かつて私がNPOで担当した女の子が戻ってきた。いま、彼女はここでエッセイを書いている。
この夏、彼女は眠れなくて頓服薬を飲んだら痙攣が起きた。これを期に、体も心も調子を崩して、不規則な通勤が始まり、特例子会社の所長に、「ここは福祉をやっているのではない」と言われ、休職となった。それで、NPOに戻ってきたのである。会うたびに元気になっている。
彼女は繊細な心と深い考察力に恵まれているので、彼女のエッセイを読むのが楽しい。ところで、昨日のエッセイのタイトルは『自分らしさ』であった。
私は、「自分らしさ」という言葉を使ったことも考えたこともないので、あわてふためいた。「女らしさ」「男らしさ」というときは、周りの期待像をいう。「自分らしさ」ではなく、「自分が自分であること」ということではないかと思った。
いつもは、エッセイを読んだあと、彼女をencourageするのだが、昨日はうまくそれができなかった。傷つけたのではと、心残りである。
ネットで調べると、ブログで「自分らしさ」という言葉を使っているのは、40代50代の女性で、20歳になったばかりの子が使うのは珍しいようだ。
「自分が自分であること」という言葉は、20代、30代の男が使っているようだ。
「自分らしさ」という言葉は、ニュアンスがちょっと異なるが、「自分が自分であること」を控え目に言っているのかもしれない。
ネットで「自分らしさ」の英語訳を調べると、“individuality”、“personality”と出ている。
“individuality”も“personality”も「個性」とふつう訳されている。エーリック・フロムは『自由からの逃走』で、“individuality”を「周りから切り離された存在」の意で使っている。
私は、“being myself”、“being yourself”という言葉のほうが好きである。
『自由からの逃走』(東京創元社)の第2章で、「10歳の子どもが、突如自分の個性(its own individuality)に目覚める」瞬間を、Richard Hughes の『ジャマイカの風(A High Wind in Jamaica)』から、フロムが引用している。
「彼女は自分が自分であることに突然気づいた」(She suddenly realized who she was)。
そして、彼女は狂喜して、帆船の縄はしごをのぼり、マストの先に腰掛け、手足を伸ばしてみて、つぎに、ワンピースの中の自分の素肌を肩こしにやさしく覗いた。
自分が自分であることは、自分の体を自分が思うままに使ってよい、自分のことは自分で判断してよいのだということである。
だから、「自分らしさ」「自分が自分であること」は、自分の長所を発見するという自己肯定ではなく、「自分で物事を判断してよい、決めてよい」ということに気づくことである。
『ジャマイカの嵐』で10歳の女の子が「自分は自分」に気づくことを早いように思う人もいるだろうが、私も、小学校3年生のころ、自分は覚えることが好きではない、覚えないのだと決意した。学校や両親に心ひそかに反旗をひるがえしたのである。
充分に賢いはずの彼女が「自分らしさ」を考えることに、やっぱり、違和感を覚える。
それに、いま、彼女は家を出て、グループホームに入ることを決断したのだから。