<作文>
休みの間の作文
(N・K)
カゼのひいた人が多かったので、学校が休みになった。弟は学校から帰ってくると、すぐにスキーぐつとスキーをはきスキー乗りにでかけて行ったきり、ごご3時になっても帰ってこないので、僕はさがしに坂の方に行って見ると、いなかった。
自分の仕事もしないで、スキー乗りに夢中でした。午後4時になると、弟が泣きながら帰ってきた。「どこへスキー乗りに行ってきた」ときくと、「神社の山の方へ行ってきた」と云いました。
「どうして泣いてきたのか」ときくと、「手がしゃっこく(冷たく)なって一人で帰ってきた」と、云っていました。せんめん器に湯をとって弟にやると、すぐ湯の中に手をいれて暖めて居ました。母は「工場におが(木材の粉)はこびに行かなかったの」と、おこっていました。
「もう暗くなったから仕事は明日にしなさい」と、云っている内に晩になって寝てしまった。カゼにかかった人が多かったので、学校は休みでした。その朝、弟は7時におきて、朝っぱらから少しおこられました。
8時頃から坂ですべっていると、「三十林班へスキー乗りに行って来る」と云って、行きました。僕は母に仕事をいいつけられて仕事をして終わらせて山の方を見ると、5、6人が山の上の方へ登って行くのが見えました。
僕は家で電池をつかって遊んでいると、弟が帰ってきました。「今日は泣かないで帰ってきたんだ」と云ってやりました。弟は、「僕も電球をつくって遊ぶ」といって作りはじめました。
昼からは、スキーのりに行かないで、家で僕と弟が、どかんを作っていると、母が「うるさいな」といっておこり、ぼくらはつくるのをやめました。晩ごはんのときに、父が「工場さ猫が来た」といって、猫にごはんをもっていきました。父が「めんこい(かわいい)猫だ」といって、かわいがって来ました。
☆ ☆
子どもでも、自分の「仕事」というのが割り当てられていた。おがというのは「おが屑」のことで、林業の街であったから製材工場などには沢山の「おが屑」があり、それが燃料となっていた。それをかます(藁で編んだ袋)に入れて、子どもたちも運んだ。私もリヤカーで、いつも兄と一緒にやった。
このほかにも、薪割りや、自家用の畑があって、種まき、草取り、収穫などを手伝ったものだ。当時は、皆それが当たり前だと思っていた。そういうことを通じて、自然の恵みや、有難さ、働くことの大切さなどを身につけていったのだと思う。
わが子育てを振り返ってみれば、今の時代なりに、もっと日常生活の上で、色々なことを手伝わせ、経験させておくべきだったと、反省することしきりである。