです。それによって、ぴんくの世界を内側から眺めているような感覚になり、よりおかしくなるのです。この熱量あっての優勝だったと言えましょう。
ぴんく、本当におめでとう。R-1には夢がある。

ルシファー吉岡・・・アパートの隣人の騒音に、苦情を言いにきた男。しかしそれよりも、隣人の大学生ケンジ君の、ラブコメ(もしくはリアリティ番組)のような日常の熱心な視聴者(?)だった。このネタのネックは、登場人物が多いこと。ケンジとその友人、ミカミ、ユキコ、ヨシエ、レイナが出てきますが(本筋と関係ないけど、名前の古くささにルシファーの年齢が表れている)、ピン芸なので、当然のことながら観ている側で想像して補うしかありません。この想像、5人もいると把握が大変。誰がどんなキャラだか、それぞれの関係性はどんなだか、覚えながら話のスジを追わなきゃいけない。僕は正直、1回観ただけでは理解できませんでした。このわかりにくさが敗因ではないでしょうか。せめて3人くらいにしておけば。ケンジとユキコとレイナの三角関係だけでも成立したはずです(脳科学的に、人は3つまでのものなら同時に把握できるけど、4つ以上となると把握が困難になるのだそうです)。「じゃないんだよ」の前の間はよかったですね。
それより気になったのが、今回2本とも下ネタではなかったところ。なにか心境の変化でもあったのでしょうか。それとも、下ネタかどうかにこだわらずネタ作りをして、たまたま出来た強いネタが下じゃなかった、ということなのでしょうか。本人に訊いてみたい気もします。


今回芸歴制限の撤廃により、エントリー数が過去最高になりました。当然全体のレベルも上がっているわけです。芸歴10年以内なのは、10年目の真輝志と、9年目の吉住だけ。
苦労人に報われてほしいと望んでいる僕にとって、今大会は喜ばしい結果となりました。ぴんくは以前悪役専門の俳優事務所に入っていたそうで、自分でコワモテだと言ってますけど、僕はカワイイ顔してると思います。愛されキャラになる素質アリだと。これから起こるブレイクに期待。ネタのストックたくさんあるでしょうから、ネタ番組に定期的に呼ばれるようになってほしいです。
なんだかんだ言って、結局盛り上がるR-1。これからもドラマを起こし、スターを輩出してくれることでしょう。
不正がバレないよう頑張ってください。

菓道 わさびのり太郎・のし梅さん太郎・酢だこさん太郎・とり焼さん太郎

2024-03-08 23:31:35 | 
今日は太郎がせいぞろいです。










魚のすり身とイカ粉を混ぜ、薄く引き伸ばして焼いたもの。駄菓子にしては辛かったり酸っぱかったり、子供には好みのわかれるお味(とり焼さんは除く)。
特にわさびのりは酒のツマミにちょうどいいと評判で、大人向けの駄菓子ってかんじです。肴はわさびの海苔でいい。駄菓子はお安いほうがいい。
家電の話をします。電化製品の話。
僕は基本的に、モノは壊れるまで使う主義です。ケータイを新機種出たから買い替えるとか、洋服を流行のシーズンごとに替えるとか、そういうことはしません。
なので、家電はけっこう長いこと使います。多少具合が悪くなっても、完全に壊れるまでは使おうとするのです。
それゆえ、不便な思いをすることが多々あります。これまで家電をどのように使い、そして買い替えてきたのか。
まずはテレビ。僕は2000年に熊本から福岡へ引っ越して、ひとり暮らしを始めました。その際、ひととおりの家具・家電を購入しました。
2000年当時は、フラットパネルのテレビが出回り始めたころでした。それまでテレビといえば、表面が湾曲したブラウン管。画面のはじっこのほうが極めて見にくいものでした。今や当たり前のフラット画面が、とても画期的だったのですね。
ただし、まだ重くて奥行きのある箱型テレビで、アナログ放送でした。昔はテレビの上にモノが置けるのが当たり前で、アンテナ設置してたり、ぬいぐるみ飾ったりしてましたね。薄型テレビが販売され、デジタル放送が始まるのは、もう少ししてからのこと。
ひとり暮らしを始める直前、ブラウン管とフラットパネルがともに電気屋に並んでいました。普及し始めたばかりのフラットは、ブラウン管よりお高めでしたが、画面の質を優先してフラットを選びました。
そのフラットパネルの箱型テレビ、デジタル放送が始まるまで使っていて、デジタル放送以降も、デジタルに切り替えるチューナーみたいなやつ(記憶が曖昧で、どんな物だったか思い出せません)を取りつけて使い続けてました。
で、使い続けて7年目くらいのころ、スイッチを入れてもすぐに点かなくなりました。元々3秒くらいで点いていたのが、10秒20秒かかるようになってきたのです。音はこれまでと同じように、3秒で聞こえ始めるのです。音は聞こえるのに画面は真っ黒、という状態が10~20秒あってから普通に見えるようになるわけです。
その「音は聞こえるのに画面は真っ黒」の時間が、少しずつ長くなっていきました。1分になり、2分になり、3分4分5分と、どんどん伸びていきました。画質もうっすら悪くなっていきました。
それでも「使えることは使えるから」と、不便をガマンして買い替えずにいました。
「音は聞こえるのに画面は真っ黒」の時間は、際限なく伸びていきました。ついには30分かかるようになりました。
そこに至って僕も音を上げました。これ以上ガマンできない。30分もまてないと。半年か1年くらいガマンしてたと思います。
そこでようやくテレビを買い替えました。その当時、箱型はもうなくなっていたと思います。薄型の、デジタル対応のやつに替えました。
しかしテレビ画面っつーのはどんどん鮮明になっていきますね。もはや現実と同レベルですが、これ以上鮮明になる余地あるのでしょうか。

あ、それとですね、最近リモコンを買い替えたんですよ。反応が悪くなってきたんでね。
シャープのAQUOSなんですけど、同じ型のリモコンの在庫が電気屋になかったんですね。で、その代わり複数のテレビに対応できるタイプのリモコンがあると言われたんです。
専用のリモコンだと、取り寄せに時間かかるし、ちょい高い。複数のテレビに対応した、マルチタイプのリモコンは、オリジナルのリモコンより2000円くらい安かったんです。
じゃあそのマルチタイプでよかろうと購入し、自宅で使おうとしたら、異変に気づきました。「番組情報」のボタンが付いてなかったのです。
「番組情報」は、今視聴してる番組の文字情報を表示するボタンです。そのボタンがないということは、番組情報の画面を表示することができないということです。
マルチタイプなら、オリジナルのリモコンと互換性があるものとばかり思い込んでいたのですが、機能が不足していたのです。僕はけっこう番組情報を見るので、その機能が使えないのはガマンできません。
なんでまた電気屋に行き、リモコンを替えてほしいと申し出ました。すると、マルチタイプはもう1種類あり、そちらのほうには「番組情報」のボタンが付いていると言われました。なんで昨日教えてくれなかったんだ・・・。
その「番組情報」のボタンが付いているほうは、付いていないほうより500円ほど高かったのですが、必要な機能なのでそちらに替えてもらいました。しかし、家に帰って確認すると、またしても問題があることに気づきました。
オリジナルのリモコンは、「番組情報」の隣に「番組表」のボタンがあったのですが、第2のマルチタイプリモコンは、「番組情報」と「番組表」の位置がかけ離れていたのです。
最初はそのうち慣れるだろうと思っていたのですが、使ってみると、これがまあ不便。「番組情報」と「番組表」は、同時に見ることが多いんですよね。「番組情報」を見たあとに「番組表」を見る。もしくはその逆。
2つのボタンは、連続して触ることが多いのです。この2つが並んでいるのには必然性があったわけです。
なのに、マルチタイプのリモコンは、2つのボタンが離れていた。オリジナルのリモコンであれば、2つのボタンが並んでいるから、指を横にずらすだけでよかったんです。いわば、ブラインドタッチができた。
でも、マルチタイプはそれができないのです。「番組情報」を押したあとに、「番組表」のボタンを「どこだっけ」って捜さないといけない。その一回一回捜す手間が面倒でしょうがないのです。
すぐにストレスで耐えられなくなりました。
なんでまたまた電気屋に行き、オリジナルのリモコンとの取り替えを頼みました。最初のマルチタイプと比べて2000円高くなってしまいましたが、ストレスよりマシです。
ボタンの配置って意外と重要なのだということを学びました。同時に、マルチタイプのリモコンをデザインしたヤツはアホかと思いました。「番組情報」と「番組表」は並べとけよと。
しかしリモコンってのはけっこうよく壊れますね。ブルーレイのリモコンも2度買い替えてるんですけど、電気屋の店員さんは、「リモコンは消耗品です」と言ってました。

次は扇風機。引っ越しの際、実家で使ってた扇風機を持っていきました。たしか1990年代の半ばごろに買ったやつだったはずです。
家電って、機能がシンプルなほど長持ちしますよね。この扇風機もだいぶ持ちました。たぶん、2015年くらいまで使っていたはずです。
ですが、具合は徐々に悪くなっていきました。2005年ごろから、スイッチを入れても動かないという不具合が起こり始めたのです。
しかし、何度もスイッチを押したり、コンセントを入れなおしたり、設置場所(扇風機の置き場)を変えてみたりすれば動いていました。なので、動き出すまでに何度かそのような「試行錯誤」をする手間がかかるものの、使えることは使えるので、ガマンしていました。
ですがテレビのときと同様、何度スイッチを押したり、コンセントを入れなおしたり、設置場所を変えたりしても、なかなか動かなくなっていきました。
動き出すまでの「試行錯誤」にかかる時間は長くなっていき、10分20分経っても動かなくなりました。しかも、ようやく動いたと思ったらすぐに止まるようになってきたのです。コードに軽く触れただけで止まってしまうこともありました。異様な繊細さです。
クソ暑い日本の夏。汗をダラダラ流しながら何度もコンセントを入れなおし、何度も設置場所を変え、「点いてくれ、点いてくれ」とつぶやいていました。
もう完全に壊れたのではないかというくらい動かなくなったころ、ようやく買い替えを決意しました。
そんで電気屋に行ったのですが、店頭に並んでいた扇風機、想像していたのとだいぶ違ってました。
なんか、なんとなく東芝とかナショナルとか、日本の家電メーカーのやつが置いてあるものと思っていたのですが、それら馴染みのあるメーカーのものは皆無で、聞いたことのないメーカー名ばかりだったのです。国内メーカーなのか、中国や韓国なのかも不明。
それともうひとつ、想像と違っていたのが、どれもこれもデザインがダサいこと。僕はごくシンプルなデザインのやつを求めていたのです。オシャレじゃなくていい。シンプルでいいと。
ですが、シンプルなデザインの扇風機はひとつもなく、ことごとくダサいデザインのものばかり。これはどうしたことかと首をひねりました。
家電の歴史も、もうそれなりにあります。だからデザインの蓄積もあるはずです。
そこそこ洗練されたデザインの扇風機を設計することなど、さほど難しいことではないはずです。
なのに、並べられているのはダサいものばかり。不思議で仕方ありませんでした。わざとダサく作ったのかとすら思えてきました。
「これもダサい、これもダサい」と心でつぶやきながら売り場を見て回りました。するとひとつだけダサくないのがありました。しかし、妙にオシャレでスタイリッシュなデザインのやつでした。
僕はダサいのもイヤなのですが、スタイリッシュなのもちょっと恥ずかしいんですよね。カッコつけてるみたいで。
しかし、ダサいのとスタイリッシュなのしかないのであれば、選択の余地はありません。消去法でスタイリッシュなやつを買いました。
僕の地味な部屋には不釣り合いなスタイリッシュ扇風機、ただいま絶賛活躍中です。
なぜ扇風機はダサいデザインのものばかりになったのか。内幕をご存じの方はご一報ください。
だいぶ長くなりました。ほかの家電は次回に話します。

江崎グリコ Bigプッチンプリン

2024-03-01 23:38:14 | 
今日はキレるプティングです。




プッチンプリンには「ツメ」があります。プリンをお皿に乗せるためです。ツメを折ると、容器からお皿に移すことができるのです。
しかしそのツメ、ほとんど折られることがありません。プッチンプリンをお皿に移さず、そのまま食べる人は約98%(推定)。大半のツメはムダになっているのです。
わざわざ用意されておきながら、折られることのないツメたち。役目を果たせないまま、焼却処分されるツメたち。
ツメの怨念は積もりに積もっています。いずれこの怨念は形を成し、人類に災いとなって降りかかることでしょう。
そのときは当然、ツメがキレる「プッチーン」という音が響き渡るはずです。
え?そういうお前はプッチンしてるのかって?するわけないじゃないですか、皿洗うのめんどくさいのに。

性差別について話します。個人の責任か、時代のせいかという話。
僕は以前、グループホームで働いていました。グループホームは、認知症のお年寄りを預かる介護施設です。
勤めていた当時、80代の男性入所者がいました。認知症ではあるものの、物忘れと、ごくまれに妄想を口にする以外はしっかりされていて、普通に会話のできる人でした。足が衰えていたため、杖と手すり、もしくは介護職員の介助に頼って歩いていました(外出時は車椅子を利用されていました)。
ウマが合ったのか、僕はその方に気に入られており、よく話し込んだりしていました。
その方は、仕事の話になったとき、「男にしかできないことがある」という発言をされたことがありました。女性職員の中には、その方に対して、「女を下に見ている」と反発している人もいました。
たしかに、そう言えばその通りと言えなくもない方でした。男尊女卑というか、男のほうが偉いと思っているフシが、かすかにある人でした。
でも、僕の目には、「この年代にしては」性差別意識が少ないほうに見えました。その方は戦時中生まれ。その時代に生まれ育った世代にしては、比較的女性と対等に接していたように思えたのです。
それに何より、僕は思うのです。年寄り連中、年配の男性の中に男尊女卑の人がいるのは、その人の性格に問題があるのではなく、生まれ育った時代のせいなのではないか、と。
「男のほうが女より偉い」という考えが、常識だった時代がありました。今は男女平等が当たり前で、「男のほうが偉い」などと言えば、「バカなことぬかすな」と非難されます。
それと同じように、かつては「男女は平等だ」と言ったら、「何をバカなことを」と論難されるような時代があったのです。
常識の変化。かつて、男尊女卑を、社会の成員(日本人全員)が常識として受け入れねばならなかった。その考えが時代とともに変化し、男女平等が常識となった。
つまり、今の時代を生きる我々が、「男女平等」を当たり前のこととして教えられてきたのと同じように、「男尊女卑」を、疑う余地のない真理として教えられてきた人たちがいたのです。
男尊女卑的意識のある年寄りと、男女平等当たり前の若者の違いは、性格の良し悪しなのか。
女性に差別的な発言をしてひんしゅくを買う年配男性がいます。たまにニュースになりますね。
彼らは、性格が歪んでいるのでしょうか。それはあくまで彼らの性格の問題、個人的な気質に帰せられる問題であって、そのような発言をした個人を道徳的に非難していればそれでいいのでしょうか。
僕は、それは少し違うと思います。彼らは、「時代の被害者」なのではないかと思うのです。
先に言いました通り、男尊女卑が当たり前だった時代がありました。その時代に生まれたということは、男尊女卑という時代の空気を否応なく浴びながら育つしかなかった、ということです。
「男女平等」という考えなど存在しておらず(あったとしても稀で、それに触れる機会などほぼなく)、「男尊女卑」以外の考え方、それ以外の男女関係のとらえ方などなかった時代。選択の余地なく「男尊女卑」を常識として身にまとうしかなかった時代。そんな時代に生まれてしまったなら、男女は平等であるという意識など、持ちようがありません。否応なしに、意識を男尊女卑に染め上げられてしまう。
性差別発言をする年配男性は、そんなふうに人格形成してきた人たちなのです。それって、時代のせいで男尊女卑になってしまった、とも言えるのではないでしょうか。
「男のほうが女より偉いのだ」と教えられて育ったのに、時代の変化とともに、いつの間にか「男女は平等だ」というのが常識になっていた。そうなると、「オレが教わってきたことはなんだったんだ、話が違うじゃないか」っていう気になるんじゃないでしょうか。
つまり、性差別発言は、個人の人格上の問題というよりも、生まれ落ちた時代の問題なのではないか、ということです。
と言っても、100%時代の責任にしていいかというと、簡単にそう断言するわけにはいきません。その人の人格に、非難されるべき点があるかもしれないからです。
この切り分けは難しい。どこまでが時代の責任で、どこからが個人の責任なのか。その境目を正確にするには、困難がともないます。
しかしいずれにせよ強調しておきたいのは、性差別発言があったとき、「時代の影響」を考慮に入れるのを忘れるべきではない、ということです。人は、生まれ育った時代から、何かしらの影響を受けて育ちます。まったくなんの影響も受けずに育つことはできません。だから、その人の発言に何かしら問題があるのだとすれば、そこに生まれた時代の影響が少なからず潜んでいる可能性があるのです。
性差別の問題は、そのような視点を持ってとらえるべきではないでしょうか。100%個人の人格の問題とせず、時代のせいでそのような考えを持つに至ってしまったととらえる。そういう見方も必要なのだと思います。
これは何も、性差別発言をした人の罪を一切問わない、ということではありません。明らかな悪意を持った発言もあるでしょうから、個人の人格に対する批判的視点は捨てるべきではない。
ただ、個人の人格だけ槍玉にあげていればいいのか、ということです。それ以外の原因を見なくていいのか。彼らが生まれ育った時代もまた、原因のひとつなのではないか、ということです。

僕は1980年生まれです。80年代は、表向き男女平等を常識として掲げながらも、まだまだ「男のほうが偉い」という空気が濃厚でした。ホンネとタテマエの都合のいい使い分けというか、「平等ってのが正しいのかもしれんけど、でも実際男のほうが偉いよな」という考えが色濃く残っていました。九州という土地柄の影響も多分にあったかもしれません。
今は「男らしさ・女らしさの押し付けはよくない」と言われます。でも当時は、「男らしさ・女らしさを押し付ける」のが正しいことであり、大人が果たすべき義務だと思われていたのです。
そんなホンネとタテマエが分離した状態は、90年代まで持続していました。誰かが女性蔑視発言を公然と行っても、あまり批判されることはありませんでした。
男尊女卑が政治的に正しくないこととして、きちんと批判されるようになったのは、ようやく2000年代に入ってからです(個人的な実感による偏向が入り込んでいて、正確ではないかもしれませんが)。それまで男女平等は理想論、もしくはきれいごとと思われていました。
勤め先の介護施設には、70代の女性もいらっしゃいました。その方は、バリバリ仕事をこなしてこられた方で、2人の子供を育て、自分の稼ぎで一戸建てを建てられたのだそうです。
旦那さんはいらっしゃったのか、離婚されたのか、そのへんの事情は聞いていないのですが、女性が自分の稼ぎで家を建てるというのは、当時としてはかなり珍しかったはずです。女性は結婚すれば専業主婦になるか、働くにしてもパート程度だった時代に、男性と伍して働いてこられたのです。
気が強い方で、足腰が痛くても、絶対に杖や車椅子に頼ろうとはしませんでした。甘えることを自分に許そうとはしなかったのです。
そんな、男勝りなところのある方でした。仕事こそが生き甲斐というのが信条で、施設の中でもゆっくりしようとはせず、洗濯物を畳んだり、食器を洗ったりなど、家事をよく手伝ってくださってました。
なのに、入浴の時間にその方を一番風呂に誘うと、必ず「男の人が先に入らなくていいの」と確認してこられたのです。「一番風呂は男が入るもの」という考えを内面化されていたのです。
男勝りなところのある方でさえ、そのような男性優位の考えを、ゆるぎなく内面化していた。時代による影響が、いかに強固なものであるかの表れと言えましょう。

先に言いました通り、グループホームに入所されていた80代の男性は、足が衰えていました。杖をつきながら、手すりにつかまったり、職員の介助に頼ったりしながら歩いていました。
ある日の介助中、その方がふと、「あんたはいいな、自分の足で歩けて」とつぶやかれました。とっさに、何かなぐさめの言葉を、と思いましたが、結局何も言えませんでした。気の利いた言葉が思いつかなかったということもありますが、何を言ってもおためごかしにしかならないような気がしたのです。黙り込むしかありませんでした。
あのとき、何か言ってあげることができたのではないか。その思いは、今でも悔いとなって残っています。
もちろんこれはただのエピソード。これで男尊女卑的な一面が帳消しになるわけではありません。
ただ、男尊女卑的な面だけがすべてではない、ということです。その方と散歩に出た際、喫茶店でコーヒーをおごってもらったこともあります。パン屋のチョコクロワッサンを買ってもらったことも。
男が偉いとされる社会において、男は強くなければなりません。その社会では、男は我慢を強いられる。
自力で歩けない男性がついもらした、「あんたはいいな、自分の足で歩けて」という言葉。その方は普段、施設内の共有スペース(居間)で、テレビを観ながらのんびり過ごされてました。でも、その暮らしを心から楽しめてはいなかったのではないか。
もし自分の足で歩けたら。施設に入らず生活することができていたら。そしたら、あそこに出かけて、こんなこともして、今より日々を楽しむことができたはずなのに・・・。
テレビを眺めながらも、そんなことを考えておられたのかもしれません。ですが、「男は強くなければならない」と教えられてきた戦時中生まれ。そんな様子はおくびにも出していませんでした。

女性蔑視発言をして叩かれる年配男性が、たまにいます。ひょっとしたら、彼らは傷ついているのかもしれません。「オレだって好きで男尊女卑になったわけじゃないのに」と。
頭では理解していても、腹に落ちてはいない、ということは、ままあります。あとから学んだ男女平等が正しいことだとわかってはいても、子供のころに教え込まれた男尊女卑が、体に染みついていてどうしても離れない。そんなこともあるのかもしれません。
ひとつ想像してみましょう。まずあり得ないことではありますが、仮に今から20年後、日本が大きく変容し、男尊女卑が社会の常識になったらどうでしょうか(政治形態は独裁や社会主義ではなく、現状の民主主義のままとします)。男女平等が当たり前の我々は、その新常識に容易になじめるでしょうか。このような仮想実験を、真剣に我がこととして考え抜いたとき、自分自身は性差別発言者を頭ごなしに非難できるほど清廉潔白な人間なのか、性差別発言者は無条件に罵倒されて当然なのかどうかがわかってくるでしょう。
性差別発言をした人がいます。さて、その人個人を責めるべきでしょうか。それとも、その人が生まれ育った時代の責任なのでしょうか。
簡単に答えの出せない問いです。
ひとつのありかたとして、「発言を許さないけど、その人を責めない」という対応が考えられます。その人の性格よりも、時代の影響のほうに問題があるのかもしれない。だから、発言は絶対に認めないけど、責めない。年配の方であるならば、いずれ社会の一線から退場されるであろうから、そのときを静かに待つ。
いずれ「男女平等当たり前」の世代が多数派になります。そのときを待ちましょう。僕自身、少なからず男尊女卑の空気を吸って育った世代です。おそらく、僕にも性差別意識の芽はある(抑えようとはしてますけどね)。
「男には男らしさを押し付ける」のが当たり前だった時代に生まれ育ったため、子供のころには、男らしくあらねばならないと、自分をいましめていました。今にして思えば、かなり無理をしていましたが。
だから、僕と同世代くらいまでが社会から退場して、ようやく男女平等は現実的なものとなるのです。完全な平等は難しいかもしれませんが、それでも、今よりはだいぶマシになる。そのときを待ちましょう。
価値観や常識は時代によって変化します。男尊女卑を当たり前のこととして教わってきた世代は、時代の犠牲者だったのです。だから、責めない。退場を待つ。批判すると、不必要に傷つけてしまうかもしれませんから。
性差別意識を植えつけられてしまった、気の毒な時代の犠牲者たち。彼らが社会から退場するその背中を、静かに見送る。
そんな対応があってもいいのではないでしょうか。