先週の金曜日、朝日新聞に、西垣通のインタビュー記事『AIと私たち 本質を理解する』が載った。副見出しは『人知の代わりにはなりません 日本の焦りに心配』だ。
西垣は「人知」という言葉を使っていない。「知性」と言っている。「知性の代わりに決してなりません」と言っているのである。
「知性」は「知識」とは異なる。知識を生んだり知的な判断をしたりする「脳の機能」のことである。
「代わりになる」かどうかは、何を「知性」というかによって、変わる。現状でも、部分的には「人の代わり」になるだろう。チャットGPTはAIが「物知りだけの人」の代わりになることを示した。しかし、「学習」で得られる「知性」は「知性」のほんの一部である。
私は、ヒトの知性とは何か、どのようにしてヒトの知性がはたらくのか、などを研究する上で、AIの研究は役にたつと考える。AIの研究から得た知見は人類共有の財産であり、公開すべきと考える。
ところが、西垣のいうように、日本政府はAIで金儲けをすることを考えて焦っている。金儲けするのは企業であり、政府が企業の金儲けを助けるべきでない。それより、企業や政府のAIの利用が暴走して、善意の個人を騙したり、抑圧したりしないよう、法整備を図るべきである。
西垣の主張の心配なところは、「その際に本質を理解することです」と言いながら、いつのまにか、「東洋的世界観」と「西洋的世界観」との違いの話に すり変わっていることだ。科学の話がオカルトになっている。
西垣はつぎのように言う。
「神の創った宇宙には本来、論理的な秩序がある。その有様を正しく認知することが真理の獲得だというのが、西洋の伝統的な考え方です」
こんなのまったくのウソ。西洋の伝統的な考え方ではない。
ヨーロッパから始まった近代の科学は神の否定、神からの解放であった。「神の創った宇宙」を信じる人々はアメリカにいまだ居るが、「科学」を否定する側に立っている。近代の科学は、ヒトもマウスもおなじ生き物と考え、ヒトを特別視しない。
AIは科学である。「ヒトの知性とは何か」の挑戦から生まれた。ヒトの知性を機械で再現しようという試みが間違っているとは私は思わない。
科学に宗教の話を持ち出すべきでない。西洋、東洋という話しを持ち出すべきでない。
西垣の言う「西洋的世界観では、要素の論理的組み合わせとして対象を分析しますが、東洋的世界では、要素同士が互いに関連し、共鳴し合うと考える」も誤った戯言。科学はあくまで仮説のあつまりで、それぞれの科学者個人がそれぞれの立場から、「より確からしい真理」を求めて研究している。西洋とか東洋とかで「真理」が異なるなら、それは「真理」でない。
なぜ、西垣は間違った考えをもつにいたったのか。
明治維新以降、日本は欧米の文化を急速に取り入れた。そのとき、あきらかな文明の遅れを前にして、知識人の多くに劣等感という心の傷を負わした。82年前、日本はアメリカに開戦したとき、多くの知識人が「東洋が西洋に戦う」と歓喜した。当時の日本の知識人の多くが劣等感にまみれ知性が足りなかった。そのときの愚かな集団記憶がまだ残っていて、西垣の妄想を生んだと思う。
日本で育った科学者がノーベル賞をとり、数学者がフィールズ賞をとる時代になったのだから、もう、劣等感を持つ必要がない。コスモポリタンのひとりとして自分の頭で科学を考えよう。
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