けさの朝日新聞1面トップは、「日本GDP4位に転落」であった。しかし、私はそれよりも政治の質のほうが心配である。
一人あたりのGDPで言えば、日本は、IMFの参加国198国の中で2018年に27位にすぎない。日本の経済力は、もともと、中のちょっと上にすぎない。日本の経済成長がとまったのは安倍晋三が政権を握った2013年ごろからである。株価操作を伴うアベノミクスが日本の経済に影を落とした。
私のところに毎週来る23歳の男の子に、これまでに何回投票にいったか、と聞いたら、選挙権を得てから10回の選挙があったが、投票に行ったのは1回だけ、と答えが返ってきた。
彼は特別かもしれないが、現在、日本の国政選挙の投票率は50%前後、地方選挙のそれは40%前後である。
ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと、第1次世界大戦後のドイツでも、政治への無関心が国全体をおおっていたようだ。彼女はその理由を「自分を代表する政党がいない」「厳しい競争社会の中で自分のことだけで精いっぱいだ」とする。先ほどの男の子に理由を聞くと同じだと言う。
政治への関心は公共財や福祉の充実に結びつく。政治への関心は、権力闘争劇への興味だけではない。野党が政権奪取を口にしないと票が伸びないというのは、健全でないと思う。
男の子の答えを聞いた夜、トンデモナイ夢を見た。行き交うバスや電車にとても多くの人が詰め込まれている。おしっこをしたくなって公衆トイレを探したが、どこにもない。やっと駅の片隅にトイレを見つけたが、すごく小さいうえに、とてつもなく汚かった。
多くの人々が政治に無関心なとき、公共財や弱者が見捨てられ、社会に不公平が増大する。ハンナ・アーレントは、そういうときに、全体主義運動が勢いをもち、権力を奪取すると、運動に参加した人びとを見捨て、全体的支配がはじまると言う。
第1次世界大戦後のドイツと現在の日本との違いは、当時のドイツでは人が余っていたが、いまの日本は人手不足である。ハンナ・アーレントは、全体的支配は、人が余っていて いくら殺してもかまわない時に、可能となると主張する。だから、全体的支配は、ロシアとドイツで可能となったという。
彼女は、プロイセンの社会に郷愁をもっており、ブルジョアジーの観点から、世界を見ている。彼女の言うことそのまま正しいと私は思わない。
しかし、「自分を代表する政党がいない」ということが、国民の大多数だとすると、それは「議会民主主義」の失敗を意味する。保守か革新かという抽象的な世界観、政権党か政権奪取かという権力闘争しか、政党が主張できないとすれば、その政党はすでに死にかかっている。