猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

核戦争の危機は高まっている、核兵器は戦争の抑止力にはならない

2024-10-14 10:49:52 | 戦争を考える

10月12日のReutersに「広島と長崎の被爆者らによる草の根運動がノーベル平和賞を受賞したことは、核戦争の危機がかつてないほど近づいているという世界の不安を表している」という署名記事が載った。

「プーチン大統領は9月下旬、ロシアが通常兵器による攻撃を受けた場合、核兵器を使用する可能性があると西側諸国に警告した」

「約90発の核弾頭を保有するとされるイスラエルがイランと対立している」

「北朝鮮は「軍事大国、核保有国」に向けた動きを加速することを宣言している。米国科学者連盟は、北朝鮮がすでに50発の核弾頭を保有すると推定している」

と記事は続く。

私も核兵器使用のハードルが下がっていると思う。核兵器による戦争の抑止力はとっくに壊れていると私は考える。現在、核兵器は、通常兵器の戦争を止めさせないための恫喝として使われている。核兵器のため、戦争を止める国もなく、戦争はどんどん拡大していく。

核廃絶の草の根運動のノーベル平和賞の授与は遅すぎた感がある。これからは核兵器廃絶と戦争反対と一体化していく必要がある。

核兵器の問題は、核戦争が始まったとしても人類は滅びないことだ。

核兵器の威力が有効であるためには核爆弾が地上に着く前に爆発させる必要がある。そうでないと不発弾になる可能性が高い。そういうことがあって、核から身を守るに核シェルターが有効である。だから死ぬのは、戦闘に参加しない普通の人びとである。国家首脳、司令官、兵士は死なない。

これが、核兵器使用のハードルが下がる理由である。核兵器使用を命令する指導者は死なない。大量に死ぬのは普通の民間人である。

ストックホルム国際平和研究所によると、世界の現時点の核兵器保有数は12,121発で、その約90%はアメリカとロシアが保有している。アメリカが5,044発、ロシアが5,580発、中国が500発である。じつは、この数は、貯蔵核弾頭や退役・解体待ちの核弾頭を含んでいる。実戦配備の核弾頭は保有数の30%弱である。中国の実戦配備核弾頭の保有数は24発にすぎない。推定数だが、こんなものだろう。核兵器を保有するのも、実戦配備にも、お金がかかる。

ここで、今後の核兵器使用の展開をシミュレーションしてみよう。

広島・長崎以降の最初の核兵器使用は、アメリカとロシアとの間ではなく、戦争の決着がつかないことにイライラしたロシアがウクライナに打ち込む可能性が一番高い。その時点で、いったん停戦協定が結ばれるだろう。昨年の時点で、欧米の軍事研究者は、核兵器使用を人の少ない大西洋北と予測していたが、今年はロシアが民間人を爆撃のターゲットにしているから、人のいる都市であろう。核兵器は多くの人に恐怖をもたらすからこそ使われるのだ。

このとき使用される核兵器はごく少数だが、これによって、核兵器使用のタブーは指導者の間で壊れる。

そのため、この使用の後、世界が核廃絶に成功しなければ、何十年か後に、核保有国の間で保有する核兵器を打ち尽くす核戦争が始まるだろう。核兵器を打ち尽くして核戦争は数日で終わるだろう。ニューヨークやモスクワなどは灰塵と帰すだろう。それでも、国の指導者や軍人や兵士が死なないから、つづいて通常兵器による戦争が始まる。この戦争は、憎しみから長く続くだろう。生き残った人々も通常兵器によって殺されるだろう。

死の灰が地球を覆っても人類が全部死ぬわけでない。経済が混乱し、食料不足が始まる。放射能汚染の病気が蔓延するだろう。こうして、核保有国は最貧国に落ち込むだろう。核を保有しない国が核保有国に代わって豊かになるだろう。

日本の指導者がいまだに核兵器は抑止力と言っているが、すでに、抑止力としての機能は破綻している。彼らは核兵器の本質をしらない。核兵器を国内に持ち込む核共有は、核爆弾を日本に打ち込んでくださいというに等しい。日本は核兵器禁止条約を批准し、核戦争に参加しないことを宣言すべきである。


カズオ・イシグロの『失われた巨人』とパレスチナ問題

2024-10-11 12:35:58 | 戦争を考える

新聞の書評を読み、カズオ・イシグロの『失われた巨人』(ハヤカワepi文庫)を図書館から私は借りた。それを読み通すのに2日以上かかった。

私の妻は、昔、単行本で最初の数十ページを読み、お面白くないので読むのをやめたと言う。その単行本が今どこにあるのか、あるいは、買ったのかの記憶も定かでないと妻は言う。たしかに、ウィキペデイアで調べると、本書は批評家の受けが良くない。

『失われた巨人』は5世紀のイギリスのブリトン人とサクソン人との抗争と殺戮の記憶を扱っている。ブリトン人の老夫婦の愛の絆とともに、鬼・妖精・雌竜・雄牛のような犬などの伝承を利用しているために、日本人にはリアリティがない。鬼・妖精・雌竜の怖い記憶が日本人にない。もしかしたら日本語訳が良くないのかもしれない。本当は原書を読んで確認する必要がある。

『失われた巨人』は9年前に日本語に翻訳されたので、考えてみれば、なぜ今頃、私が新聞で書評を見たのか、不思議な気がする。その書評をいま再確認できないので、「新聞」で読んだというのは私の記憶違いかもしれない。

そう、『失われた巨人』は失われた記憶を取りもどすことをテーマにしている。雌竜がブリテン島の住民から記憶を奪っている。そして、雌竜を殺すことが、ブリトン人のアーサー王が、ブリトン人とサクソン人との共存の協定を破り、赤ん坊、女、老人の差別なくサクソン人を殺しまくった記憶を思い出させることになる。

記憶は良い記憶だけでない。雌龍を殺すことになるサクソン人の戦士は「たとえ救出には遅すぎたとしても、復讐には十分に間に合う」と語る。そして、サクソン人の復讐が始まる。

パレスチナの地のアラブ人とユダヤ人との抗争も、もともとはなかった。19世紀の末に、ポーランドやウクライナから新たなユダヤ人が流れ込んでくるまでは、少数派のユダヤ人はアラブ人のなかで平和に生活していた。アラブ人もユダヤ人も東セム語圏に属する。

シオニストと呼ばれるユダヤ人は、ポーランドやウクライナで周りの住民に襲われるという憎しみの記憶をもってパレスチナの地に移ってきたのである。そして、1948年にパレスチナのアラブ人を襲撃してイスラエルを建国した。襲撃され避難民となったアラブ人をパレスチナ人と呼ぶ。襲撃したユダヤ人をシオニストと呼ぶ。

『中東から世界が崩れる』を書いた政治学者の高橋和夫は、パレスチナ問題は宗教問題ではない、「土地抗争」であるという。シオニストは、約2600年前に自分たちの国があったからと言って、すでに住んでいたパレスチナ人から武力で土地を奪ったのである。

考えてみれば、この地球は本来誰の土地でもないのに、人類はこの間、自分の土地だと言って、人間が人間を殺し、誰かの土地を奪ってきたのである。奪われ殺された側も「復讐には十分に間に合う」と思って、常に機会をうかがっている。奪って殺した側は、復讐されるのではという不安のなかで、軍事力を増強するだけでなく、奪われ殺された側のリーダーを事前に暗殺する。それでも、安心できないと、女子供老人の見境なく、復讐する側を抹殺する。

それが、いま、イスラエル人がパレスチナ人にしていることである。

『イスラエルの起源 ロシア・ユダヤ人が作った国』(講談社選書)を書いた鶴見太郎は、先日の朝日新聞に、シオニストが100年をかけて育った憎しみは、これから100年かけないと消えないと書いていた。

それにしても、イスラエルの指導者は狂っている。ヨーロッパがユダヤ人に植え付けた恨みを、弱者のアラブ人に向け、奪って殺す側になっている。しかも、イスラエルの軍事力はアメリカやヨーロッパから与えられたものである。30年前までは、社会主義から中東の石油やスエズ運河を守るという名目で、この30年間はキリスト教の欧米文化をイスラム教から守るという名目で、軍事援助を受けている。

アメリカが軍事援助を止めないと、復讐されるという不安のなかで、イスラエルはガザ、ヨルダン川西岸、レバノンのパレスチナ人を全員殺すという方向に進む。記憶だけを消すのではなく、記憶を持つ民族自体を抹殺しようとする。


10月7日代表質問での野田佳彦の問題発言

2024-10-08 11:32:42 | 政治時評

けさ10月8日のAERAdot.で、古賀茂明が「高市首相・立憲野田」コンビで超右翼政治の恐怖と警告していた。私も、立憲民主党の代表になぜ「終わった右翼政治家の野田佳彦」を選んだのか、残念でたまらない。泉健太で良かった。

10月4日の石破茂の所信表明を受けての、きのうの野田の代表質問を聴いて、唖然とすることが少なからずあった。ここで野田の問題発言の1つをそのまま紹介する。

「日本国憲法第7条では、天皇は内閣の助言と承認により国民のために国事行為を行うと定めています。ところが総理は、就任前の9月30日記者会見で、解散、総選挙の日程を確定的に明らかにいたしました。内閣総理大臣就任前の一国会議員であった者が、こともあろうに、憲法第7条に定められた衆議院の解散、総選挙の公示といった天皇の国事行為に踏み込んだ発言をしたことは、私は断じて許せないと思っています。」

衆議院の解散を党利党略で行うことは厳しく非難しなければならない。国民に信を問うのは、与党と野党との議論が膠着した場合、あるいは、与党の少なからずの議員が内閣の改革を妨害している場合にのみ、許されることである。

今回は、補正予算委員会も開かれず、与野党の議論が熟さないなかで、裏金問題の議員も公認する方針で衆議院解散・総選挙の日程を早めたことが問題なのである。

それが突然、野田は、「天皇」を持ち出し、「内閣総理大臣就任前の一国会議員であった者が天皇の国事行為に踏み込んだ発言をした」と非難した。一国会議員が天皇に失礼なことをしたと非難したことになる。野田は「天皇」を政争に利用しているのではないか。ここで、「天皇」を持ち出す必要はない。野田の右翼性が思わず出た瞬間である。

野田は代表質問で日米同盟を称賛していたが、国際政治上の問題は、アメリカ政府が過剰な攻撃を行うイスラエル政府を抑制できていないことである。ガザやレバノンへのイスラエルの無差別攻撃にもかかわらず、自分の選挙への影響を恐れて、アメリカ政府も議会もイスラエルへの軍事援助を続けている。ここは、アメリカにもの言う日本でなければならないところだ。

同じように、政権を狙う野党であるより、良心の野党であることが、大事である。古賀が心配するように、与野党挙げて軍拡に走るのではなく、野党は、良心に基づき、日本が道を誤らないよう、与党をたしなめるべきである。


佐伯啓思のいう「リベラルな価値」は変である

2024-10-05 23:56:41 | 思想

佐伯啓思は欧米の思想・文化にコンプレックスをもっていて、自分の被害妄想を広めているので、私は彼が好きでない。今回の朝日新聞〈異論のススメ〉も、タイトルが『自民党は保守なのか』なのに、副題は『米と「リベラルな価値」を共有しても 異なる歴史観』である。多義的な意味をもつリベラルという語を持ち出して、自分の妄想をもって欧米の思想・文化を排斥するというのは、160年前の「尊王攘夷」の論者と何も変わらない。

単語「liberal」をOxford英英辞書を引くと、

  1. giving generously, 2, given in large amount, 3. not strict, 4. broadening the mind in a general way, 5. tolerant, open mind

とある。ここには「自由主義者の」という意味はない。英国では、リベラルは、「太っ腹の」「こころの広い」という意味である。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン(Leviathan)』を読んでも、自由はlibertyで、liberalは「太っ腹の」の意味で使っており、金持ちは太っ腹でないと殺されるとの文脈で使っている。

日本語の「リベラル」は、どうも米国のliberalから来ているようだ。

J. ガルブレイスの『ゆたかな社会(The Affluent Society)』では、liberalsはconservativesと対になって使われている。みすず書房の鈴木鉄太郎訳では、liberalsを「自由主義者」、conservativesを「保守主義者」と訳している。しかし、対になっているから、「改革派」と「保守派」というニュアンスであろう。自由市場に政府が介入するニューディールの推進派をリベラルと呼んでいる。

また、岡山裕の『アメリカの政党政治』(中公新書)を読むと、1868年の大統領選挙の後、共和党のリベラル派は「共和党は改革の党であることをやめたとして、リベラル・リパブリカン党を立ち上げ」とある。この場合も「改革派」である。

「リベラル」は、その時点までの主流に対抗する政治的あるいは経済的立場を表わすだけなので、どうしても多義的になる。しばしば反対の思想的立場さえ、リベラルと称することがある。「リベラル」でひとまとめにするのは控えるべきである。

もとに戻ると、佐伯は「リベラル」をつぎのように使っている。

「冷戦における自由主義陣営の勝利は、米国を中心とした世界規模の市場を生み出し、また、自由・民主主義・法の支配、といったこれも米国流の「リベラルな価値」の世界化をもたらした。」

「米国にとって、近代の戦争はすべて「リベラルな価値」を守るための「正義の戦争」なのである。」

「このような歴史観を表明したのは、「ネオコン(ネオコンサーバティブ)」つまり「新保守派」と呼ばれる知識人や政治家であった。」

佐伯は、コンサバティブ(conservatives)がリベラルな(liberals)価値を表明したと言っている。完全に、日本語の理解で語っていて妄想である。また、「自由・民主主義・法の支配」が「米国流のリベラルな価値」だというのも変である。

さらに、「自由主義陣営」というのも日本の保守派のことばで、liberal blocもliberal campも和製英語である。英語では「Western Bloc」「Capitalist Bloc」を使う。これらは、冷戦期に共産主義陣営に反対する諸国のことを言う。

佐伯はこう結論する。

「日本の指導者は、ことあるごとに「日米は価値観を共有している」という。それは、「リベラルな価値」の普遍性を実現するという「ネオコン型」の歴史観の共有ということである。」

確かに自民党執行部が「日米は価値観を共有している」というが、これは、「米政府の意図に日本政府は逆らわない」という言明にすぎない。日本企業が米国市場から締め出されないために、自民党執行部がなさけない発言を繰り返している点については、私は佐伯と同感である。自民党は本当になさけない。


株価維持だけに目を奪われる自民党に政権を任せられない

2024-10-04 12:02:24 | 経済と政治

自民党総裁選が終わってから株価が乱高下している。新聞を読むと、新首相になった石破茂は、株価維持のためにこれまでの発言を修正し、金融緩和を続けるという立場をほのめかしている。

金融緩和の問題は、円安を維持するのか、円ドル相場を元に戻すのか、そして、株価高と物価高のどちらを選択するのか、という問題に帰着する。経済政策の目標をどこに置くかの問題である。株価があがっても株保有者の名目上の所得が上がるだけで、デフレの本当の原因、富の偏在のために需要が減少していることの対策にならない。

デフレは生産力にくらべ需要が伸びないときに起きる現象である。日本の戦後の復興期のデフレは、アメリカに需要を見出すことで解決してきた。しかし、それは、デフレの輸出にあたる。当然、日米摩擦が起きる。最近のデフレは、中国の経済成長による需要の増大によって、日本のデフレが多少カバーされてきた。

私が現役のとき、当然潰れるはずの新日鉄や小松製作所が、中国の需要の増大で、息を吹き返した。しかし、その中国も経済成長に陰りが出ている。建設業に破綻が出始めている。

日本は、もはや、輸出によってデフレを脱却できないことが、一般には充分に理解されていないように思える。金融緩和も、株価維持政策も、インフレ政策も、日本の不景気の根本解決に導かず、富の偏在の解消しかない。

金融資産の課税を強化するという政策は、石破茂が最初に言いだしたのではなく、3年前に岸田文雄が首相になったとき、施政方針で初めて述べたことである。しかし、岸田は財界からの反対でそれをできず、かわりに、新NISAなどと言いだした。石破はもっとひどく、首相になったとたんに、過去の発言を撤回し、富の偏在の是正に言及しなくなった。

3週間前に、朝日新聞の夕刊に、一橋大学の経済学教授の陣内了が、インフレ政策が如何にいけないことか、述べていた。第1に、インフレは実質的に賃金の引き下げである。第2にインフレはお金の借り手に有利で貸し手に不利である。インフレは連鎖倒産を防げるかもしれないが、年金生活者や福祉に頼っている人たちを生活困窮に貶める。

J. ガルブレイスは『ゆたかな社会』で、年金や生活保護や失業保険は、社会の需要の底支えをする役割があり、社会の安定性を保つために必要だと言っている。

また、泉健太は、今回の立憲民主党の代表選で、インフレは消費税による税収入を増やすが、企業や資産家の課税は増やさない、結果として、貧しい人たちの税負担の割合を増す、と指摘していた。

円安によるインフレに良いことなんてありはしない。

富の偏在に言及せず、株価維持だけに心が奪われる自民党政権が、このまま、続いていいものと私はおもわない。