ピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(みすず書房)は、気楽によめる娯楽作品である。
原題は“Other Minds”で、副題が“The Octopus, the Sea, and the Deep Origins of Consciousness”である。ダイビングとタコを愛する博識の科学哲学者が、タコと海と脳の活動についてエッセイを書いたものである。
知らなかったタコの生態を私も知ることができた。タコの神経細胞が約5億個もあり、犬の脳の神経細胞とほぼ同じ数とは知らなかった。また、タコの寿命が短くて約2年だとも知らなかった。
ただし、脳の機能については神経細胞の数だけから何も言えない。神経細胞から神経細胞に興奮を伝えるシナプス結合の数がもっと重要だ。神経細胞と神経細胞とのシナプス結合を変えることで動物は記憶するからだ。
人間の場合、1つの神経細胞が1000個から10000個のシナプス結合をもっているといわれる。タコのシナプス結合の数や脳の構造についての情報が本書にないので、神経細胞の数だけからは、タコが犬並みの知性をもっているとは言えない。
みすず編集部が目次の前につけた翻訳のことわり書きも、とても大事である。
《原文のmindに「心」、intelligenceに「知性」、consciousnessに「意識」という訳語を当てて訳し分けている。》
《英語のmindは、心の諸機能の中でも特に思考/記憶/認識といった、人間であれば主として“頭脳”に結び付けられるような精神活動をひとくくりに想起させる言葉である。》
日本語の「心」は、喜怒哀楽のような「情動」を思い起こさせるが、脳科学では、mindは情動を含めて脳の活動をひとくくりにして言う言葉である。日本精神神経医学会では、mindに「精神」という訳語を当てている。ところが、日本では、spiritを「精神」と訳すこともあり、編集部は「心」と仮に訳したのだと思う。
「知性」intelligenceは脳の活動から情動を除いた高次の機能をいう。
本書の第6章では、突然、タコの話からはずれ、言葉(speech)と心(mind)の話を始める。内なる声(inner speech)があるというのが、著者の主張である。言葉と心の関係は、難しい問題である。実は、脳の構造は哺乳類すべてに相似が成り立つ。そして、人間だけが言葉を話すが、心はすべての哺乳類にある。
聴力があり、発声能力があり、オウム返しができるが発語できない子どもを観察していると、確かに言葉にされるべき概念がない場合がある。言葉と心には関係がある。しかし、聴力がなくても、声帯機能に欠陥があっても、心があり、ボディーランゲージでコミュニケーションを取れる子どももいる。
言葉と心の相互作用による心の発達は確かにあるが、言葉によらない方法でも心の発達を促せるというのが、私の体験からくる信念である。
また、理系の人間の多くは、言葉を使わず、視覚に訴える手段を用いて考える。もっとも、バートランド・ラッセルは自分が言葉で考えると言っているが。
言葉と心の関係は、古くて面白い話題だが、教育や洗脳と関係するので、事例を集めての丁寧に議論すべきことだ、と私は思う。
なお、第6章の「意識」は言葉で説明できる自分の心の動きのことを言っているようで、興奮が脳全体に伝わり処理されることを指す脳科学での「意識」とは異なる。
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