猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

大卒と非大卒の分断と批判するより今の大学を解体したほうがよい

2022-02-18 23:04:58 | 社会時評

きょうの朝日新聞、古川徹のインタビュー記事『学歴分断を超えて』を読んで無性に腹がたった。社会に腹を立てたというより、古川に腹を立てた。社会学者には、ろくでもない人が多すぎる。とくに、1966年生まれの社会学者は。

古川は、社会が学歴で格差をつけるということ自体を分析し批判せず、この学歴を理由とした格差を動かしがたい事実とし、大卒と非大卒との分断、コミュニケーションや連帯の無さを非難する。このような思考法はオカシイではないか。本末転倒ではないか。

確かに現在、大学を社会的序列の上昇のための手段と考えている集団もいるし、大学を高度の職業訓練所と考える財界や高級官僚もいる。

しかも、本当に、大卒であるから、お金儲けができるのか。大卒であるから、成功すると保障できるのか。

私のいとこの息子は、大阪大学を中退して、蕎麦屋をやっている。自分が「あるじ」であるから、社員のように社長にへいこらする必要がない。私のいとこ自身も、高卒の事務員で町中華の中卒の配達員に恋し、ふたりで絨毯の掃除屋を起業した。いとこの親は貸家にすむ工員であったが、掃除屋であてて自分の家をもった。

私が中学のときの校長は、全校生徒を講堂に集めて、「虎のしっぽになるより、鶏のとさかになれ」とよく激を飛ばしていた。どこかに雇われて、へいこらする人生を送るのではなく、起業してトップになれということである。

私は、外資系IT会社にはいって、一時、官庁とも関係をとろうとしたとき、大卒で思った就職もできず、ろくな起業もできない人びとが、行政府の外郭団体にうろちょろして、行政府と企業の間を取り持っている実態にびっくりした。まるでカフカの小説『城(Das Schloss)』のような世界があった。

古川は「でも、学歴差をなくすのは無理です。全員が同じ学歴では労働力を選別できず、産業社会は成立しないからです」という。意味がわからない。どうして古川は選別する側のことを心配するのか。若者も、郵便物のように学歴で選別されるのに身を任さず、能力に自信があるならば、自分でそれを立証すればよい。

私は、IT業界が地殻変動しているときに外資系に参加した。アメリカに行くと、カウボーイハットをかぶり、カウボーイブーツをはいた男が研究所を闊歩していた。そして、「インタネットは無法地帯だ」とうそぶいていた。友達になったシステムエンジニアと話すと、難民出身者が多く、学歴自体が怪しい。しかし、時代の変動に独習で見事についていっている。

古川は「『大きな資産を持てるかどうかは本人の努力次第かどうか』という質問に『そう思う』と答える割合が一番高いのは若年非大卒です」という。私は若年非大卒の考えを健康的だと思う。それなのに、古川は「社会的経済的に不利な状況に置かれているのに、大卒層や社会のせいとは考えず、自分の努力の帰結だと考えている」と上から目線の批判を付け加えている。

古川のいるような大阪大学は解体すべきだ。

現在の学歴社会を変革するには、第1に「資本主義社会をやめる」こと、第2に「能力がないが能力を向上させたい者を大学に入学させ、能力があるものは大学に入学せず、すぐに社会で活動し、そこで足りないものを感じたとき、聴講する」という制度にすればよい。すなわち、いまの受験制度の反対に、成績のよいものには能力保証書を発行し、来なくても良いと言ってやり、成績の悪いものから大学に入学させれば良い。

アメリカの大学の文系は社交の場の意味が強く、社会に出ても同じ大学出身だという閉鎖的社会を作っている。だから、マイケル・サンデルが学歴社会を嘆くのである。解決策は、大阪大学の場合と同じく、アイビー・リーグの大学の文系を閉鎖すればよい。

文系を閉鎖と言うのは、私がいた外資系のアメリカでの研究所にはもはやユーロピアン(白人)が入ってこず、新規の入所者は、アジアンか(インド系や中国系かイスラム系)かアフリカン(黒人)かラテン系(中米か南米出身)しかいないが、文系は人間関係だけで人の上に立とうする不届き者ばかりの管理職を目指す。支配者の手先なんて、まったく、いらないのだ。

私の友だちの京都大学出身の銀行員は、英語の発音、文法に磨きをかけても、パーティーでは同じ大学出身者が集まって話をして、自分がはいっていけなかったという。アメリカの金融業や広告業の人たちは人間のクズである。資本主義社会をなくせば、おのずと事態は改善されるだろう。

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『元首相の介入 石川県知事選』の記事に陰謀政治、密室政治を感じる

2022-02-17 21:26:51 | 安倍晋三批判

きょうの朝日新聞4面に注目すべき記事『元首相の介入 石川県知事選』がのった。

地方でよくある、いわゆる保守分裂選挙、自民党内のゴタゴタなんだが、つぎの記述が気をひいた。

《 2月8日、日本維新の会が馳氏の推薦を打ち出した。安倍氏は決定の直後、周辺にこう語ったという。「私が維新に頼んだけどね。情勢調査も良くなってきた」。》

これは、安倍晋三が日本維新の会とのパイプがあるということを誇っているということである。

ことしの1月17日の岸田文雄首相の施政演説のあと、国会質問で日本維新の会が立憲民主党より激しく岸田を攻撃していた。昨年の衆議院選挙では、日本維新の会は自民党の公約に一番近かった。だから、同じ保守の日本維新の会が岸田政権を攻撃することに違和感があった。

そのときの日本維新の会の選挙公約をひろってみよう。

「世界平和に責任が果たせる国に向け、防衛費のGDP1%枠を撤廃し、テロやサイバー・宇宙空間への防衛体制を強化する」

「解雇ルールを明確化するなど規制改革で労働市場の流動化・活性化も促す」

「廃炉技術の伝承と使用済み核燃料の有毒性低減のため、小型高速炉など次世代の原子炉の研究開発を強化・継続」

いま、考えると、安倍が岸田を恫喝するために、日本維新の会に激しい国会質問をするように仕向けたのでは、という疑念を私はもつ。

新型コロナの件でも、岸田は、安倍や菅義偉の意見をお伺いに出かけている。

もちろん、岸田は、安倍や菅の無茶ぶりに いじめられている ふりをして、反安倍や反菅の同情を集めようとしているのかもしれない。そうではなく、安倍は、安倍派を固めるために、自分の影響力を必要以上に誇っているのかもしれない。

どちらにしろ、健全な政治とは言えない。

私は、きのうの朝日新聞『(耕論)国民的議論 できるもの?』でニールセン北村朋子が紹介してデンマークの政治風土をうらやむ。政治は駆け引きや勝ち負けを争うものでもなく、だれでもが普通に参加できる日常的な議論にもとづいて政治が行われてこそ、民主的社会ではないか。

[補遺]

地方で保守分裂のゴタゴタが起きるのは、1つは野党が弱いということ、もう1つは、国会が国民の代表であることを自民党幹部は無視し、中央の都合で自民党候補を決めることである。石川県知事選の場合、安倍晋三など中央が決めた候補が馳浩で、地元が押すのは山田修路である。

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民主主義の実現のために日常的にみんなが議論する場が必要

2022-02-16 23:23:36 | 政治時評

きょうの朝日新聞の〈耕論〉は『国民的議論 できるもの?』をテーマとして三者三様の問題を提起するのだが、何を意図しての企画なのかわかりにくい。ここでは三人の言っていることを追っていきたい。

橋本大二郎は、「国民的議論」を政府が避けて、少数のものの自己決定だとして、本来は嫌がることを押しつけていると言う。核のゴミの捨て場になることは、本当にその土地の所有者だけの意思で決めていいのか、その所有者がいる村だけで決めていいのか、ということである。意思決定者の範囲を広げれば決まらないものを、政府が故意に狭めて、交付金を餌に決めていくということは、行政府の横暴ではないか、と言っている。

橋本は高知県知事の経験があり、また、兄が元自民党総裁で元首相であったことがあり、日本の民主主義が空洞化していることを見事に言い当ていると思う。行政府が明らかに権力を握っており、国会が国民の代表として機能していないのである。本来、少数者の自己決定だととして、まわりの多数の意思を無視していけないはずである。

国会が国民の代表として機能していないことに国民は怒るべきではないか。国会を自分たちの手に取り戻すべきではないだろうか。

伊藤浩志は、国民が科学の名に負けて自分の思いを主張しないことを指摘している。民主主義はすべての国民に発言権があるのだ。そして、科学とは価値観ではないから、本来、政策を選択するものではない。個々人の思いが目的を決め、その目的の実現のために、はじめて技術の議論がある。だから、科学がわからなくても自分の思いを政治にぶつけなければならない。

日本人は専門家に弱いのではないか。これでは、行政府が自分たちに都合の良い意見を言う専門家を集めれば、行政府は思いのままに国民を従わせることができる。民主主義とは、国民がみんな政治に参加することである。

ニールセン北村朋子は、「国民的議論」とは、国民が、日常の場で、みんなに関わる問題についての議論に参加するということだと指摘する。デンマークでは議論好きということもあって、多くの人が夜や終末に、地域の会合に参加しているという。うらやましい限りである。

北村の言っていることが、民主主義の基本ではないか。国会が国民を代表するためには、みんな自分の思いをためらわずに言い、他人と議論する場が日常的に必要である。議論することを恐れ、いつまでも、行政府の意のまま動き、憲法第9条を改正して軍隊をもてば、中国、北朝鮮から日本が守られるなんて思うのは、あまりにも情けないではないか。そんなに日本人は愚鈍なのか。日本では行政府がずっと権力をふるってきた。


すで死につつある私が死にたい人に死ぬなと言う

2022-02-15 21:43:04 | こころ

私の父は80代前半に死んだ。死ぬ前に認知症になっていた。寝たきりになって死んだ。

私の母は90代半ばに死んだ。老人ホームに入れたら1年ちょっとで死んだ。

私の祖父は70代半ばで死んだ。私が大学で生物学の実験をしているときに、死んだという知らせが入ってきた。祖父の死が私の記憶に残った最初の身近な人の死である。

老いて死ぬのは、多くの場合、すでに体や心が壊れてきているので、やむをえない。私も心臓が衰え、歩けば息切れがする。風呂に入れば、ヒートショックで苦しくなる。それでも、老人に早く死ねというような政府の施策に、私は不愉快になる。

私はNPOで子どもたちの相手をしている。勉強を教えるには、目が悪くなって、苦労している。

そんな老人の私のだいじな仕事は、死にたいと思う若者に「死ぬな」と言うことである。死にたいというのは人生に絶望しているからである。絶望するということは、それだけ人生に期待するものが高いわけだ。絶望している若者にも生きることに未練があるから、死にたいというシグナルを送ってくる。そのシグナルに気づいて「死ぬな」ということが だいじである。

死にたいと言う若者は、周りの人びとがそのシグナルに気づいてくれないのが一番つらいと言う。私が思うに、周りの人びとは、気づいていないのではなく、死にたいと言う人に関わりたくないのであろう。自分だって苦労して生きているのに、なぜ、自分に負担をかけてくるのだと思うのだろう。死にたいと思う人は、それがわかるから、よけい絶望する。人生に絶望するというのは、人間に絶望し、社会に絶望することである。

死にたいというシグナルを送ってくる人がいれば、面倒でも「死ぬな」と言っていただければありがたい。

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精子の減少や奇形はNHKの人類の進化か、BBCの内分泌かく乱物質によるか

2022-02-14 23:17:24 | 自然環境

きのうの夜遅く、NHK ETVとBBC World Newsとが、同じできごとにまったく異なる説明をしていた。男性の精液の精子の数が減ってきた、奇形の精子がの割合が増えたという全世界的現象についてである。

午後11時半からのNHKのサイエンスZEROは、その現象はホルモンの分泌が変化してきたからだと言う。人類に起きている体や心の性差が縮まる「中性化」は進化の流れで、変えることができないという。進化の過程で、男性に特徴的な目の上の額のもりあがりもしだいになくなってきたのと同じだと言う。手の指も、男では人差し指より中指がずっと長かったのが、人差し指がどんどん長くなっていると言う。

スペシャルナビゲータの井上咲楽が「私は男っぽい性格だが、確かに私の手の中指は人差し指より長い」といって、みんなを笑わせていた。

人類が中性化で、どんどん子づくりをしなくなり、人類は滅亡の危機にひんするという井上の心配に対し、ISP細胞から精子や卵細胞をつくったり、人工子宮で受精卵を育てたりする、男と女によらない「新たな生殖の仕組み」を作り出そうという研究も始まっていると答えていた。

ジェンダは生物学的性の問題ではなく、文化の問題だという立場からすると、暴力的であることが男だという番組の雰囲気は、我慢がならないものであった。井上が素朴にしゃべっているというより、番組プロデューサーやディレクターが脚本を書いてしゃっべているのだから、番組の発言の責任はNHK側にある。

午前0時10分からの BBC “Why Plastic? “シリーズの “We The Guinea Pigs”をみた。日本語への翻訳がなく聞き間違いもあるかもしれないが、プラスティックが「内分泌かく乱物質」と働いて、精子の減少、奇形を招いているというものである。海外の研究についてはBBCはNHKと同じ映像を用いていた。

guinea pigとは日本語のモルモットのことである。種としてはネズミの仲間だが、顔が豚のような雰囲気だから英語でそういう。人類は「内分泌かく乱物質」の実験動物になっているというのが、タイトルの意味である。

プラスティックとは、いろいろな用途に使われる形の成型が容易な石油系の人工物質であり、加工目的から色々な化合物が添加されている。

ビスフェノールA、PBCフェノール、フタル酸エステルなどが女性ホルモンのエストラゲンと同様な働きをしているという。海洋にプラスティックのゴミがさまよい、砕かれて微粒子となって海洋生物が「内分泌かく乱物質」を吸収し、最終的に人間が体内に取り入れるようになっていると、BBCの番組は警告している。

NHKのサイエンスZEROの「人類の進化の流れ」より、BBC  “We The Guinea Pigs”の「内分泌かく乱物質の吸収」という仮説のほうが、私には本当のように思える。また、マッチョが男性の本質だとするサイエンスZEROの主張は納得できない。他のヒトに優しくできるかは社会機構や文化の問題である。ホルモンのせいにするのは短絡的すぎる。