猫じじいのブログ

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日本語聖書の「国民」「異邦人」は誤訳、エトノスとエトネー

2019-04-13 10:48:28 | 誤訳の聖書


ギリシア語にエトノスという言葉がある。
新約聖書の新共同訳では、単数形のἔθνος(エトノス)を「民」「民族」「人々」「国民」「国」「同胞」「ユダヤ人」「国の人」、その複数形ἔθνη(エトネー)を「異邦人」「諸国の民」「諸民族」と訳している。

似たような言葉にλαός(ラオス)という言葉がある。これも複数形がある。

エトノスもラオスも、日本語に訳しにくい言葉である。原因は、日本語に複数形や集合名詞がないためである。

日本語で複数形をつくるとき、「山々」や「花々」や「人々」のように、名詞を繰り返すか、「友だち」や「子供たち」のように「たち」を加えるか、「友ら」や「子供ら」のように「ら」を加えるしかない。

しかし、エトノスやラオス集合名詞である。どちらも、人間の集団をさす。しかも、この集合名詞は、複数形をとりうる。集団が複数あるわけだ。
集合名詞の複数形には、日本語はお手上げである。

旧約聖書はヘブライ語聖書とギリシア語聖書とがある。この両者を比較すると、ギリシア語のエトノスは、多くの場合、ヘブライ語のゴイー(גוי)やウーマー(אמה)に対応し、ギリシア語のラオスは、ヘブライ語のアーム(עם)やレオム(לאם)に対応する。

エトノスは、集団の各自が、自分たちが他の集団と異なると意識するような集団のことである。たとえば、同じ王のもとにいるとか、同じ神様を礼拝しているとか、同じ訛りの言葉を使っているとかである。
関西弁を話す人たちも、東北弁を話す人たちも、それぞれ、エトノスで、合わせて、エトネーとなる。

ラオスは、エトノスと違って、他の集団と異なるということが強調されない。ヘブライ語のアームは「人々」という軽い意味である。しかも、その複数形も、聖書で使われる。

新共同訳『マタイ福音書』4章15節に「異邦人のガリラヤ(γαλιλαία τῶν ἐθνῶν)」と言う言葉がある。口語訳も、昨年12月にでた聖書協会共同訳も、「異邦人の」となっている。これはまずい。

英語訳聖書では、古くは“of the gentiles”、最近では“of the nations”になっている。
“gentile”はラテン語に起源をもち、「同一部族に属する」の意味である。“nation”は「国民」という意味である。

『マタイ福音書』のこの節は、『イザヤ書』8章23節を引いている。イエスがガリラヤのナザレ出身であることに関連して、引用している。

「異邦人の」と訳すると、「ユダヤ人でない人たちの」の意味が強調される。
すると、イエスが「非ユダヤ人」だ、とも聞こえてしまう。
80年前のナチス時代の教会関係者には、イエスが「アーリア人」だと主張する者がいたが、これは間違いである。

本来のここの意味は、「諸国民の」である。
ガリラヤは諸国のはざまで、色々な国の出身者が住んでいた、という意味である。
アッシリア帝国の侵略、アレクサンダー大王の遠征、ローマ帝国の属州化で、中東沿岸部の各地域に諸国民の出身者がモザイク状に住むようになった。
イエスの時代には、ユダヤ人で固められた宗教都市エルサレムのほうが、特殊であったのだ。

文化的に異なる人たちが、同じ地域に住むということは、化学反応が起きるかのように、新しい文化が起きることだ。
イエスは、実際、ギリシアやローマ風の慣習、思考形式を受け入れた。ヘブライ語聖書に由来する食べ物の忌避や安息日などを無視した。イエスは、当時のユダヤ民族主義者とたもとを分かった。
パレスチナの隣のシリアには、ストア主義の哲学者が続出した。
支配され虐げられた者たちには、愛国は「重荷」でしかない。世界市民になるのである。

たしかに、ギリシア語のἔθνος(エトノス)は訳しにくい言葉である。
「民族」では重々しすぎる。「国民」では、諸国が壊れ、ローマ帝国の属州化された状況では、不適切である。
その複数形を「異邦人」と訳するのは、完全に間違いである。

自殺した彼女に思う、「悔い改め」の誤訳

2019-04-04 19:35:36 | 誤訳の聖書


新約聖書の日本語訳に「悔い改め」がやたらと出てくるが、これは、
山浦玄嗣や佐藤研が言うように、誤訳である。

もとのギリシア語は、動詞で“μετανοέω”、名詞で“μετάνοια”である。
“μετα”は「別に」という意味で、“νοέω”は「思う」という意味だから、「思いを変える」あるいは「考えを変える」という意味になる。
どこにも、「悔いる」という意味が含まれない。

この語を、山浦玄嗣は「こころを切りかえる」と訳し、佐藤研は「回心する」と訳す。

たとえば、マルコ福音書1章15節のギリシア語原文

πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῶ εὐαγγελίῳ.

は、新共同訳の「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」ではなく、

「時は満ちた、神の統治が近づいた。考えを変え、福音を信じよ」

と訳さないといけない。

なぜこのようなことをわざわざ言うかというと、現在のキリスト教に、教化=「教会(長老)が信者を導く」の考えが、いまだに残っており、新約聖書の訳が改善されないからだ。
カトリックには「懺悔」という習慣があり、プロテスタント改革派には「罪の告白」を毎日曜日全員で唱える。

じつは、私の高校、大学、大学院の同級生で、子供を持ちながらアパートの一室で自死した女性がいる。

彼女は、神様とお話しができることがある、と私に言っていた。父が厳しい人で、何もほめてくれず、人間は生まれながら罪があると言われて育ったとも言っていた。最近、私は、故郷に帰ったとき、彼女が通った教会がどこにあるか知った。戦後の満州からの引揚者のために作られた新しい街の一画にある、キリスト教改革派の教会である。現在のこの教会のwebサイトを見ても厳しい言葉にあふれている。

引揚者にはすざましい体験があって、自分を責めまくる傾向にあったのではないかと思う。結果として、子供(私の同級生)が罪の意識にとらわれ、自死を選択したのではないかと思う。

「悔い改め」や「罪の告白」は、生きていくのには、不要だ。
宗教の大事な役割は人を慰め、苦しみを和らげ、生きる意欲を与えることだ。
もちろん、苦しみの原因には、今の社会に原因があるのだから、政治での解決が必要である。
しかし、そのまえに、生きる意欲と人への信頼を取り戻す必要がある。

福音はあくまで「良い知らせ」であり、生きよというメッセージである。ここで、新約聖書の翻訳は大事であり、まちがっていれば、福音が不幸の手紙になってしまう。

[参考図書]
佐藤研、小林稔訳:「新約聖書福音書」岩波書店、ISBN:4-00-023310-6 (1996.11)
山浦玄嗣:「イエスの言葉、ケセン語訳」文春新書839、文藝春秋 ISBN: 4166608398 (2011.12)