猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

予測からの誤差が人の感情を引き起こす - 明和政子の『ヒトの発達の謎を解く』

2022-02-13 22:09:37 | 脳とニューロンとコンピュータ

明和政子の『ヒトの発達の謎を解く―胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書)の最終章は「人類の未来を考える」である。人間はAI(人工知能)、VR(仮想現実)、アンドロイド(人型ロボット)と共存できるかということである。このなかで、彼女は、なまじ人間に似せたロボットは不気味であるという話しを紹介している。それを最初に指摘したのは、1970年のロボット工学者の森政弘であるという。

明らかに機械であるとわかる範囲では、ヒトに似てる、あるいは、機能が部分的にうわまわる程、好感度を増すが、ある敷居を越えると、不気味に思われ、ヒトとして受け入れられないという「不気味の谷」の仮説である。

2011年に、アメリカの研究者による心理実験で科学的に裏付けされたという。

また、傍証として、SF映画『ファイナルファンタジー』の興行上の大失敗、SONYのaiboが急に売り上げが落ちたことを明和は挙げている。

彼女はこれをつぎのように説明する。ヒトの脳は対人関係において「予測―誤差検出―予測の修正―更新」を繰り返しているという。予測からの誤差がなければ、ヒトの関心をひかない。少しの誤差なら関心を生む。場合によっては好感かもしれない。ところが、この予測からの大きな誤差は、大きな不安を生む。

ヒトに似せることでヒトとしての言動を予測するようになると、そこからの誤差、期待の裏切りが大きいのである。もし、その人型ロボットが力持ちであれば、恐怖を覚えるだろう。私は彼女の指摘に同意する。

100年前、精神医学の大家、エミール・クレペリンは、精神科医が心の動きをシミュレーションできない言動をする人を、精神疾患者と定義した。「不気味の谷」は予測不可能な言動をとることを狂気だとみなしたのに通じる話しである。

「予測―誤差検出―予測の修正―更新」のモデルは男女関係にも適用できる。この場合は誤差がないとなると、つまらない相手となる。私の妻は、私を危険な男と思って、ひかれたという。その危険度が度をすぎていなかったから結婚までいったのであろう。

いくつものバブルを目撃してきた私は、現在のAIやVRやアンドロイドの礼賛は、軽率すぎると思っている。資本主義の行き詰まりの反映にしか思えない。


ヒトのこころはどう形成されるか、明和政子の仮説

2022-02-12 22:58:11 | こころ

私は、きょう図書館でびっくりする本を見つけ、予定を変更して借りてきた。

何をびっくりしたかと言うと、146ページの図5-1のシナプス数の変化である。ヒトが生まれて幼児期までシナプスが増え続け、それから思春期の終わりまで刈り込みが行われてシナプス数がへり、その後安定期に入るというものである。

ここまでは ありうる話と思うが、著者は、これを自閉スペクトラム症、定型発達、統合失調症と結び付けている。自閉症はシナプスが過剰で、統合失調症が不十分だとするものである。

このびっくりした本は、2019年10月出版の明和政子の『ヒトの発達の謎を解く―胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書)である。人を「ヒト」と書くのは、人を生物の一種とみなしているからである。ヒトのこころを生物学的にとらえようという姿勢は、私の好みである。櫻井武の『「こころ」はいかにして生まれるのか』(ブルーバックス)も脳科学の知識にもとづいて問題に迫っているが、明和は「発達」という視点のもとに、心理学、比較認知科学、脳科学の知識を寄せ集め、大胆に自由奔放に「こころ」の形成に迫っていく。

図5-1に戻ると、シナプスの精確な数なんて、現代脳科学でも、わかるはずがない。生きている人間のシナプスの数はわかっていない。死んでいる人間でも数えるのが難しい。10年以上前にアカゲザルのシナプス結合をすべて明らかにしようとするプロジェクトがスタートしたが、終了したと聞いていない。シナプスは何十ナノメートルのサイズであり、プロジェクトは固化した脳を薄いシート状に切り、電子顕微鏡で切片の画像をとり、コンピューターで自動的に切片上のシナプスをつないで、神経細胞の接続関係を明らかにしようとするものである。

本書の本文を読むとシナプスの増減はネズミの実験で得られたもので、図5-1は模式図といえる。たぶんシナプスを数えたのではなく、死んだネズミの脳の容積か重量かから推定したものであろう。大ざっぱな話である。しかも、統合失調症のネズミとか自閉症スペクトラムのネズミとか、どうやって、診断したのだろうか、疑わしい。

それに、現在の精神医学はまだ現象論の段階で、いろいろな病因のものが自閉スペクトラム症や統合失調症のなかに組み込まれている。診断名は症状の分類にすぎない。

ほかの病気でいうと、「かぜ」というのは症状であって、その発熱はヒトの免疫反応のあらわれで、病因は色々な種類のウイルスで起きる。予防とか治療とかになるとウイルスを特定する必要がある。くしゃみ、鼻水や悪寒は寒い外気にふれるだけでも起きる。

あくまで、著者の大胆で自由奔放な仮説を楽しむという立場で本書を読むと、面白い書といえる。

著者は教育学で博士号をとり、霊長類研究所でチンパンジーを相手に比較認知学を研究し、子どもを早産することで幼児のこころの発達に興味をもち、脳科学の最新の成果をジグソーパズルのように はめ込み、ヒトのこころの形成に大胆な仮説を作っているのである。

遺伝子で決定されるということより、環境がいかにヒトのこころの発達に寄与するかに著者の関心がある。著者の面目は、胎児を宿す母体もこころの発達を促す環境としてとらえていることにある。子どもを早産した体験が生きている。

本書では、「理論」という言葉が多用されているが、これは「仮説」という意味であり、科学の論文としては通常の用法である。したがって、読者がそれを忘れて本書に一喜一憂されると、著者も困るだろう。すべて本当だと思われると、「理論」が「教条(ドグマ)」になる。


お金をもらって五輪反対のデモに参加というNHKスペシャル

2022-02-11 23:15:30 | 社会時評

NHKで、BS1スペシャルに事実と反するテロップ(字幕)をつけたという事件が起きた。お金をもらって東京オリンピック反対のデモに参加したという字幕をNHKがつけたのである。第5波の新型コロナ禍で東京オリンピックを強行する必要があるのか、と思っていた私にとっては、許しがたい侮辱である。

昨年の暮れ、12月26日にBS1スペシャル『河瀨直美が見つめた東京五輪』の初回の放送が、12月30日に再放送があった。問題の字幕は男性が歩いて来て取材を受けるシーンである。

歩いているコマに、「五輪反対デモに参加しているという男性」という字幕を入れた。取材を受けるコマには「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」という字幕を入れた。

取材のコマではつぎの音声を流した。

男性 「デモは全部上の人がやるから書いたやつを言ったあとに言うだけ」

取材者「デモいつあるかは どういった感じで知らせがくるんですか」

男性 「それは予定表もらっているから それを見ていくだけ」

この字幕について視聴者から 本当か、やらせでないか、の問い合わせがNHKに殺到した。それで、調査が始まった。

このBS1スペシャルは、番組の公式サイトにはつぎのようにある。

「東京五輪公式記録映画で監督を務める河瀨直美さん。五輪が私たちの社会に残したものとは。映画の制作を通じてその問いと向き合う河瀨さんを密着取材。」

そうするとNHK取材の対象は監督の河瀨直美とそのスタッフ、そして彼女が取材した映像であるはずである。そうでなければ、番組に入れる必要がないシーンである。

ところが、視聴者の問い合わせがあってから、1月9日、はじめて、NHKはそのシーンを彼女に見てもらった。彼女はそんなもの取材したことがないという。彼女は1月10日にNHKに抗議の文書をだした。

むかし、私は依頼があって講演をしたこともあるか、開催者がテープから書き下ろした原稿を送ってきて、講演者に了承を取ったものである。密着取材と言いながら、取材される河瀨が知らないシーンが入っているなんて、番組公式サイトの趣旨に反するのではないか。

2月10日にNHKが公表した調査報告では、つぎのように書かれている。

「男性とは、2021年7月23日、映画スタッフが都内を取材中に、はじめて会いました。同行していたカメラマンによると、通りかかった男性から映画スタッフに声をかけてきたと言うことで、映画スタッフはその場で後日インタビューする約束を取りつけたということです。」

ここで映画スタッフとは公式記録映画のスタッフである。

この後、8月7日に映画スタッフが公園で男性を撮影するところを、NHKディレクターが撮影したという。この男性は、何か報酬を期待して声をかけてきた かもしれない。NHKディレクターが撮影というが、音声の収録は誰がしたのか。NHKの番組スタッフと公式記録映画スタッフとの関係が曖昧である。

また、男性の発言「デモは全部上の人がやるから」の「上の人」とは誰のことなんだろうか。NHK報告書は「上の人」とは何かを確認していない。しかし、この「デモ」が東京オリンピック反対のデモか、を確認している。NHKディレクターによれば、この「デモ」は一般のいろいろなデモのことを言っており、2000円から3000円もらうこともあると男性が言っていたという。

もしかしたら、男性は取材謝礼をもらうために作り話をしているかもしれない。デモに参加したことで、お金をもらえるなんて、常識で考えてありえない。また、「書いたやつを言ったあとに言うだけ」という言葉も、意味不明である。

ディレクターは「問題が発覚する」まで男性の連絡先を把握していなかった。その後のNHK調査で東京オリンピック反対のデモに男性が参加していないことがわかった。

番組放映の前に、12月7日にチーフプロデューサーが内容を確認していた。そこでは、「かってホームレスだった男性」と「デモにアルバイトで参加していると打ち明けた」との字幕があった。

チーフプロデューサーは、この「デモ」は東京オリンピック反対のデモかと質問したという。たぶん、プロデューサーは東京オリンピック反対のデモでなければ、番組に挿入する必要がないと考えたのだと思う。また、「ホームレス」という言葉も気になったのだろう。

そして、最初に紹介した字幕、「五輪反対デモに参加しているという男性」「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」に変わって、12月26日に放映された。

朝日新聞の2月9日(水)の11面の多事奏論で論説委員が、この件で、NHKの現状に根深い問題があるのでは、と指摘している。

私には、小さなウソが、人を経るごとに大きなウソに変わっていく過程のようにも見える。問題は、お金をもらってデモに参加するという偏見がNHK関係者にあったということだ。常識によるチェックが働かなかった。

とにかく、NHKは2月10日に公表した調査報告にもとづき、6人に懲戒処分を下した。

  • ディレクター 停職1カ月
  • チーフプロデューサー停職1カ月
  • 専任部長 14日の出勤停止
  • 上司局長代行ら3人 譴責

教育を理由に子どもに暴力をふるうヴィクトリア朝イギリス人

2022-02-10 22:14:45 | 教育を考える

映画『どん底作家の人生に幸あれ!』を見て、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』(新潮文庫)の第1巻と第2巻とを図書館から借りてきたが、読み進まない。あと、第3巻と第4巻があるのだが。

別に中野好夫の訳が悪いのではなく、小説に書かれている約200年前のヴィクトリア朝のイギリス人があまりに粗暴であるからだ。胸糞が悪くなる。

主人公デイヴィッドが生まれる前に父が死に、彼がものごころがつく頃に、母が再婚する。母が再婚する前にデイヴィッドを「坊っちゃん」と呼んでいた継父(ままちち)は、再婚すると、算数やラテン語の勉強を強要し、できないといってデイヴィッドを鞭うつ。鞭うつために勉強を強要しているように思える。

デイヴィッドは鞭うたないでと必死に継父にしがみついてその手を噛んでしまう。継父に殴られたあと、こんな子はおいておけないと矯正塾のようなとこに入れられる。そこの校長は、子どもたちを鞭うつのが趣味で、なんかかんかの理由をつけて、鞭うつ。子どもたちは恐怖でおびえまくっている。しかも、なんの咎がない ふっくらとした小さい子 トラドルズをいじめるために とりわけ 鞭打つ。

デイヴィッドの母親が継父にいじめられて死ぬと、もう矯正も不要だと、ロンドンの酒ビンのリサイクル工場(こうば)に放り込まれる。

明らかに子どもの虐待である。ところが、ディケンズのこの小説が、ヴィクトリア朝のイギリス人に、感動をもって読まれたのである。ということは、当時の普通のイギリス人は多かれ少なかれ虐待を受けた経験があるのではないか、と思われる。子どもの虐待はあってはならないことだと受け取られるよりも、俺もそういうときがあった、可哀そうだなと、涙を流しながら読んだのではないだろうか。

もちろん、今の日本でも、内縁の継父による子どもの虐待がメディアで報道される。しかし、あってはならないことだと報道される。子どもを鞭うつなんて聞かない。警察に捕まらないように、傷跡が目立たないように、通常虐待する。子どもを虐待してはいけないということが、社会の常識になっている。

学校でも教師による体罰は禁止されていると私は思いたい。

私の記憶によると、小学校で教師が子どもに暴力を振るうことは一度もなかった。現在はどうなんだろう。私の長男がいた公立小学校で、暴力を振るう先生がひとりいたという噂があったが、本当だったのだろうか。

私の中学時代に、暴力をふるうと脅す先生がひとりだけいた。社会科の先生で、愛の鞭だとかいって、指示棒をしならせながら、席のあいだを歩くのである。ただ、その愛の鞭を本当に使ったのは見たことがなかったが、それでも、十分に恐怖をもたらした。

子どもに恐怖を与えるだけでも、私は虐待だと思う。あってはならない。

書いているうちに思い出したが、引きこもりを矯正するといって、子どもを施設に閉じ込め、暴力を振るう業者が日本にある。これも、法律で取り締まることができないか。子どもが殺されることで、表にでることがあるが、暴力で人を従わせることは、理由がなんであれ、犯罪である。


『ドゥ・ザ・ライト・シング』は黒人のための黒人によるアメリカ映画

2022-02-08 22:28:54 | 映画のなかの思想

(ムーキーとサル)

『ドゥ・ザ・ライト・シング』は30年以上前の1989年公開のアメリカ映画だが、いま、見ても古さを感じさせない映画である。正直に言うと、30年前には見てないが。

黒人が黒人のために作った映画で、スパイク・リーが監督・製作・脚本・主演をしている。

物語は、華氏99度(37℃)の蒸し暑い夏の日に、ピザ店でイタリア系の店主と3人の黒人とが喧嘩になり、止めに入った警官がその黒人の首を警棒で締め殺したことで、黒人街の暴動に発展してしまう。

映画では、ピザ店の店主サルから「黒人街」という言葉はでてこない。彼は、あくまで、「コミュニティ」と自分たちの暮らす街(まち)を呼ぶ。「わが街」という感じであろう。みんな、自分のピザを食って育った隣人だと言う。暴動の前に、巡回にピザ店に寄った警官や、店主の息子が、店を売ってイタリア系が多い街に移ったら、と言う。

元野球選手の老いた黒人ダー・メイヤー(Da Mayor)は街をぶらぶら回って、みんな仲良く暮らすよう、お節介をしている。字幕では「市長」と訳していたが、本当に、「わが街のおとうさん」という感じの役どころであろう。

街には仕事がなくブラブラしている黒人がいることも描いている。3人組の老いた黒人はチンポコの大きさを話題にしている。

スパイク・リーはそのピザ店で週250ドルで働く配達員ムーキーを演じている。彼は給料の前払いを店主に求めるが、お金を払ったら戻ってこないから、払えないと断る。じっさい、ピザの配達にでた彼は、恋人とセックスを始める。

この映画は、わがコミュニティをだいじにしたいとの思いがある、いっぽう、窒息しそうなうっぷんもコミュニティにたまっているさまを ていねいに描いている。

だからこそ、暴動という行動に出ることの後味の悪さ、気まずさがうまく描かれる。

暴動は、警官に黒人が殺された後、ムーキーが自分の働いていたピザ店にごみ缶を投げることから始まる。集まった群衆は事情もよく知らずに店に火をつけ、レジのお金を盗んでいく。

翌日、壊された店の前で茫然として座り込む店主サルに、配達員のムーキーは給料250ドルを請求する。サルは腹を立てるが、給料は給料と、100ドル札を5枚、ムーキーに投げつける。ムーキーはお金をひろって、給料は250ドルだと、100ドル札を2枚投げ返し、50ドルは借りだと言う。

暴動が起ころうとも、コミュニティはコミュニティである。住む人びとは、気まずいを思いを残し、日常に戻るしかない。

結局、目覚めて(Wake up)正しいこと(Do the righto thing)をするしかない。政治に参加することである。マーチン・ルーサー・キング牧師とマルコムXの言葉が画面に映し出され、映画は終わる。

映画は非常に常識的に終わるが、それまでの細部の心理描写にリアリティがあり、非常に現代的なものを感じさせる。

[補足]

ブログで、黒人という言葉を使ったが、いまのアメリカで、ブラックとかニグロとかは差別語とされ、おおやけの場ではアフリカンと言う。しかし、人種問題に起因する暴動が いまなお ある状況では、黒人(ブラック)と言葉を使って現実を見たほうが良いと思う。