猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

生身のひとに恋することは心の成長の証し

2021-12-23 21:16:44 | こころ

NPOで私の担当していた21歳の男の子が恋をした。良い傾向にある。

彼は中学校2年でうつと診断され、ずっと服薬している。正確にいうと、高校3年に自分で薬をやめようとして離脱症状を起こし、前より薬に頼るようになった。

恋ができるということは、心が成長したことだ。彼は、高校のときはアイドルを追っていた。確か握手会にも行ったことがあったと思う。アイドルが握手会で襲われたことにひどくショックを受けていた。自分も、このままでは、同じ行動にでるかもしれないという不安に陥ったようだ。

この2、3年はネット上のコスプレイヤーたちを追っていた。自分のツイッターに、彼女たちの写真をリーツイートしていた。もしかしたら、それは修整された写真かもしれないのに。

生身の女の子に恋することは心の成長である。

彼は彼女に声をかけようとしたと言う。緊張のあまり吃音が出そうになって、逃げるようにしてその場から去ったと言う。私は自分の若いときを思い出した。

彼もチャレンジするときである。恋をしたとき、言葉はしらじらしい。気の利いた言葉なんてありはしない。たどたどしい言葉は真剣な思いを表わす。彼女だって、誰か男の子に真剣に愛されたいと思っている。

彼は、たとい失敗しても、そのことで、現実の人間と向き合う力が育つ。これまで、人間が怖いと言ってきた彼が、自分から人を求めて動き出すチャンスだ。

私は、数年前から、彼の気分の上下の揺れが大きいことに気になっていた。いまは薬でおさえられている。安定してきた。炭酸リチウムを服薬しているから、うつから双極性障害に診断が変わったのであろう。

医師なら、彼が行動を起こすことを止めるだろう。

それでも、私は行動を起こすことを勧める。彼に私のメールアドレスを教えている。何かあったら連絡してくるだろう。彼は、最近の神田沙也加の飛び降り自殺にもショックを受けたが、乗り越えている。彼は、事故死だということで、自分を説得したと言う。

彼の子どものとき、両親がよく喧嘩をしていた、と彼は私に語った。私は記憶が正しいとは思わない。人間の脳は物事をそのまま正確に覚えるようにできていない。脳に記憶されたのは断片である。断片化された記憶は、現在の状況に合わせて、修正され、編集され、思い出される。

彼の両親は高校3年の春に離婚している。「よく喧嘩」というが、聞いていると毎日かどうかはあやふやだ。両親が離婚したことで、どこにでもある夫婦喧嘩が、特別の出来事に思い出されているのかもしれない。いずれにしろ乗り越えなければならない記憶だ。

男女のいさかいは、対処の仕方で、解決できるのだよ、と伝えた。両親のようになるか ならないかは自分自身の行動でどのようにもなるのだ。

彼に彼女はどんな女の子かと聞いた。1年半前にメンタルケアであった女の子で、彼女に、おととい、再び同じメンタルケアで会ったのだと言う。物静かな子であると言う。寂しげな子であると言う。しぐさが いとおしい と言う。容貌はと彼に聞くと、マスクで顔が隠れていて、わからないと言う。昨年から新型コロナでみんなマスクをしていたのだ。

私だけが知っている。いっぽう、彼の顔はというと、繊細な美しさをもっていることを。


「保母」しかいない時代に保育園で働き出した男の物語

2021-12-21 23:43:20 | こころ

きょうの朝日新聞夕刊1面のトップは『「男なのに」と言われた 保育士の半世紀』だった。高校を卒業して大手電機メーカに務めたが、なじめず半年で退職、やりたいことに悩んでいたとき、「保母募集」を新聞の求人欄でみつけ、母の勧めもあって、応募したのが始まりという。

   ☆    ☆    ☆

じつは、2年前に、大学進学するかどうかで悩んでいた高校2年生の男の子に、私は、保育士になったら、と勧めて、大いに怒らしてしまった。

幼稚園の先生になるには大学に入学する必要がある。幼稚園教育は文部科学省の管轄だからだ。いっぽう、保育士になるには、大学卒の資格がいらない。国家試験に受かれば、保育士になれる。保育園は厚生労働省の管轄であるからだ。

その子は、当時、私のいるNPO放課後デイサービス(放デイ)に来ていて、うまく、小学校の子どもたちを遊ばすことができた。テンカンの持病があり、服薬の調整のため、毎年、長期入院して中学校を休んだためか、学校の成績はよくない。また、好きな学科があるわけでない。

その子は、保育士の仕事は大変な重労働なのに、給料は安いし、世間は男の保育士をばかにしている、と私に言った。

その子は、小説家になりたいといっており、放デイに来て私のもとで小説を書いていた。私は、特別に可愛がっていたつもりである。保育士になるよう勧めた結果、私のもとを去り、受験勉強に精を出し、どの大学か、どの学科か知らないが、とにかく、大学にはいった。新型コロナで大学も開いていず、別のところの放デイでボランティアとして子どもの世話をしているという。

   ☆    ☆    ☆

48年前に19歳で保育園で働き出した若者は、赤ん坊や幼児の世話をやきつづけ、昨年、区立保育園の園長になった。人にはいろいろ言われたが、続いたのは子どもが好きだったからだと言う。しかし、給料はずっと低いままで、共働きだから、ようやく、3人の子を育てることができたと言う。

   ☆    ☆    ☆

私のただ一人の孫が九州にいる。新型コロナのため、この2年間会っていない。新型コロナの前に会ったときは、まだ、はいはいをしていて、私の顔を見て、泣いた。息子の便りでは、その孫が、ものおじせず、テレビの歌番組のをまねて踊ったり、最近は、言葉も話せるようになったという。来年からは保育園にはいるのだという。

私のもう一人の息子は引きこもっている。保育園、幼稚園で、いじめられたと言う。先生が怖かったと言う。だから、ただ一人の孫が保育園にいくことに不安がある。子どもが無垢だというのは、対人関係にまつわるいろいろな感情は生まれたときからあるのではない、という意味である。対人関係で起きる不安や恐怖の感情も、幼児の頃の体験を通じて、学習していく。だから、保育園での体験は、心の成長に非常に重要である。

私の近所には保育園がいくつもある。みんな施設が狭いから、保育士が子どもたちを公園に連れ出して遊ばす。それを観察していると、やっかいな子どもに対する、保育士の能力に大きな差がある。優秀な保育士は、問題の原因を即座に見出し、子どもを納得させることで解決する。が、無能な保育士は自分の指示に子どもが従わないことのみしか見ない。私は、無垢な子どもたちを傷つけないで欲しいと祈りながら、だまって見ている。

   ☆    ☆    ☆

幼い子どもを育てることを女の仕事だと軽くみてはいけない。単に世話をやいているだけでなく、人間の心を育てているのだ。そして、とても繊細な仕事であり、とても難しい仕事である。


食べることが生きることから、ひとに優しくあるために生きる

2021-12-19 23:28:44 | 働くこと、生きるということ

私は戦後のベビーブームのときに生まれた一人である。

私の子ども時代は生きるのに大変であったが、生きるということは何かは簡単であった。

子ども時代に読んだマンガで一番記憶に残っているのは、子どもたちが先生の家に遊びに行ったら、ジャガイモを鍋一杯に茹でてくれて、お腹いっぱい食べると言う物語であった。確か、寺田ヒロオのマンガだと思う。子どもたちがお母さんに「タンパクを食べたい、タンパクを食べたい」と声をそろえるのもマンガによくでてきた。肉を食べるというの特別のことだった。

食べることが生きることであった。生きるということは何であるか、悩むことはなかった。

私の20歳のころは、世界的に若者の反乱があった。ベビーブーマから、「学園紛争」とか「全共闘」の世代に私はなった。田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)のなかで、これを「文化的リベラル」と呼んでいる。

私は、田中がこれを「文化的リベラル」と呼ぶのに、当事者としては違和感がある。確かに、もっと食べたいよう、と騒ぐのよりも、文化的なのかもしれない。しかし、何のために生きるのか、ということに悩むことはなかった。大正時代のように、人生とは何かと悩むことは、周りを見渡しても、なかったのである。

当時の若者の反乱は、ただただ、あらゆる権威、権力から自由でありたかったからである。ピ-ター・フォンダが出てくる映画『イージ・ライダー』(1969)がその気持ちを表現している。

何のために生きるのかという悩みは、私の後の時代の若者の特権である。それこそ「文化的リベラル」と呼ぶのにふさわしいと思う。「ゆたかな社会」になったが、いっぽうで厳然たる貧困が存在し、それを問題視する党派もなくなっている。社会がゆたかになっているが、心ゆたかな者が孤立する時代になっている。

会社に務めていたとき、出社ができなくなった新人の指導を年配の私が頼まれたが、逆に、その新人の子に勧められたのが羽海野チカのマンガ『ハチミツとクローバー』である。自分の才能や生き方について迷う若者達の姿を描いた群像劇であり、新世代の息吹を感じた。

ところが、それは、ひきこもりがちだった作者の想像の産物であるとする解説を読んで、困惑した。

何のために生きるかに悩むことは素晴らしいが、人にやさしくあるために生きるというシンプルな答えで満足していいと私は思う。


佐伯啓思の『(異論のススメ)「資本主義」の臨界点』を批判

2021-12-18 21:30:30 | 思想

これまで、佐伯啓思と意見が一致したことなんて、なかったが、けさの朝日新聞『(異論のススメ・スペシャル)「資本主義」の臨界点』では一致点があった。

佐伯は、「資本主義」と「市場経済」主義とは意味が違うといっている。私もそう思ってきた。貨幣とか市場とかがあるから「資本主義」というわけではない。

佐伯は、《「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということ》と書く。

私は、「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて、人と人の間に雇用関係を生むことと思う。

佐伯の定義は、カール・マルクスの受け売りだと思う。多くのマルクス主義者は、人間が生み出した資本の自己増殖運動に、逆に、人間が支配されると言う。私は、この受けとめ方は、資本家や経営者に優しすぎると思う。資本による「疎外」の問題ではなく、資本家個人や経営者個人の強欲のせいだと私は思っている。

佐伯も人間の強欲性に「資本主義」の問題を帰着している。佐伯は、《われわれに突きつけられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望のほうにある》と、その寄稿を結論する。

また、この結論の前に、佐伯は《「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるを得ない》とも言う。これも一致する。

しかし、根本において、私と佐伯は異なるとも思える。私にとっての「自由」は、人に命令されたくないということである。自分で物事を判断し行動したいと私は思う。そして、他人に自分の意見を押しつけたくないし、命令したくないと思う。

資本家が資本の自己増殖にどう悩もうか、私は気にしない。

産業革命が起きるまで、社会における最大の商品市場は農産物であり、その生産手段は土地であった。土地の所有を媒介にして、人間の上下関係ができた。

産業革命後は、工業製品の市場が中心になった。土地でなく、機械、工場が主な生産手段になった。資本投下は機械、工場に行われ、その所有によって、人間の上下関係ができた。

近代の人間の上下関係は、生産手段の個人所有を中心にできているのである。IMFのデータをみると、ほとんどの国で、被雇用者が人口の50%を越えている。すなわち、独立自営の人は少なく、多くの人は誰かの指示で働いていることになる。

20世紀の終わりには、ITの出現によって、事態が変わるかと思えたが、そんなことがなく、ますます、被雇用者は増え、個人経営の「ひとりIT企業」もめっきり減り、組織で動く人が増えている。設備だけでなく、資本を人に投下して、人を組織化するのである。

「資本主義」体制の打破は、雇用関係を通じた人間の上下関係を拒否することにあり、貨幣経済や市場経済を壊すことではない。


岸田文雄の聞く力は偽物なのか、それとも、安倍晋三を恐れての現状か

2021-12-16 22:54:12 | 政治時評

きょうのTBSテレビ『ひるおび!』でゲストの田崎史郎と龍崎孝が岸田文雄の国会対応を褒めていた。

予算委員会で、岸田は質問者の話をメモしている。答えるときは、役人の書いたメモを見ないで、質問者のほうを見て答える。そして、安倍晋三のように突っぱねて相手をなじることもなく、また、菅義偉のように同じ答えを繰り返すこともない。

私もその通りだと思う。

ところが、実際の国会運営では、国会議員の通信交通滞在費(月額100万円)の運用の問題に決着できない。日割り計算にすることでは与野党で意見が一致している。意見が分かれているところは、野党が使途を公表すべきだとし、与党はそうできないと言っていることである。与党の自民党は単独で過半数を握っているのだから、日割り計算だけで、通信交通滞在費改正案を成立させることができる。いままで、自民党はそうしてきた。岸田は自民党総裁でもあるから、自民党にそうすることを要請できる。

岸田は自民党議員を制御できないのであろうか。公明党はこの問題にどういう意見なのか。

財務省が、森本学園の土地取得についての安倍晋三の発言に合わせて、決済文書を改ざんした問題でも、岸田政権の態度には納得できないものがある。決裁文書改ざんで2018年に自殺した近畿財務局の元職員、赤木俊夫の妻が国に損害賠償を求めた訴訟が、きのう、国が一転して賠償責任を認めた。約1億700万円の支払いについて国が受け入れるという。

しかし、決裁文書の改ざんを誰がどういう意図で指示したのかが、この裁判の終結で、闇に葬られる。国が賠償責任を認めたのなら、改ざんを指示し、かつ、改ざんの責任を赤木俊夫ひとりに押しつけようとしたのは、誰がどのような動機で行ったか、の真相を国は明らかにすべきだ。

18歳以下の子どもに100万円配るという施策も、何のために配るのかの目的の議論を抜きに、現金で配りたい自治体は、どうぞ、お配りくださいとなっている。新型コロナ対策なのか、景気対策なのか、それとも、子どもへの投資なのか。子どもへの投資なのなら、小中高の教育環境の整備や大学の授業料免除や返還義務のない奨学金にそのお金を回すべきではないか。

選挙で自公に票をいれた褒美に100万円を配るのでは、あまりにも、節度がない。買収行為に等しい。新型コロナの後遺症でお客の減った60代はじめの床屋の主人は、不公平に怒っている。いまも、彼は、家賃を払って床屋を続けるために、これまでの蓄えを崩している。

生活保護費が、安倍政権下の2013年から2015年にかけて、1割引き下げられた。このことに関して、全国で訴訟が起きているが、大阪地裁以外では、同じ文面の理由で訴訟棄却になっている。文面が誤字までいっしょなのは、司法に何か見えざる力が働いたのではないか、と、訴訟を担当した弁護団が怒っていると、今日のテレビは放映していた。

田崎史郎や竜崎考は岸田文雄を褒めているが、本当に困っている人を見捨てて、自民党に投票すれば中間層に押し上げられるという幻想をふりまいているだけではないか。それとも、安倍晋三の力がいまだ自民党内で強くて、自分が正しいと思うことを岸田が行えないのか。「新自由主義」から決別することは、理性を捨てて、「まあまあ」で政治を行うことなのか。

「小さい声を聴く力」と言っている公明党も、岸田がまっとうな政治を行うように、なぜ支援できないのか。