3日前の朝日新聞〈耕論〉で、『「日本人」を決めるのは』をテーマに3人が論じていた。めずらしく3人の論者の方向が一致していた。
17年前から日本に暮らす文筆家のマライ・メントラインは「多様なルーツを持つ日本人が増えた現在、こうした「ザ・日本人」像の押し付けは、マイクロアグレション(何げない差別)」であると言う。
カメルーン生まれの星野ルネは「(僕は)あえて言うなら「アフリカ系関西人」」「いろいろな日本人がすでにいるのだから、その人たちの人生を見て、それから「日本人とは」という話しをすればいい」と言う。ステレオタイプな色メガネを通してみるのではなく、個人としての自分を見て欲しいと言っているのだと思う。
私と同じ年に生まれた老人の社会学者の福岡安則は「日本人とは何か。それは定義不能」と言う。
私も、定義不能なのに「自分が典型的な日本人だと信じる」のは集団妄想だと思う。精神分析家のウィルフレッド・ビオンが、自己愛の未成熟な人々の集まりは、強烈な自信の持ち主に引きずられ、集団妄想を抱きやすいと言ったらしい。ヒトラーに率いられた1930年代のドイツ、ネタニヤフ政権下の現在のイスラエル、プーチン政権下のロシアも、そうではないか、と思う。
集団妄想は、国のレベルでも起きるし、町や村のレベルでも起きるし、学校や塾や会社でも起きる。差別やいじめの要因となる。
私は、ナショナリズムは自己愛の欠如からくる個人の劣等感の現われ、と思う。早速、確認のために、ビオンの著作を図書館に予約した。
メントラインは「(ドイツも)1999年の法改正で出生主義の要素も採り入れました」と言う。これも、大事な指摘で、国籍を「血統」で決めるべきではない、ということである。
ナチスは、何代も前にキリスト教に改宗していても、ユダヤ人の血が流れているとの理由で、一緒に暮らしていたユダヤ人を強制収容所に送った。
日本人か否かを、血統で決めるべきでも出生地で決めるべきでもない。
民主主義(democracy)の語源 δημοκρατία の δημο は、もともと「地域」を意味する言葉であった。「血統」と対立する言葉である。どの両親のもとに生れたかでなく、同じ地で暮らすものはみんな平等であるというのが民主主義である。
メントラインは、日本の首相が「国民の皆さん」と呼びかけるが、ドイツの政治家は“Mitbürger”と呼びかけると言う。その意味は「ともに暮らす人々」と言う。血統や出生地が日本人であることを決めるのではない。ともに暮らしているという事実が大事なのである。ともに暮らしているのだから、その地の政治に参加できねばならない。