いま、アメリカ国民は可哀そうである。今年の11月の大統領選にジョー・バイデンかドナルド・トランプしか選択肢がなそうである。バイデンが民主党の大統領候補指名から辞退すれば、まだしも、面白くなったのだが。
2年前のロシアのウクライナ侵攻は、その前に情報を掴んでいたバイデン政権がアメリカ軍を投入する姿勢を見せていれば、起きなかったと私は考える。また、現在のイスラエルーハマス戦争は、バイデン政権がイスラエルへの軍事支援を止めていれば、早く収拾できたと思う。バイデンは、国内の政治勢力の均衡を気にするあまりに、世界政治で失策続きだ。
2週間近く前、朝日新聞は『《耕論》扇動に備える』というテーマで、3人論者にインタビューを行っている。編集部は一部の政治家が扇動を行っているとの観点で議論が深まることを期待していたようだが、安田浩一や阿古智子は、「扇動」とか言う前に、社会が差別と暴力に満ちているにも関わらず、人々が政治に無関心だということを問題にしている。
森本あんりが、ただ一人、編集部の意図に沿って、つぎのように言う。
「民主主義が定着し情報通信環境が一変した状況です。全員がフラットな社会になり、誰もが信じたいことを信じ、言いたいことを言えるようになる一方で、既存の権威や価値が揺らぐ。」
「自由と民主主義の社会だからこそ扇動が効果をあげやすくなったのかもしれない。」
「人間が秩序や正統性の大事さに気づく機会はやがてまた戻ってくると信じる」
ここで「正当性」ではなく、森本あんりが「正統性」と言っていることに注意したい。
じつは、ハンナ・アーレントも森本あんりと同じようなことを「全体主義の起源」で言っている気がする。彼女は「国民国家や階級社会の崩壊が全体主義運動を可能にした」と考えているようだ。
「階級社会」と両立する「国民国家」とは何なのか、と私は思うので、19世紀のプロイセンの政治を調べている。
現時点の私の理解では、1848年2月のパリでの革命に呼応して、プロセインをはじめとするドイツの諸国に自由と平等の革命運動が起きた。これを国王や諸侯が軍隊の力で抑えた。この後、策謀家のビスマルクが権力の中心に躍り出て、普通選挙を求める社会主義勢力を陰謀と力とで抑え込み、「鉄と血」のスローガンのもと富国強兵にまい進した。
当時のドイツ軍人は貴族の出なのだ。
20世紀にはいり、ナチスが選挙で政権を握った後、ヒトラーは古参の党員を殺し、ドイツの軍人の上にたって、全体主義的支配を進める。本当は、ヒトラーの暴走をドイツ軍人は抑え込めたはずだ、と私は考える。そうならなかったのは、貴族的なドイツの軍人たちは「秩序と正統性」をヒトラーのもとに回復できると考えていたのではないか。
いつの世も、「扇動」は、支配者や支配者にならんとする者の使う手段の1つである。「権威」「秩序と正統性」には胡散臭さがある。「言いたいことを言えるようになる」ことは良いことだと思う。