青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

今日はJohnny Tillotsonの誕生日

2015-04-20 16:01:49 | アメリカン・ポップスearly60’s



今日はJohnny Tillotson76歳の誕生日です。Johnny、誕生日おめでとう!!





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4月20日は、Johnny Tillotson 75歳の誕生日

2014-04-20 21:20:11 | アメリカン・ポップスearly60’s


4月20日は、Johnny Tillotson 75歳の誕生日。
Happy Birthday Johnny!


★青山さんにブログの更新を頼まれたのですが、間違えて全く関係ないものをアップしてしまいましたので、削除しました。   あやこ








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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)前半

2013-06-02 21:29:16 | アメリカン・ポップスearly60’s

「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうすれば良いのか。アパートはモニカの試験の目処がつく10月中旬には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。

他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。

と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。

広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。

状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。

今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。

年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。

今回「治療費用」そのほかは、N氏(およびT先生)に全面的にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。

何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、活字業界が未曾有の不況(日本人の「活字離れ」に加えて、「自然離れ」、「国内志向」、、、ことに中国への関心の低さ)にある最中、仕事を得るのも簡単ではなく、並行してインターネットのブログ上でも「仕事の一環として」発表し続けていこうと目論んでいるのです。

だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、これまでの“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読ませて頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。

無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。

今回のような「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれた故、改めて協力を請う文章を載せたときには、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕にはそのような人々が存在することが不思議でなりません。

それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のN氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていることの出来る、それらの人々のほうがずっと変なのではないかと僕は思う(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。彼らはいわば常識人なのでしょう、でも僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、(N氏のような積極的な援助は無理としても)何らかの形で具体的に反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのです、、、。

さっき、昆明の駅前で、例の「チョーク女子大生」(僕のブログの“桂林物語”を参照)に遭遇しました。何も食べていなくて「3元(約45円)」を恵んでくれとのこと。ポケットを見たら小銭は2元だけ。「2元(約30円)しかないけれどごめんね」と差し上げました(まるで感謝してくれなかった、笑)。このお金は、N氏からの僕への、僕の生活費や、活動費用や、医療費用などに当てるための援助金です。だから、例えば僕が20元(約300円)を使って夕食を食べるのは、当然認められる行為でしょう。しかし、僕には、このお金の中から「見知らぬ人に2元を恵む権利はない」のでしょうか? ないのかも知れません。仮に「あなたにはその権利がないから人に2元を援助してはいけない」と言われても、僕は彼女に恵んで上げます。それによって非難されることになったとしても。

もちろん、20元、30元となれば、考えます。今の僕には大金ですから。でも2元なら、何かで埋め合わせをすることは充分に可能です(2玉5元の桂林米粉を1玉3元で我慢すれば良い)。それで、彼女が飢えから救われるのなら、なんの問題があるというのでしょうか。もっとも、本当かどうかはまったく分からない。嘘である可能性は限りなく高いでしょう。でも本当である可能性が全くないとも言えない。「お金がなくなったのは自己責任、人に頼るなんてもってのほか」というのは正論です。しかし、他人には諮りえぬ苦しい思いをしているのかも知れません(強盗に身包みを剥がされるとか)。2元でその苦しさを救ってあげることが出来るとしたら、お安いものです(実は僕は昨夜“1元=約15円”が足らなくて宿泊を断られ、終夜営業のマクドで一夜を過ごしたのですが)。

*僕は「チョーク女子大生」には非常な興味を持っていて、出来ることならドキュメンタリーとしてレポートを纏めたいのです。本人および取り巻く人々の実態を探ることで、「中国人とは何か?」という命題の側面が見えてくるように感じているのです。

僕の立場に置き換えようとは思わないけれど(思っているだろうって?)、僕はブログに於いて「中国の野生生物の貴重な“情報”を提供している、この情報を必要とする方には見返りを払っていただく」と明記しているのです。見返りの額を指定しているわけではありません。「1円しか価値がない」と思えば「1円」でもいいわけです。あるいは「自分にはその予算がない」ということならば「ある予算の範囲」でいいのです。本当に「1円も支払う余裕がない(1円の支払いでも手続きで結構かかってしまうことでしょうから)、でもブログは見たい」という方がいれば、そのように申し出てくだされば良い(実際、一人います、笑)。

今回、緊急の助けを求めた僕に反応してくださったのはN氏一人だけで、なおかつ望外の援助をしてくださっています。僕の本来の望みは、ブログの(野生生物の情報に関与した)読者の方々が、一人100円ずつでも援助してくださることを願っていたのですが。まあ、援助してくださらなかった読者の方々を恨むわけにはいかない。しかし、ニヤニヤしながら、面白半分に僕の窮状を楽しみつつ、“援助をしたN氏は変わった人”と傍観している人がいるとしたら、僕は猛烈な嫌悪を感じます。

まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き」という“命の恩人”N氏に対する「お礼」の意味も込めて、「うつろなハート」を絡めての「ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代」【第6回】をアップする次第です。


I “謎”への入り口

「Empty Feeling/うつろなハート」。この曲は、ある意味、日本に於けるJohnny Tillotsonの位置付けを探る上で、エポックメイキング的な存在であるような気がします。そのことを記そうと書き始めたら、日本でのジョニーの軌跡の全てを追う破目になってしまいました(肝心の「うつろなハート」に対する記述は、後半に少し出てくるだけ)。

その前に断っておかねばならぬことが。今回記述していく内容は、以前に何度も繰り返し記述した内容とほぼ重なります。別段、以前の記述をなぞろうとしているつもりはないのですが、書き進めているうちに興味の対象がいつも同じところに向かってしまうのです。なお、今回はyou-tubeをはじめとする資料を一切参照していず、僕の記憶だけに頼って書き進めています。細かい内容(アルファベットの綴りや、ヒットチャートの順位などを含む)は多々間違いがあるかと思いますので、その旨ご了承下さい(間違いは判明次第、随時訂正していきます)。

あともうひとつ注約。先に記した「ブログの定期読者には(自主的な判断の上での)購読料金を希望する」というのは、あくまで僕の“本職”の「野生生物」に関する話題に於いてのこと。趣味でアップしている「Elvisと~」の読者に対してはその範囲ではないので、気兼ねなく訪れて頂きたいと考えています。

さて、やっと本題に入ります。「Judy, Judy, Judyの謎」「涙くんさよならの謎」を探っていくための、イントロダクションでもあります。

60年代初頭、本国アメリカでのジョニーは「ポエトリー・イン・モーション」や「ウイズアウト・ユー」などのヒット曲で、ティーン・アイドルの第一人者の一人として君臨していました。

ただし、他のアイドルたちと異なるところは、日本での知名度が全くなかったこと。日本の市場など無視してもよさそうに思うのですが、実際はそうでもなかったようです。60年代初頭、何人ものアイドルたちが相次いで来日しました。そして日本でもヒット曲を量産していました。ブライアン・ハイランドで例えれば、60~62年頃に於いてはジョニーに比べ圧倒的な知名度を誇っていました。正確に言えばジョニーの不戦敗。所属する米ケイデンスレコードが日本のどのレコード会社とも契約していなかったため、発売自体が叶わなかったわけです。

例えば「ポエトリー・イン・モーション」。4年後には日本でも発売され目出度く大ヒットとなるのですが、リアルタイムでは発売されなかったため、他の歌手のカバー盤でのみでしか聴くことが出来なかったのです。良く知られているのは「君に首ったけ」の日本題のボビー・ヴィー盤で、これはシングルB面に収められています。また同じ「君に首ったけ」の日本題で、マイナーな歌手(今確かめられないので分かり次第追加記入します)のシングルA面盤がyou-tube上に紹介されています。

ジョニー本人は以前から日本が好きだったと聞いていますし、(「こんなに愛して/Why Do I Love You So」「Judy, Judy, Judy」などアジア各国でのヒットも多数あることですから、アジア市場に力を入れていたことが推察出来ます。後の多数の日本語録音のほか、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語などの各国語の作品も多数あり、国外での活躍を人一倍望んでいたはずです。だから日本でレコードを発売できない状況に対して、悔しい思いをしていたに違いありません。

数年後のミュージックライフ誌だったと思うのですが、こんな記事が載っていました。当時多大な人気を誇っていた洋楽D.J.高崎一郎氏の談話です。「私の事務所宛てに、自己の紹介と、日本でのオンエアーを願う文章を添えて、一枚のレコード(Poetry in Motion)が届いていた。こんな律儀な歌手は他に知らない」といった要旨で、ジョニーの熱心さと律儀さを褒め称えています。

ここで本国に於ける、ケイデンス時代のジョニーの航跡を簡単に(ちょっと斜めの方向から)チェックしておきましょう。

ティーンアイドル歌手たちは、一括りで認識されがちですが、一人ひとりの個性や方向性は、相当に異なっています。ジョニーはその中で最も典型的・平均的な“ティーンアイドル”と見られがち。しかし仔細にチェックすれば、個性にしても実績にしても、他の歌手とは相当に異質であることが知れます。個性はさておき、“実績”面では、意外な事実が少なからず見出されます。

まずデビュー(正式なリリース)は1958年9月。“24人衆”の中では比較的早いほうだと思います。「デビュー曲より初ヒットが後」、これはいくらでもあるパターンですね。ところがジョニーの場合は「デビュー曲より初ヒットのほうが先」、これは大変に珍しいケースだと重います。

デビュー曲は自作のラブバラード「夢見る瞳/Dreamy Eyes」。しかしこの曲がBillboard Hot100チャートに登場する前に、B面に収められた、ロックンロール曲(やはり自作)「Well, I’m Your Men」が一足先にランクインし、4週間留まって圏外に消え去ったあと、正式にはデビュー曲と認識されている「夢見る瞳」がランクインしたのです。

多くのティーンアイドル歌手は、現在では一応「ロック」のジャンルで括られています。しかし200曲を 超えるジョニーの録音曲のうち、純粋に「ロックンロール」と呼べる曲は、このデビューヒットの「ウエル・アイム・ユア・マン」を除いてほとんど存在しません(この曲はデビュー前の57年に録音されたC&W10数曲とともにデモテープにも収録されていて、それらの曲はのちに自家版アルバムとしてリリースされています、また、デビューに際して録音した曲のひとつに、リッキー・ネルソンのロックンロールヒットのカバー「アイ・ゴット・ア・フイーリング」があります)。

そして、“これぞロック”と呼べる曲がもうひとつ。デビューから52年後の2010年にリリースされた「ノット・イナフ」。なにか感慨深いものがありますね。

さて ジョニーの初ヒット「ウエル・アイム・ユア・マン」の87位というポジションは、下位ではありますが、一応幸先の良いスタートです。日本の音楽市場よりも遥かに巨大なアメリカのそれは、たとえ100位といっても、実質日本の(例えばオリコンの)ベスト10ぐらいに相当する価値があると思う。後で述べるように、別ジャンル(例えばC&W)のチャートや、地方の放送局のチャートなどで、No.1にランクされた曲であっても、BillboardのHot100では、100位内にランクされるかどうか、という位置付けなのです。

そのBillboard Hot100に登場した新人歌手の以降の航跡は、大きく4タイプに分けることが出来そうです。

●①いきなり大ブレーク。
例:ポールアンカ(「ダイアナ」)。

●②なかなか結果が出ず、何枚も不発を重ねた後、一気に大ブレーク。
例:ボビーヴィントン(「涙の紅バラ」)やトミーロー(「シェイラ」)。

●③まず下位でヒット、次いで大ブレーク。
例:ボビーヴィー(「スージー・ベイビー」→「デビル・オア・エンジェル」)、および雌臥後のロイ・オービソン(「アップ・タウン」→「オンリー・ザ・ロンリー」)。

●④幸先良く下位ヒットもそのまま消えてしまう。
“24人衆”にカウンティングされていない大多数。
(ロイ・オービソン、ブレンダ・リーらは、一度消えてから暫く後に大ブレーク)

ちなみに、いきなり大ブレークした後、続けて大ヒットを続けるのは稀(リッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースなど少数)で、2~3曲後には消え去ってしまう、すなわち1発屋がむしろ主流です。上記のポール・アンカやブライアン・ハイランド(ブレイクは2曲目)にしても、一度は消えかかって、あわや一発屋になりかけているのです。

いずれにしろ、ほとんどの歌手の航跡が上記のパターン(または幾つかの組み合わせ)なのですが、ジョニーはそのどれにも当て嵌まりません。上記のように、幸先良く下位ヒットでスタートした後は、次は消え去るか大ブレークするかのどちらかなのだけれど、87位→63位→54位→43位と、下位キープのまま消えることなく、しかも少しづつ上昇しています。これは大変に難しい技なのだと思います。この後さらに57位/63位の両面ヒットを放ち、6曲連続40位(メジャーヒットの目安で40位以内曲だけを紹介するメディアも多い)以下のHot100チャートインを続けます。一曲も40位内チャート曲のない最多Hot100チャートイン記録保持者は「9曲」のスティーブ・アライモで、彼の場合は62年スタートですから、ジョニーの6曲というのは、この時点で記録保持者かも知れません。7曲目の「ポエトリー」での大ブレークも以降の計14曲のトップ40曲もなく、あと数曲こつこつとマイナーヒットを続けていたなら、別の意味で歴史に記録を残す存在になっていたのかも知れません。

アライモの本職はDJ兼タレント(デヴュー当時はジョニーもそうだったのですが)、マイナーヒット多数というアーティストは、C&WやR&Bやジャズの歌手、あるいは映画スターとか外国人歌手とか、別ジャンルの大物に多いパターンだと思います。アイドル歌手にあっては珍しいパターンなのです。

ほかのティーンアイドル歌手との違いの一つに、成功したアイドル歌手としては、際立ってリリースの数が少ない、ということが指摘出来ます。デビュー曲「夢見る瞳」のリリース(58年8月)のあと、1年近く経って「トゥルー・トゥルー・ハピネス」(59年5月)。以降、「こんなに愛して」(59年11月)、「アース・エンジェル」(60年4月)、「ポエトリー」(60年10月)と続き、「ポエトリー」での大ブレイク後も、「ジミーズ・ガール」(61年3月)、「ウイズアウト・ユー」(61年8月)、「涙ながらに」(62年4月)と、それぞれ結果が出されているのにも関わらず、リリース間隔が異常に長いのです。「夢の枕を」(62年7月)、「どうにも出来ない」(62年10月)の2曲に上記「涙ながらに」を加えた、同じアルバムからのカットの3曲の期間で、唯一一般的なリリース間隔となりますが、その後「涙でいっぱい」(63年2月)、「恋に弱い子」(63年7月)と、MGMに移ってからはともかく、ことCadence在席時は最後までスローペースのリリースなのです(ほかに企画もの、再発、移籍決定後のリリースが各1枚)。

ヒットに結びついていないのならともかく、いずれも結果を残している(「ポエトリー」以降は全曲Hot100の20位台以内)のですから、不思議です。

その理由は、ケイデンスのポリシー(所属アーティスト中の数少ない黒人歌手レニー・ウエルクのように、Hot100入りヒット曲がデビューシングル1つしかなかったアーティストでも、ジョニーとほぼ同じペースでリリースされていますし、エバリー兄弟のような超大物でも、リリース間隔は決して早くなかった)、または事情(予算がない?)によるものでしょうが、ジョニーの側にも事情があったのかも知れません。例えば、学業(ティーンアイドルでいる最中に博士号をとるのは大変なことと思う)とか、兵役とか、、、。

アルバムも少なく、普通、2~3曲のヒットを記録すれば、1枚や2枚のアルバムはリリースされるものです。ヒット9曲を積み重ねたところで初アルバム、しかもそれがベストヒット集というというのは異例でしょう。同時期にアルバムを量産していたボビー・ヴィー等と比べれば、その少なさは一目瞭然です。ケイデンス在籍5年間のうち、正式にリリースされたアルバムは3枚、うち3枚目は移籍直前の寄せ集めですから、実質、61年暮れから62年に相次いでリリースされた「ジョニー・ティロットソン・ベスト」と「涙ながらに」の2枚です。

しかし、この正反対のコンセプト(前者は「ポエトリー・イン・モーション」「ウイズアウト・ユー」を柱にした“ティーン・ポップス”集、後者は「涙ながらに」「夢の枕を」を柱とした“ポップ・カントリー・バラード”集)による2枚のアルバムは、実に計算され尽くした構成になっています。曲の配置が、唯一この並びしかないと思えるほど、見事に組まれている。「アルバム」としてひとつの作品になっているのです(ジョニーのアルバムはMGM移籍以降も一つ一つに独立した作品性が感じ取れます)。

発表曲が少ないのは残念ですが、ケイデンスの良い意味でのポリシー(実情は経済事情なのかも知れませんが、笑)と思えば、納得がいきます。以下に引くケイデンスのレーベルメイト、レニー・ウエルクの回想からも、そのことは伺い知れます。少々長くなりますが、彼へのインタビュー記事の中から、アーチ・ブレイヤーについての部分を抜粋しておきます。

Q -What kind of guy was Archie Bleyer.

A - Fabulous. He was a wonderful, wonderful, wonderful man. He knew the business. When I met him he was in his 50s or 60s. He used to go to the gym before he would come to the office. He owned Cadence Records. He was the arranger, the producer. He did everything. He mixed everything. He did everything himself. In my case, I was just a kid. I never had any experience traveling on the road. So he went out on the road with me. He was the conductor for The Arthur Godfrey Show. He was the musical conductor. When the show ended, he left and started his own record company. He married one of the Chordettes. He recorded them. "Mr. Sandman" was a big hit for them on his label. Then he had Julius La Rosa, Andy Williams. Many of Andy's big hits were with him. And he discovered The Everly Brothers. All of their big hits were with him. When they left him, they didn't really have any big hits like when they were with him. He also had Johnny Tillotson. Johnny and I are good friends today. Johnny thinks the world of Archie Bleyer and so do I.

大好き! 素敵な、素敵な、素敵な男。彼は商売を知っている。私が彼に出会ったとき、彼は50歳代か60歳代だった。He used to go to the gym before he would come to the office(*意味が良く分からない、、、、「彼はオフィスに来る前にジムに通った」で良いのかな?)。 彼はケイデンスレコードの社長で、アレンジャーであり、プロデューサーでもあった。彼は彼自身も含め、全てを取り仕切った。僕の場合、まるで子供のようだった。僕がまだ大きな旅をしたことが無かったときに、彼は僕を旅に連れ出してくれた。彼は(TVの)The Arthur Godfrey Showのミュージカル・コンダクターだった。そのショーが終わり、彼がそこから去ったあと、自らのレコード会社“ケイデンス”を立ち上げた。彼は、コーデッツのメンバーの一人と結婚した。そして共に作成した“Mr. サンドマン"は、彼のレーベルでの大ヒットとなった。そして、ジュリアス・ラ・ローサとアンディ・ウイリアムスを配下に擁した。数多くのアンディの大ヒット曲は、彼と共に成された。そしてまた、エバリー・ブラザースを発掘した。彼らの大ヒット曲群もまた、彼と共に作成された。彼の元を去ってから後は、彼と共に成されたときのような、真の意味での大ヒット曲は持ち得ていない。彼はまた、ジョニー・ティロットソンを擁した。ジョニーと僕は、今素敵な友達だ。ジョニーもアーチ・ブレイヤーの世界を、僕と同じように思っているだろう。

*なにしろ、今列車の中、ナップサックひとつの身で「辞書」もなければ、むろんネットの「自動翻訳機(ご存知かも知れませんが、これが大変な代物、ほとんど“お笑い”の世界です)」も使えない。したがって、おおむね感覚に頼った出鱈目翻訳なので、原文も併記しておきます。昆明-広州間26時間の時間つぶしに、原稿書きはちょうどいいのだけれど、バッテリーが充電出来ない。あと1時間ほどで無くなってしまうところです。

ケイデンスからリリースされたアンディーのアルバムは確か8枚、アルバムスターとして知られる割には意外に少ない数です。エヴァリーは6枚、うち一枚はアイドル歌手としては異質な(アイルランド民謡を中心とした)古い唄のカバー「Songs Our Daddy Taught Us」(これが素晴らしい!ジョニーの「涙ながらに」と双璧を成すアルバムと思っています)。

エヴァリーの在籍時も、日本のレーベルとの契約がなかったため、今では知らぬ人は居ないだろう彼らの大ヒット曲「バイバイラブ」や「夢を見るだけ」も、リアルタイムではほとんど知られていなかったものと思われます。当時エルヴィスの対抗馬であった彼らさえも、日本にあってはそのような状況だったわけで、後に「4エヴァリー(=ビートルズ)」「5エヴァリー(=ビーチボーイズ)」等として人口に介するようになってから、広く知れ渡るようになったのです。
 
62年、日本キングレコードが「セブンシーズ」という洋楽専門の配下レーベルを作り、ケイデンスと契約に至ります(エヴァリーやアンディーは既にメジャーレーベルに移籍)。ジョニーの全盛期であり、タイミング的にはベストのはずだったのですが、その最高のタイミングが逆に裏目に。

すなわち、「涙ながらに」(H3、C4、R6)、「夢の枕を」(A5、C11、H17)、「どうにも出来ない」(A8、H24)、「涙でいっぱい」(A11、H24)、「恋に弱い子」(A4、H18)と、当時連発していた本国ヒット曲が、日本ではまず受け入れられることのないC&Wバラード(その結果、ジョニーでもエヴァリーでもアンディーでもない、少年歌手エディー・ホッジスの「恋の売り込み」や「コーヒーデイト」が、ケイデンスレーベルの日本初ヒット曲となりました)。
*ジョニーとエディ・ホッジスのコンボアルバムが、ジョニーの日本でのブレイク前にリリースされています。

本国に於いても異例の立場に置かれていました。詳しい統計はそのうち紹介することにして、ここでは簡単に述べておきます。当時は「ポップ・カントリー」の全盛期。初期のエルヴィスも、ポップスとC&Wの両ジャンルをクロスオーバーし活躍していました。そもそもエルヴィスは、56年にポップス(ロックンロール)で大ブレークする依然の55年に、既にC&Wの分野でブレイクしていたのです。当時フロリダのラジオ局でDJをしていたジョニーが、いち早くエルヴィスを紹介した、という逸話もあります。

エルヴィスが、ポップス、C&W両分野で活躍し始めた年の翌57年、ジェリー・リー・ルイスをはじめとしたロックン・ローラー、リッキー・ネルソンやエヴァリー兄弟などのティーン・アイドル達が登場、彼らもポップスとC&Wの両分野に跨って、華々しい活動を開始します。50年代末のC&Wシーンは、若者の音楽(エルヴィスやルイスに代表される反抗的なロックンローラー、リッキーやエバリーに代表されるヤングアイドル)に占圧された状況に。古くから(従来の保守的な)C&W音楽を愛好してきた大人たちにとっては、面白くなかったのではないかと。

その結果、60年代に入って、C&Wの世界は、若いポップスターに対してピタリと門戸を閉ざしてしまいます。62年といえば、「ナッシュビルサウンド」「ポップカントリー」(これらの名称は今ではいろいろな解釈が成されていますが、最初は「ポップ歌手の唄うカントリー調の曲」という意味合いが強かったように思います、正確には「カントリーポップ」といったほうが良いのでしょうが)の全盛期です。

62年を挟んだ、61年後半から63年前半の、有名ポップ歌手のC&W調ヒット曲を思いつくままに取り上げてみます。

「好きにならずにいられない」エルヴィス・プレスリー
「恋のむせび泣き」ロイ・オービソン
「Don’t Break The Heart That Loves You」「Second Hand Love」コニー・フランシス
「フールNo.1」ブレンダ・リー
「愛さずにはいられない」「ユードントノーミー」「泣かずにはいられない」レイ・チャールス
「涙ながらに」「夢の枕を」ジョニー・ティロットソン
「愛しのジニー」「涙のくちづけ」ブライアン・ハイランド
「涙の紅バラ」「涙の太陽」ボビー・ヴィントン
「初恋の並木道」「君のための僕」ボビー・ダーリン
「河の娘パッチェス」デッキー・リー
「スイスの娘」デル・シャノン
「Be Careful of Stones That You Throw」ディオン
「ランブリン・ローズ」ナット・キング・コール
etc.

明らかにポップスの分野の歌手たち(上記のうち、ブレンダとディッキーの両リーは、後にC&Wへの移行に成功)ですが、曲は明らかにカントリー調です。 

このうち日本で受け入れられたのは、R&B界の大スター、レイ・チャールスの「愛さずにはいられない」と、同じく黒人のベテラン・ジャズボーカリスト、ナット・キング・コールの「ランブリン・ローズ」ぐらい。ほかの大多数は(ボビー・ダーリンの「初恋の並木道」とディキー・リーの「河の娘パッチェス」はいくらかヒットしたように記憶していますが)リアルタイムでは全く話題にならなかった。

本国アメリカでは、日本とはまた違った意味で、「C&W調のポップス曲」が、C&Wの世界に於いて、全く受け入れられなくなっていました。上記した(後述する唯一の例外のジョニーの2曲を除く)全ての曲をはじめ、ポップ歌手の唄うC&W調の曲は、(50年台末の盛況が嘘のように)C&Wのチャートに登場することは皆無だったのです。

さらに、C&Wの側の大物歌手のヒット曲も、ポップスの上位チャートには見出すことが出来なくなっていました。62年からは2~3年後ですが、分かりやすい例を挙げておきます。

「トークバック・トレンブリン・リップス」
アーネスト・アシュワーズ盤 C1位/P101位
ジョニー・テイロットソン盤 P7位/A6位

「ザ・レース・イズ・オン」
ジョージ・ジョーンズ盤 C2位/P96位
ジャック・ジョーンズ盤 P15位/A1位

若手女性C&W歌手コニー・スミスの大ヒット曲「ワンス・ア・デイ」なども、有名曲ゆえポップスでも上位にランクされたと思っていたのですが、実際は、C1位、P101位。おおむね、C&W1位がポップス100位あたりに相当する、そんなところではないかと思われます。

ということで62年度のC&Wチャートの中から、Popチャートとクロスオーバーしてランクインした曲を、徹底して調べてみました。20代の若手歌手で、両チャートの上位にランクされたのは、ジョニーの2曲(Pop3/C&W4、Pop17/C&W11)を除いて(Pop、C&W両陣営の歌手を合わせても)皆無!

唯一見つけたのが、英フォークグループ「スプリングフィールズ」の「金の針と銀の糸」(Pop20/C&W16)。実質、ダスティー・スプリングフィールドのソロボーカルですから、米国と英国、男女の差、カントリーとフォークの違いはあっても、誕生日も4日違い(ダスティ=1939.4.16、ジョニー=1939.4.20)の両者は、似たポジションのあったものと思われます。

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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)後半

2013-06-02 15:07:49 | アメリカン・ポップスearly60’s


ともかくジョニーへの待遇は“例外中の例外”と言って良いでしょう。C&Wの住人たちが大歓迎で仲間として迎えてくれ、この年のグラミー賞には「涙ながらに」が最優秀C&Wシングルにノミネートされています。

これは想像ですが、、、、結果としてジョニーはその温情?を見事に裏切ったのではないかと。その後も、ハンク・ウイリアムスの「どうにも出来ない」、自作の「涙でいっぱい」(現在ではカントリークラシックとして紹介されています)と、ギンギンのC&W調の曲を発表し続けますが、結局はC&Wから締め出されてしまった。想像するに、歌唱そのものは正調のカントリーであるにせよ、ティーンアイドルのスタイルのまま(例えば「デイック・クラークの“アメリカン・バンドスタンド”」などのアイドルの世界に身を置いて)歌い続けたのでしょう、せっかく迎え入れてやったのに、なんだその姿勢は、と反感を買ったのかも知れません。

翌63年には、ジョニーよりはやや年上ながら若手の範疇に入る何人かのC&W系の歌手が、クロスオーバー ヒットを放ちます。すなわち、ボビー・ベアーの「シェイム・オン・ミー」「デトロイト・シティー」「500マイル」、ジョージ・ハミルトン・4世の「アビリーン」、ビル・アンダーソンの「スティル」、スキーター・デイビスの「この世の果てまで」など。彼らもジョニー同様、この機会に“ティーンアイドル”歌手として君臨する選択肢もあったはずですが、きっぱりとカントリーの世界に戻ります。

もっとも、スキーター・デイビスは、60年代において唯一究極のクロスオーバーヒット(Pop/R&B/C&W/ACの4大チャート全てのトップ10にランク=ある意味60年代最大のヒット曲)となった「この世の果てまで」の成功によって、その後、長い間、一部のC&Wの世界の住人たちから妬まれ続け、辛い思いをしてきたと聞いています。

ちなみに、以前にも紹介しましたが、60年代に於ける“4冠曲”は、「この世の果てまで」一曲だけ。“3冠曲”は60年代を通して何曲か存在しますが、そのほとんど全てがP-R-A、P-C-A、A-C-Rの組み合わせで、最も難しいと思われるP-C-Rの組み合わせは、ジョニーの「涙ながらに」一曲だけです(「夢の枕を」以降の主要曲が軒並みAdult上位に食い込んでいることを考えれば、「涙ながらに」もAdultにノミネートされていたなら当然トップ10に入り得、“4冠曲”となっていたでしょう、それを想うとちょっと残念です)。

話が逸れてしまいました。ジョニーは、本国でも「ギンギンのカントリーを唄う典型的ティーンアイドル」として、相当に特殊な位置付けにあったわけです。日本での状況は、もって知る如し。全盛期とは言えども、リアルタイムでのヒット曲は全てC&W調。せっかくの大チャンスなのに、そのまま勝負しても日本のリスナーには受け入れられるはずがありません。

といって、せっかく本国でヒットを放ち続けているわけですから、それを出さないわけにはいかない。ということで、販売権獲得以降「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにも出来ない」「涙でいっぱい」と、アメリカンヒットをそのままリリースし続けました。でも、さすがに4曲連続ハズレとならば、幾ら本国での成功曲といえども、日本では駄目だということが分かります。もしかしたらジョニー本人も悩んでいたでしょうし、日本キングレコードの洋盤製作スタッフや営業も頭を絞ったに違いありません。

同じ洋楽とは言っても、日本とアメリカではヒットする曲が全く異なる、という例は、これまでにも少なからずありました。ニール・セダカの日本での最大のヒット曲は、アメリカではB面で全くヒットしなかった「恋の片道切符」ですし、ブライアン・ハイランドは、やはり本国ノンヒットの「ベビー・フェイス」ほか、多くの日本独自のヒット曲(おおむね本国ではB面)を持っています。ジーン・ピットニーに至っては、幾多の本国リリースシングルのうち、ただ一曲ヒットに結びつかなかった「ルイジアナ・ママ」が、皮肉なことに日本に於ける唯一の大ヒット曲と成っています。

ジョニーの場合も、リアルタイムの本国ヒット曲で勝負することはこの際きっぱり止めて、日本のリスナーに受け入れられそうな昔のヒット曲で勝負したほうがいいのではないか?と考えても不思議はありません。次の本国ヒット曲も「A4位」「P18位」と依然好調を維持する「You Can Never Stop Me Loving You」。そのまま出したいところですが、迷った末の決断は「古い曲」のリリース。2年前のヒット曲の、しかもそのB面曲の「キューティー・パイ」。これが予想を上回る大成功を収めます。

こと日本に於いては「イット・キープス・ライト・オン・ア・ハーテイング」「センド・ミー・ザ・ピロウ・ザット・ユー・ドリーム・オン」「アイ・キャント・ヘルプ・イット・イフ・アイム・ステイル・イン・ラブ・ウイズ・ユー」「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」といった長ったらしいタイトルの曲が、(日本人でも意味が分かる)「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」に叶うわけがないのです。

この決断、この成功は、今考えると“紙一重”の結果でした。もし、「せっかく本国でヒットし続けているのだから、もう一曲アメリカンヒットにかけて様子を見てみよう」と「ユー・キャン~」を先にリリースしていれば、永久にチャンスを逃していた可能性大です。というのは、本国では「ユー・キャン~」リリース直後、MGMへの移籍が決まったのですから。むろん、新曲の日本に於ける販売権は、日本キングの  許から、MGMを配下に収める日本コロムビアに移ってしまいます。となれば、あえて冒険はしなかったかも知れない。

しかも、その直後にビートルズ米国上陸。ヒットチャートも新勢力に占圧され、ファンたちの嗜好も一気に大転換してしまいます。決断が数ヶ月遅れていたならば、(たとえ移籍がなかったとしても)「キューティー・パイ」等の曲は既に時代遅れの音楽となってしまって、大ヒットには結びつかなかった可能性があります。「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」ほかMGM傘下の日本ヒット曲も「キューティ・パイ」の成功を持って成されたわけですから、それなくしては企画自体が成り立っていなかったでしょう。ジョニーの日本での大成功は、唯一可能なタイミングをものにした、というわけです。

上記したように、決断がひと月でも遅れていればブレイクは無かったでしょうし、早めに切り替えが決行されていればいたで、日本でもそれなりの人気を有していた他のティーンアイドル(ニール・セダカやポール・アンカやリッキー・ネルソンやブライアン・ハイランドやデル・シャノンやボビー・ヴィーやボビー・ライデルやフランキー・アヴァロンetc.)同様、(こと63~64年頃の日本に於いては)賞味期限切れということで、「新世代」に対抗する「旧世代一番手」としての位置付けは得られなかったでしょう。「日本ではついにブレークすることのなかった伝説のティーンアイドル」として、それなりの評価(現在の状況を考えれば、むしろその方が評価が高くなっていた?)は得られたことでしょうが。

といったような話は、これまでにも何回もして来ました。ここからは、その後のこと(これも一応何回かは話してきた)について。

本国旧ヒット(61年「ウイズアウト・ユー」)B面曲「キューティー・パイ」での、日本初ブレイクに続いて、同じく本国旧ヒット(60年「ポエトリー」)B面曲「プリンセス・プリンセス」も大ヒットします。ここで興味深いのは、この2曲の間を縫って、一応順番通りに、リアルタイム本国ヒット「ユー・キャン~」もリリースされていること。ただしAB面を裏返し、いかにも日本人受けしそうな「ジュディー、ジュディ、ジュディ」をA面に持って来ました。

上に記したことを自ら否定することになってしまいますが、仮に、本国ヒット曲のリアルタイムリリースを一端中止し、旧ヒットB面曲の「キューティ・パイ」で勝負を賭ける決断が成されなかったとしても、順番通りにリアルタイムヒット曲(ただしAB面を裏返して「ジュディー、ジュディ、ジュディ」)が発売されていれば、日本での初ヒットとなった可能性もあるような気がします。

「キューティー・パイ」でのブレイク直後に、いかにも日本受けしそうな「ジュディ、ジュデイ、ジュデイ」と、あまりによく出来たシュチュエーションではあるのですが、実は意外なことに、日本ではほとんどヒットしなかったのです。その原因は、相次いでリリースされた日本独自企画の“旧ヒット裏返しB面曲”「プリンセス・プリンセス」のほうがより日本人受けする曲であったこと、さらに、いわば起死回生の企画物「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」と、全く偶然たまたま順番が回ってきた「ジュディ、ジュディ、ジュディ」とでは、レコード会社営業部の力の入れ方が違ったのだろうと思います。その結果、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、2つの大ヒット曲の間に埋没してしまった。案外、綺麗すぎるメロディーの曲は、日本受けしないのかも知れません。

「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、謎の曲です。58年から唄い続けてきた“ティーン・ポップス”は、62年1月8日に録音した「素敵なガールハント」で終止符をうち、同じ日、同じスタジオで録音した「涙ながらに」以降は、C&WやAC系の曲が中心となって、(現在に至るまで50年の間)ティーン・ポップス系の曲は封印されてきました。唯一の例外が63年になって録音された「ジュディ、ジュディ、ジュディ」(ただしすでに62年から何度か繰り返し別バージョンが録音されていた)。イギリス映画「ジャスト・フォー・ファン」(63年)の収録曲であること、ジョニー自身と有名作家コンビの、3人の共作という変則的作品であること、などと併せ、アメリカ、イギリス、日本では全くヒットしなかったのに、それ以外の多くの国で大ヒットしたことなど、よく分かっていない謎が多数あります。その実態の検証と謎の解明は、改めて「ジュディ、ジュディ、ジュディの謎」として、一項を設ける予定です。

それはさておき、旧ヒットB面曲「キューティー・パイ」で大成功を収めてからは、新ヒットB面曲「ジュディ、ジュディ、ジュディ」、旧ヒットB面曲「プリンセス・プリンセス」、新ヒットB面曲「素敵なガールハント」、、、と、順風漫歩。ケイデンスからの最後のリリース曲「Fanny How Time Slips Away」(アルバム「涙ながらに」収録の別テイク)と、MGM移籍後初リリースの「Talk Back Trembling Lips」は競作となり、本国ではもちろん「トーク・バック~」の圧勝となりましたが、逆に日本では引き続きAB面ひっくり返してリリースされた「素敵なガールハント」の圧勝に終わりました。

こうなれば、日本キング洋楽関係者にとって怖いものなし。MGMのほうは本国ではヒットを続けるかも知れませんが、日本人受けしないカントリー系の曲が大半でしょう。キングのほうには、日本人受けすること確実の、本国旧ヒット曲やそのB面曲(61年以前のティーン・ポップス)が、何曲も未発売のまま残っている。こののち2~3年は独自のヒット曲を量産できそうです。ほかの同時代歌手は(少なくとも日本に於いては)かつての勢いを失っているので、一人勝ちです。

まずは満を持して4年遅れの「ポエトリー・イン・モーション」。もちろん日本でも大ヒットを記録します。ちなみに、ごく最近、クリフ・リチャードがこの曲を録音、新アルバムの目玉としてリリースされたニュースが伝わってきました。これはもう、絶対に聞きたいですね。

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(10数年後にリリースされる予定の、、、笑)ジョニーへのトリュビュート・アルバムです(●は自作曲)。

「ポエトリー」 クリフ・リチャード
「ポエトリー」 パット・ブーン
「●ウイズアウト・ユー」 (未定)
「●涙でいっぱい」 ジョニー・シンバル
「ジミーズ・ガール」 リッキー・ヴァランス or 「恋に弱い子」ケニー・リンチ 
「こんなに愛して」 (フィリッピンの女性歌手)
「●ジュディ、ジュディ、ジュディ」 ぺトゥラ・クラーク
「●夢見る瞳」 ブライアン・ハイランド
「トレンブリン・キッス」 コニー・フランシス
「夢の枕を」 エヴァリー・ブラザース
「●キューティー・パイ」(伊東ゆかり?) or 「●プロミス・ミー」 カール・ダブキンJR
「●Who’s Gonna Take the Garbage Out」 アーネスト・タブ&ロレッタ・リン
「恋はつらいね」(少女C&Wシンガー)
「シー・アンダースタンズ・ミー“ダムディダ”」 ボビー・ヴィントン
「●君の面影」 コニー・スミス
「●アナザー・ユー」 スキーター・デイヴィス
「恋のウルトラC」 ジェイ&アメリカンズ
「涙くんさよなら」 ジミー・オズモンド
「●涙ながらに」 ハンク・ロックリン
「●涙ながらに」 エルヴィス・プレスリー

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「ウイズアウト・ユー」とか「こんなに愛して」とか「アース・エンジェル」とか「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」とか、、、、いかにも日本でもヒットしそうな本国旧ヒット曲や、そのB面曲は後に残し、小出しにして行こうと考えたのでしょう、次はアルバムカットで「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」。これもそこそこのヒットを記録します。

日本コロンビア(MGM)のほうは、本国ヒットの「I’m A Warred Gay/ナイスガイジョニー」で対抗しますが、可哀想なことに、勝ち目はありません。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)にとっては“ウハウハ”というところでしょう。しかし思わぬ事態が相次いで起こります。

ひとつはビートルズの登場。以降、リスナーの嗜好は一気に変わってしまいます。もっとも、考え方によれば“旧勢力”の代表として新勢力への対抗馬の役割を一手に引き受けるわけで、当分、一人勝ちということも考えられたのです。

もうひとつは決定的な出来事です。ジョニーがMGMへ移籍して間もなく、ケイデンスは解散、アンデイ・ウイリアムスによる全楽曲権利の買収に伴い、キングレコードは日本での販売権を失ってしまいました。残された日本でのヒット確実の、無尽蔵(はちょっと大袈裟だけれど)とも言えるケイデンス音源のティーン・ポップスは、半永久的に日の目を見ることが出来なくなってしまったのです。ウハウハ一転、ジ・エンド。

そこで漁夫の利を得たのが、MGMの発売権を持つ日本コロンビア。日本で人気絶頂のジョニーを独り占めすることが出来ます。ケイデンス音源の日本人好みの旧録音曲は望めなくとも、新勢力への対抗馬一番手として、なんとか別の形で突破口を開かねばなりません。

まずは順番通り、本国ヒットの「君に心を奪われて/I Rise, I Fall」をリアルタイムでリリース。ここで予想外のことが起こります。旧譜の発売権をなくした日本キングが(即刻廃盤になることを承知の上で)消滅直前に“新譜”をぶつけてきたのです。僕が聞いた話では、個人的にジョニーのファンでもあったキングレコードのディレクターが個人の判断(リリース直後に廃盤ですから会社にとっての利益はほとんどない)で新譜をリリースしたのです(“ファンへのプレゼント”と聞きました)。発売権がなくなっていなければ、次の順番は「アース・エンジェル」に決まっていたそうです。しかし、最後のリリースになってしまうわけですから、ここはカントリータッチの曲、なおかつ日本人リスナーにも受け入れられそうな曲、ということで、一度、1年前に「涙でいっぱい」のB面「悲しき恋心」として発売された「Empty Feeling」を「うつろなハート」の邦題で再リリース。

これが、想いのほか人気を呼び、日本の各ヒットパレードを駆け上がりました。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)に於ける、日本最後の(売れ行きには繋がらない)ヒット曲となったのです。

この曲は、日本キングからリリースされた「キューテーィ・パイ」以降の7曲の中では異色のカントリータッチの曲、なおかつポップス色要素も色濃く残されています。日本ではカントリータッチの曲がほとんどヒットしなかったジョニーにとっても、何よりのプレゼントになったものと思われます。

僕のファブロートソングは、この曲の本国(アメリカ)でのA面「涙でいっぱい」、この「うつろなハート」もそれに負けない素敵な曲です。「涙でいっぱい」がポップ要素満載のC&Wなら、こちらはカントリーフレバーに溢れたPopチュエーンということが出来るでしょう。

実は、イギリスでは組み合わせが違っていて、「涙でいっぱい」のB面が、あの「ジュディ、ジュディ、ジュディ」。アメリカでの「ジュディ~」のA面「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」は、イギリスの黒人ポップ歌手、ケニー・リンチのヒット曲(ジョニーとは仲がよく、彼の勧めで録音 したとされています、幾つものバージョンがあり、初期録音のアレンジは、ケニー盤にそっくりです)であるため、彼に配慮して発売されなかったものと思われます。

いずれにせよ、ケイデンス最後期(ジョニーの移籍、レーベルの消滅寸前)に録音・リリースされた「涙でいっぱい」「うつろなハート」「ジュディー~」「ユーキャン~」は、いずれも謎を秘めた曲なのです。

「涙でいっぱい」は、ジョニーのキャリアの中で“谷間の曲”ということが出来るかも知れません。「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにもできない」と同一アルバムのカッティング曲を3曲続けてリリースした後のこの曲は、なぜか以降どのアルバムにも収められることがありませんでした。同じく自作の「涙ながらに」勝るとも劣らないポップ・カントリーの名曲だと思いますが、シンプルな歌詞と曲、モノラル録音で伴奏も単純(コーラスもない)、人気の絶頂期とはいえ、よくヒットしたものと思います。ただし、アウトテイクの別の2テイクを聴く限りでは、ひとつは澄んだ響きのベース、もうひとつはリリカルなギターが印象的で、じっくり聞けば極めて凝った構成であることが分かります(共にステレオ録音です)。

この曲は、ブライアン・ハイランドのために作成した、という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、彼が取り上げた記録はありません。ハイランドが録音したジョニーのペンによる作品は、「涙ながらに」(ノンリリース)と「夢見る瞳」(シングルリリース)。ちなみに「涙でいっぱい」は、「ミスター・ベースマン」や「僕のマシュマロちゃん」など、日本ではジョニーと同時期にヒットを飛ばした、ジョニー・シンバル盤があります。

B面の「悲しき恋心/うつろなハート」は、ジョニーのプロデューサーでマネージャーも兼ねていたポール・タンネンの作品。ジョニーとタンネンは、初期にはこのAB面のようにそれぞれ単独で作詞作曲を行っていましたが、後に多くの曲を共作しています。どちらかが詩/曲を分担したというのではなく、(ジョニーの最初の奥さんルシルとの共作の場合ともども)その時々で臨機応変に受け持ちを分担したようです。

ただし、僕の感想では、タンネンが一人で作った曲(例えば「不思議なことが起こった/Strange Things Happen」「どうしようかな?/What Am I Gonna Do」)に、特に佳曲が多いように思われます。「うつろなハート」もそのひとつです。

タンネンはジョニーとの共同出資と言われる「タンリッジ・プロダクション」を設立、その後大出世して、今ではジョニーを上回る業界知名人になっているようです。ジョニーのHPのリンクのコーナーには、イの一番に、タンネンとタンリッジ・プロダクションが紹介されています。ちなみに、歌手のコーナーには、トミー・ロウとボビー・ヴィーが、友人のコーナーには、やはり多くの曲をジョニーに提供している作詞作曲家のもう一人のポール、ポール・エヴァンスが、最初に紹介されています。

僕にとってのタンネンに纏わる思い出。66年の2回(映画と講演)の来日時、確か一回目にはタンネンが同行していたと思うのですが、2回目のときは姿を見なかったように思います。大阪公演を終え、新大阪駅のプラットホームで見送ったとき、関西支部からのお土産として、(僕の母の妹のご主人が神戸で日本人形やこけしの卸業をやっていたため、そこで貰ってきた)人形をジョニーにプレゼントし、それに付け加えて「こけし」のほうを「タンネンにあげてください」とジョニーに渡しました。ジョニーは「ポールにプレゼントだって?彼、喜ぶよ!」と、笑いながら大袈裟にびっくりして、とても喜んでくれたことを思い出します。

本題に戻ります。

漁夫の利を得た、日本コロンビアは、まずは順番通り本国ヒットの「君に心を奪われて」をリリースするわけですが、立場上、まるっきり不利なはずの「うつろなハート」に完敗してしまいます。しかし、次からはどこからも邪魔される(?)ことはありません。

まず、日本独自のユニット(?)「コロンビア・ヤング4」をでっち上げました。

ボビー・ヴントン「There I’ve Said It Again」
ジーン・ピットニー「That Girl Belongs To Yesterday」(*)
ディオン「Drip, Drop」
ジョニー・ティロットソン「Talk Back Trembling Lips」

「」内は当時本国でヒットしていたそれぞれの曲。(*)は、まだアメリカでは全く無名だったローリング・ストーンズのミック&キースの作によるアメリカ初ヒット曲で、その他の3曲もベスト10入りを果たした大ヒット曲。ビートルズ上陸直前の“ポップス黄金期”最後の絶頂期、最高のラインアップだったのですが、まるっきり反響を得ることなく、この後述べるMGM発売権消滅によるジョニーの脱離で、代わってフランキー・アヴァロンが加わったのだけれど、すでに第一線から離れていることもあって、すぐに解消してしまいました。

ただ、この時期、唯一カルテットの一員の日本でのヒット曲となったのが、日本独自シングルカット、ボビー・ヴィントンの「ミスター・ブルー」。たまたまジョニーのほうも、旧レーベルからの「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」をリリースしていて、ともにそこそこのヒットとなったように覚えています。その時点では 気付かなかったのですが、60年代初頭の“ポップス黄金期”No.1コーラスグループといって良い、しかし日本では全く無名だった「ザ・フリートウッズ」の2大ヒット(ともにBillboard Hot100 No.1)が、ジョニーとボビーのカバーによって、ほぼ同時期に日本のリスナーに紹介されたわけです。

ミスター・ブルー Bobby Vinton
カム・ソフトリー・トゥー・ミー Johnny Tillotson

そんなような状況で、“ポップス黄金期”最強のカルテットといえども、もはや日本ではお呼びではなくなってしまっていました。

どうやら、ジョニーの場合、今後とも日本向けじゃない本国ヒット曲が続きそうです。リスナーの嗜好はビートルズらの新世代音楽へ急速に移行しつつあります。普通に勝負しても勝ち目はない。作戦を考えました。出された結論は、「日本語で唄う」こと。MGMと言えば、コニー・フランシス。コニーといえば日本語です。64-65年に関して言えば、コニーとジョニーはMGMの2枚看板です。で、「君に~」に次いで(というよりも踵を接して)、前作の「ナイスガイ・ジョニー b/wドント・ゴー・アウェイ」を日本語録音することにしました。漣健児(すなわち新興音楽出版社社長の草野昌一)訳詩による、このジョニーの日本語盤第1弾は、テスト盤が出来上がり、表紙も刷り上って、後は店頭に並ぶだけだったのですが、結局発売されませんでした(たしか、相次いでリリースする予定だった「君に心を奪われて b/w恋のいらだちI’m Watching My Watch」の日本語盤も、完成していたように覚えています)。

なぜなら、僅かほんの数ヶ月(数週間?)前に、日本キングレコードに降りかかった同じ災難が、突如、日本コロンビアにも降りかかり、MGMとの契約が消滅してしまったのです。

日本での人気絶頂にあって、ジョニーの曲は旧譜・新譜とも、相次いで発売が成されなくなってしまった。これが64年の中頃です。65年に入って、日本グラムフォンがMGMとの契約を結びます。このあと、「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」など、ジョニーの日本での第二期ブレイクに繋がるわけですが、それらのゴタゴタの中にあって(あるいはその前から)「涙くんさよなら」をはじめとする日本作成(英語/日本語)盤の企画が、ジョニー、新興音楽出版社(漣健児)、浜口庫之介の間で、企画検討されていた可能性があります。

それに伴う、様々な予想外の出来事の連鎖。日本キング、日本コロンビア、日本グラムフォン(担当者の渡辺栄吉氏は後の大作曲家「筒美京平」)の、それぞれの洋楽企画部や宣伝部の思惑。ことに、漣健児訳詞による(発売されなかった)本国ヒット曲群の日本語盤と、浜口庫之介が依頼を受け作成したといわれる「バラが咲いた」や「涙くんさよなら」の由来、後年「涙くんさよなら」が、なぜか「坂本九」のヒット曲と誤認され続けていることの理由、等々の詳しい検証と実態の解明については、「涙くんさよならの謎」の項に譲ります。

【2012.5.30~31 昆明-広州の車中、および6.1~2 広州のY.H.にて記述】


Out Of My Mind/涙でいっぱい
Empty Feeling/うつろなハート(悲しき恋心)
I Rise, I Fall/恋のウルトラC(君に心を奪われて)


Ⅱ「涙くんさよなら」の謎

Good-by Mr. Tears/涙くんさよなら JOHNNY TILLOTSON 1965
http://www.youtube.com/watch?v=B4NpJQfvKF0

【文章後送】

Ⅲ「Judy, Judy, Judy」の謎


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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(未完成仮草稿)

2013-05-30 17:47:17 | アメリカン・ポップスearly60’s
「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうにもしようがありません。アパートはモニカの試験の目処がつく10月には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。

他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。

広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。

状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。

今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。

年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。

今回「治療費用」そのほかは、N氏にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。

何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、並行して、インターネット上のブログでも発表し続けていこうと目論んでいるのです。

だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読まして頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。

無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。

この「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれ、改めて協力を請う文章を載せたときは、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕には不思議でなりません。

それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のF氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていられる、それらの人々のほうがずっと変なのです(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。いかに常識人っぽく振舞っていても、僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、何らかの形で反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのですが、、、。

まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き、という“命の恩人”に対する「お礼」の意味も込めて、第6回をアップする次第です。


I “謎”への入り口

「うつろなハート」と「恋のウルトラC」

【文章後送】


Ⅱ 「涙くんさよなら」の謎


Good-by Mr. Tears/涙くんさよなら JOHNNY TILLOTSON 1965


【文章後送】

Ⅲ 「Judy, Judy, Judy」の謎


【文章後送】

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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第5回】(再編掲載)

2013-05-30 08:50:18 | アメリカン・ポップスearly60’s

Bryan Hyland V.S. Johnny Tillotson 1958~2010


「差別と人種について、そのほか」という見出しで、深刻な(?)内容のブログを書く予定でいたのですが、非常に長くなりそうなことに加え、今日がベトナム滞在最終日で、中国に戻るとまた暫くyou-tubeが開けなくなってしまうことから、性懲りもなくノー天気な話題で行くことにしました。

まあ、“ノー天気”な唄にかけては、誰にも引けを取らない2人です。ただし“ノー天気”なのは“楽曲”(ことに初期の)に於いてのみで、本人たち自身が“ノー天気”なのかどうかは不明、そうである可能性も少なくはないでしょうが、(Lastに紹介した)ごく最近の2曲を聴く限りでは、必ずしもそうとは言えない気がします。いずれにしろ、50年以上現役で唄い続けているわけで、単に“ノー天気”なだけでは、ここまで長続き出来ないでしょう(“ノー天気”だからこそ長続きしていると言えなくもないですが)。

ハイランドとティロットソンの代表曲と言えば、1960年の「ビキニスタイルのお嬢さん」と「ポエトリー・イン・モーション」、1962年の「涙のくちづけ」と「涙ながらに」に尽きるのですが、ここは少し違った趣向で、、、。

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Ⅰ 今回は「(本国での)ノン・ヒット曲」を集めてみました

一曲目は、ブライアンのデビュー曲「ローズ・マリー」。しかし全くヒットしませんでした。素晴らしい曲なのですが、日本のそれより遥かに規模が大きなアメリカの音楽市場では、実力だけでは台頭することは難しく、“運”も含めた多くの要素が合わさって、初めてブレイクに至るのだと思います。次の、いわば“ノベルティー・ソング”の「ビキニスタイルのお嬢さん」で大ブレークに至るわけですが、これはまさしく“運”“タイミング”を掴んだ、ということでしょう。もし、このチャンスを逃していたら、永久に「歌の上手な地方の天才少年」で終わっていたかも知れません。もっとも「運」だけで乗り切れるほどアメリカの音楽業界が甘くないことも、また事実で、このあと一度沈んでしまいます(いわゆる“ノベルティソングの一発屋”に成りかけた)。しかし彼は実力者でもあります。「涙のくちづけ」などを含む幾多の名曲で、何度も復活を果たすのです。

なお、以前のブログにも書いたように、「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は決してノヴェルティー・ソングなどではないことを強調しておきます。素晴らしいメロディと歌詞、そして歌唱による名曲です。最後の一フレーズ(女性コーラスの部分)は、少女の動き(作詞者の3歳のお嬢さんがモデル由)と回りの光景が、幻のごとく眼前に現れ、思わず涙が出るほどの美しさです。

話が「ローズ・マリー」から逸れてしまいましたが、“美しさ”という点ではこちらも文句なし。ヒットに至らなかったのは、新人歌手の曲としては“真っ当すぎて”インパクトに欠けていた、ということなのでしょう。ただし、確か(どの国だったか忘れたのですが)国外ではヒットしたという記録が残っていて、なんと、日本でもある程度のヒットを記録したらしいのです。それも「ビキニスタイル~」発売以前に! 俄かに信じられないのですが、彼の他の日本でのヒット曲のパターン(本国ノンヒット多数)から考えれば、有り得えない話でもないような気もします。

Rosemary BRIAN HYLAND 1959


Ⅱ 初期の曲は“ノー天気”丸出しです

両者の共通点のひとつは、ノンヒットのB面に良い曲が多く、しかもそれらの曲の幾つかが、日本で大ヒットしているということ。そう、彼らの日本での大ヒット曲というと、なんといっても、まずは“胡瓜”絡みのこの二曲です。ブライアン・ハイランド「夕方胡瓜捨てる」(“You got a cutie still”のフレーズが、前半に本人で、後半に女性ボーカルで、都合2回登場)、ジョニー・ティロットソン「胡瓜パイ」(26回出てくる“cutie”のうち、23回が“キューリー”と聞こえる)。

共に1961年にリリースされたシングルB面曲。A面はそれぞれ、Brian Hyland「Sixteen cubes of Sugar/16個の角砂糖」、Johnny Tillotson「Without You」で、ブライアンのほうは両面とも本国ノン・ヒット(ただし日本では別々のシングルで発売されA面もある程度のヒットを記録したらしい)、ジョニーのほうのA面(両面とも自作)は本国ではベスト10入りした大ヒットとなっています(日本ではシングルで発売されず)。

Baby Face/ベビー・フェイス BRIAN HYLAND 1961


Cutie Pie/キューティー・パイ JOHNNY TILLOTSON 1961



ジョニーは、誰もが認める「コンスタント・ヒット・メイカー」。デビュー・シングルからの連続23枚(計26曲)の全てがBillboard Hot100にランクされていて、これは至難の技だと思います(この時代の若手歌手ではNo.1の記録かも知れない)。しかもその間、3曲連続して順位が下降するということも、一度もなかった。大半が、一応メジャーヒットの目安となるトップ40入りか、ACやC&Wなど別ジャンルで上位に食い込んでいる。しかしなから、連続ヒットが途切れて以降の数10曲は(数曲のC&Wチャートインを除き)全て外れ。

一方の、ブライアン。大ヒットのあとは、ガクンと順位が下がり、3~4曲後にはヒットチャートから跡形もなく消えてしまっています。他ジャンルでのランクインも無し(唯一「ビキニ~」がR&Bのトップ10に)。しかし忘れられかけた頃に突然再度大ブレークし、それを何度も繰り返します。ジョニーが連続ヒットを飛ばし続けていた63年~65年の曲は、ほとんど全てハズレ。しかし、ジョニーのヒットが途切れた66年以降も、66年、69年、71年に、それぞれ2~3曲の突発的ヒットを飛ばしています。コンスタント・ヒットメーカーのジョニーとは正反対に、当ればでかい爆発型、ヒット曲のイメージのインパクトの強さから言えば、ジョニーを上回ります(例えて言えば、イチロー型と松井型、というところでしょうか)。

ところで、ジョニーのほうは“デビュー以来8年間に亘って一度も途切れることなく連続ヒットを記録”と上に記したのですけれど、これには注約が必要です。

昨年「Bear Family」からリリースされた、ケイデンス時代の「Out-take集」には、付録として、これまで謎の曲だった「I’ll Never Gonna Kiss For You」が収録されています。今までの解釈では、『デビューに際して、ソロシンガーとして打って出るか、アイドルグループ“Genevieve”の一員として勝負するか、2つの可能性を探ったが、前者が一応の成功を収めた(夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン)のに対し、後者のほうは成果が出なかったので、結局ソロシンガー一本で行くことになった』とされていました。今回、「アウトテイク集」に付されたブックレットの解説にて、事実は全く異なることが判明。

実は“Genevieve”はユニットの名ではなく、フランス?のベテラン女性歌手の名。今手許にブックレットがないので正確なことは分からないのですが、19歳のジョニーより遥かに年長(確か30歳を越えていた)の実力者のようです(「Jack Parr TV show」という番組のレギュラー歌手?)。当時ケイデンスからはアルバムもリリースされています。両面ヒットを記録したデビューシングル「夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン」と踵を接して(というよりもほとんど同時に、、、Cad.1353、Cad.1354と続きの番号)リリースされ、B面はGenevieve単独、A面のこの曲も彼女が第一ボーカルとされ、“with Johnny Tillotson”とクレジットされています。

後年、ジョニーのほうが遥かにメジャーになったので、駆け出しの頃とはクレジットが逆になってしまった(それどころか、ここに紹介したyou-tubeには“Genevieve”の名がどこにも記されていない、幾らなんでも“それはあんまり”と思う)。

もっとも、たとえ大物歌手であっても、友情参加ということでクレジットなし、という例は枚挙にいとみません。例えば“Jan & Deanの2大ヒット「サーフ・シティー」(63年1位)「パサディナのお婆ちゃん」(64年3位)のレコーディングにはジャンは参加していず、変わりにBeach Boysのブライアンがジャンと一緒にハモッている”とか、、、逆に“Beach Boysの大ヒット「バーバラ・アン」(65年2位)のリードボーカルは、なぜかJan & Deanのディーンが唄っている”とか、、、眉に唾を塗るような(しかしどうやら事実らしい)話は幾らでもあります。

ジョニーの2大ヒット曲のひとつ「ポエトリー」の伴奏に、フロイド・クレーマーやブーツ・ランドルフが参加していることは余りに有名ですが、もうひとつの「涙ながら」にも、フロイド・クレーマーやアニタ・カー・シンガーズが参加していることは、これまで余り知られていませんでした。しかし、現在ジョニー自身のホーム・ページに当時の写真が紹介されていて、それによって実態が明確になったのです。

なお、「I’ll Never Gonna Kiss For You」に次いでリリースされた「True, True, Happiness」のバックでハモっている女性コーラスは、ケイデンスの大先輩コーデッツ(リーダーはケイデンス社長アーチ・ブレイアーの奥さんで、娘さんが後にエバリー兄妹のフィルと結婚)とのこと(当時はクレジット全く無し、アウトテイク集のブックレットで初めて明かされた)。デビー2曲目の駆け出し歌手のために、いわば同社の大スターが無償で後押しを、という図。

「I’ll Never Gonna Kiss For You」の場合は、上述のような例とは逆パターン、かつ少々趣が異なります。
ベテラン歌手(外国?から来た大事なお客さん?)への応援に、若くハンサムで声の良いジョニーが借り出された、というところでしょう。ヒットには至りませんでしたが、とても良い出来です。ジョニーの受け持ちは、2度のメロディーライン。むしろタイトルのフレーズを繰り返すだけのGenevieveよりもジョニーのほうが目立っている。実質的に正式なディオと考えても差し支えなく、となれば“凡打”としてカウントするべきかもしれないわけで、「デビュー以来の連続ヒット」は成立しなくなってしまいます。

なお、僕にとっての“神様”的存在のBert Kaempfertも、同一の曲を取り上げています。「Brazilian Love Song」、原曲は、おそらくトラディショナル・ソングなのだと思います(ここで紹介したかったのだけれどyou-tubeに見つからなかった)。

ジョニーの曲で、女性コーラス(ソロ?)が際立って目立つ曲のひとつが「素敵なガールハント」。全く曲調は異なりますが、「涙ながらに」と同一日同一スタジオで録音したことになっています。となれば、女性ボーカルは、アニタ・カー(またはアニタ・カー・シンガーズ)であるわけです(ジョニーたちとの会話が収録された「テイク7」を紹介したかったのですが残念ながらyou-tubにはアップされていない)。一方、ブライアンの「ビキニスタイル~」も、掛け合いの女性ソロボーカルが極めて強調された曲。同タイプの曲には、パット・ブーンの63年の大ヒット曲「スピーデイー・ゴンザレス」や、同じく63年の、ジョニー・シンバル「Mr.ベイスマン」(前者は後に「ワンダフル・サマー」の一発ヒットを放つ美人歌手ロビン・ワードだったと思う、後者は黒人男性)などがあり、リアルタイムでは掛け合い歌手の名はクレジットされていなかった可能性がありますが、いずれも現在では明記されているようです。

「ごめんねサリー」(この邦題は僕が仮につけたもの、実際は全く異なる題のようですが、思い出せないので、このまま通しておきます)の掛け合いボーカルは、A面の「ビキニスタイル~」とそっくり。「ビキニ~」よりも先に録音されたらしく、一説には当初こちらをA面として考えていたともされています。A面に勝るとも劣らないノリの良い曲で、(ジョニーの「すてきなガールハント」ともども)“ポップス黄金期”を代表しうる名曲だと思っています。ただし「ビキニスタイル」という言葉の上でのインパクトには勝てなかったでしょうから、こちらがA面として扱われていたなら、(「ローズ・マリー」の場合同様に)ヒットには至らなかった可能性大でしょう。なお、この2曲に「ベビー・フェイス」や「オンボロカーでぶっ飛ばせ」を併せた4曲は、そっくりの女性ボーカルが参加していますが、それらが皆同じ歌手なのか、知りたいところです。

I’m Never Gonna Kiss For You GENEVIEVE with JOHNNY TILLOTSON 1958


Don't Dilly Dally Sally/ごめんねサリー BRIAN HYLAND 1960


A Very Good Year For Girls/素敵なガールハント JOHNNY TILLOTSON 1962


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Ⅲ 時代は変わります

1964年春、Beatlesをはじめとしたイギリス勢のアメリカ上陸。隆盛を誇っていた“ポップス黄金期”のスター歌手たちは、あっという間に“駆逐”され、「ヒット・パレード」の表舞台から一斉に姿を消してしまいます。ジョニーの場合はその後丸2年間頑張ったのだけれど、66年には力尽きて、以降の数10枚のシングルリリースは(C&Wチャートの数曲を除き)全てハズレ。ブライアンのほうは、既に数年前からハズレが続いていて、ただしその分、66年以降も突発的にヒット(デル・シャノンと組んで製作した71年の大ヒット曲「ジプシー・ウーマン」を含む)を放っていたのですが、全体的に見れば大半がハズレということはジョニーと同様であります。

例えばシングル盤のリリース数で言えば、ジョニーの場合なら、ヒットが出なくなった66年以降のほうが
年間リリース枚数は増えていて、80年代半ばまで途切れることなく作品を発表し続けています。ここで言いたいのは、大量の「ハズレ」の存在は、むしろ“名誉”、ということ。言い換えれば、何度“凡退”を繰り返しても、自らの音楽を世に問い続けて行こうという“意欲”を反映しているわけです。

受け手(いわゆるファンたち)の嗜好は、大きく2つに分かれた、と考えられます。これまで通りの“アメリカン・ティーン・アイドル”を追従する“旧守派”のファン、ビートルズやボブ・ディランに代表される新時代の“反発”と“主張”を込めた曲を求める“転向型”の人々、時間が経つにつれて後者が圧倒的に増えていき、やがて全てのリスナーが後者で埋め尽くされるという状況になります。

ジョニーたち“狭間のシンガー24人衆”は、結果として新時代の要求に迎合することはなかった。出来れば“迎合”したかったのでしょうが、“元ティーン・アイドル”の実績が邪魔してスムーズに事が運ばなかった、というのが正直なところだと思います、、、、。といって、旧来の“ティーン・アイドル”からの脱皮もしなくてはならないのです。

ジョニーの1967年のアルバム「ヒアー・アイ・アム」は、(意識的に成されたのか否かはともかく)全曲を通しての構成が、奇しくも当時のジョニーが置かれた立場をそのまま綴るような物語となっています。一曲目「テイク・ジス・トレイン」で、田舎町から意を決して都会に出ます。3曲目に自作の「ロング・ヘアー・コミュニティー」。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ママス&パパス、ラヴィン・スプーンフル、ソニー&チャー、モンキーズなどが歌詞の中に登場し、“髪の毛を伸ばせばミリオンセラー”と皮肉っているのですが、実のところは負け惜しみ。自らもこの頃から長髪にして、仲間に加わりたいと思っていたのでしょうが、恩恵には全く蒙れなかった。

この曲に、僕は勝手に「ビートルズなんて怖くない」という日本題を付けています。この頃、相次いでリリースされ、しかし全くヒットには結びつかなかった日本製作(日本語)盤などではなく、この曲をこのタイトルでシングルカットしていれば、意外にヒットしたのではないでしょうか。何といっても日本に於いては1~2年前までは「新勢力」に対抗する「旧勢力」の一番手だったのです。本国でも、ビートルズ登場後の丸2年間、最も頑張った旧勢力の一人といえます。この期間(64年中期~65年)、“狭間の世代24人衆”のうちHot100のtop10ヒットを放ったのは、ボビー・ヴィントンが3曲、ロイ・オービソンとジーン・ピットニーが2曲、デル・シャノンとヴィック・ダナが1曲、それが全て。ジョニーはHot100のtop10こそありませんが、top40に3曲、ACのbest5に3曲を送り込んでいて、旧勢力の代表選手の一人であったことには違いありません。

なお、ジョニーは、ビートルズナンバーを一曲も取り上げていません(のみならず、おそらく一曲も重ならない)。これは凄いことなのではないでしょうか?ビートルズと同時代に200曲以上のレコーディングがあるアーティストでビートルズナンバーを取り上げていないのは、ジョニーのほか何人もいないだろうと思われます。その(意識的にかどうかはともかく)ビートルズナンバーを全く取り上げなかった彼が、真正面から意識してビートルズを唄ったのがこの曲です。ビートルズに対して、何らかの思うところがあったのかも知れません。 

A面6曲目に、アルバムのタイトル曲「ヒアー・アイ・アム」。“僕はニューヨークにやって来た。でも一人ぼっち(見知らぬ女の子に声をかけたりしています、笑)。頑張っているよ。ここにいるよ。見つけてよ。”といった要旨の内容(正確ではない)。結局は打ちのめされて“ナッシュビルに帰りたい”なんて弱音を吐いています。まるで、ジョニーの置かれた立場を、そのまま反映しているようです。

非常に意欲的なアルバムで、完成度も高く、この2~3年の間に急変してしまったリスナーの嗜好にも合っている様にも思われます。いかし大多数のリスナーには受け入れられなかった。意欲は充分に理解出来るし、作品的には一応の成功もしていると思うのですが、なにか、違和感のようなものを感じるのです。

最後の曲で、そのことが実感出来ます。田舎の町に帰ってきた「トミー・ジョーンズ」。典型的な“カントリー・ポップス”です。そこまでの(今までのジョニーらしからぬ)11曲とは違って、生き生きと歌われていることが、ストレートに伝わってくる。実際、(Billboardにはランクインされなかったけれど)Cashboxのほうでは久しぶりにトップ100内にランクインしています。そして、67年秋から68年初頭にかけ、以前そのままの、底抜けに明るい、かつ洗練されたカントリーロック「ユアー・ザ・リーズン」で、久しぶりにC&Wのほうにランクイン(40位台も10週間チャート)。

日本でも、当時意欲的に取組んでいた日本製(日本語)企画曲は全くヒットに結びつかず、66年暮れから67年にかけて、日本における最後のヒット曲「カントリーボーイ」が、久しぶりに各ヒットパレード上位に顔を出します。ジョニー自身とルシルの共作。ジョニーの曲としては珍しく哀愁を帯びたメロディーで、もしかすると意識して日本受けを狙ったのかも知れません。当時の「ミュージックライフ誌」で、C&W評論家の高山宏之氏が「C&Wの心が篭った名曲」と絶賛していたのを覚えています。

日本でのラストヒット「カントリー・ボーイ」、アメリカでの実質上のラストヒット「ユアー・ザ・リーゾン」が、それぞれ(一方は哀愁的な、一方は底抜けに明るい)いかにもジョニーらしいカントリー・ポップスというのは、頷けるところです。

さて、ジョニーの場合は62年に成されたティーンアイドルからポップカントリーへの移行が比較的上手く行き、のち4年間“意欲”と“結果”がまあまあ結びついていたと言えますが、ブライアンの場合はすでに63年頃からヒットが出なくなっていたわけで、言い換えれば“結果”に結びつかなかった“意欲的”な作品が、より早くから多数存在していたことになります。

63暮頃から数年の間に「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」といった、C&Wや(いわゆる“フォークロック”ではない従来型の)フォークソングを集めたアルバム、あるいはポップカントリーバラード的な曲を中心に添えたアルバムなどを相次いで発表しますが、シングルカットされた幾つかの佳曲ともども、注目を浴びるには至りませんでした。

それらのアルバムから何曲か、例えば僕の大好きな「さらばジャマイカ」とか「逢ったとたんに一目ぼれ」
とかを(前者はジョニーの「イエロー・バード」と、後者はボビー・ヴィントンの同曲のカバーヒットバージョンと、それぞれセットで)紹介しようと考えていたのですが、肝心のブライアン盤がyou-tubeにはアップされていません。最初に言ったようにヒットした曲のインパクトが強烈なため、you-tubeにアップされる曲も、数曲に集中してしまう傾向があるようです。

やっとyou-tubeで見つけたのが「Somewhere In The Night」。「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」は共に手許にあるのですが、それらには収録されていません。「ロッキン・フォーク」の直前にリリースされたノンチャートシングルです。今回、初めて耳にした曲(ずっと後年の作品だと思っていました)で、ティーン・アイドルから脱皮すべく、早い時期から「意欲」を見せていたことが分かります。

66年、一応大ヒットと言ってよい20位台の2曲によって、一時復活を果たします。アイドルといえば、数年前まではソロシンガーと相場が決まっていたのですが、新しいアイドルの形態は“グループ”に移り変わっています。この2曲は、それにあやかったということが出来ると思う。アメリカンポップグループの大御所「フォー・シーズンス」、飛ぶ鳥を落す勢いの若手グループ「ゲリー&ペイスメイカーズ」、彼らの曲を彷彿させる、“今”の時代にマッチした非常に良い曲です。しかし、あえて言えば、ブライアン本来の持ち味は必ずしも出ていないように思う。

71年には、9歳上の友人、デル・シャノンとコンビを組んで(デルのプロデュース)「ジプシー・ウーマン」の突発的大ヒットを放ちます。デルにもブライアンにも、明るさの中に、時折深い“影”を感じる曲が少なからずあります。それが上手く表現され成功に至ったのでしょう。69年にミドルヒットした「トラジディ」共々、ブライアンの持ち味は「綺麗な明るい歌」であると共に、「どこか影のある歌」なのです。

しかしながら、60年代後期以降も、全体としてはジョニー同様ノンヒットの量産が続きます。そのひとつ
が、ジョニー自作のデビュー曲「夢見る瞳」のカバー。これは素晴らしい出来だと思う(ジョニー本人盤よりずっといい)。しかしヒットには至らなかった。ブライアンの持ち味の「澄み切った美しさ」がよく出ているとはいえ、この時期に、こういったストレートな曲がヒットに結びつくことは、不可能に近かったのだと思います。

69年にリリースされた同じアルバム「Stay and Love Me All Summer」には、僕の大好きな曲が収録されています。「Baby You Come Rolling Across My Mind」。今回紹介したかったのですが、you-tubに見出し得なかった。前年に紹介されたこの曲のオリジナルアーティストは、「ペパーミント・トローレイ・カンパニー」と「ジョン・E・べランド」。共にこの曲がただ一ひとつのヒットで、前者は59位、後者は115位にランクされています。ベランドはこれまでにも何回か紹介したように、70年代にジョニーの相棒(バックミュージシャン兼プロデューサーetc.)として活躍。ここでは、ブライアン盤の代わりに「ペパーミント~」盤を紹介しておきます。

Somewhere In The Night BRIAN HYLAND 1963


Country Boy, Country Boy/カントリーボーイ JOHNNY TILLOTSON 1966


Dreamy Eyes/夢見る瞳 BRIAN HYLAND 1969


Baby You Come Rolling Across My Mind PEPPERMINT TROLLEY COMPANY 1968



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Ⅳ And Now、、、、


24人衆のうち、70年代中期に大復活したポール・アンカとニール・セダカ、70年代に入っても60年代から引き続き第一線での活躍を続けたボビー・ヴィントン、70年代以降C&Wに場を移し再ブレークしたブレンダ・リー、この4人を除く全員が、70~80年代にはヒット・パレードの世界からほぼ完全に遠のいてしまいました。

とは言っても、彼らの場合60年代前半の実績だけで、充分すぎるほど食うことが出来たはずです。でも、彼らの大半は、それに安住せずに引き続き新曲をどんどん発表していきました。ジョニーにしてもブライアンにしても、この70~80年代の発表曲に最も魅力を感じるのです。それら70~80年代のノンヒット曲に関しては、改めて独立の項目を立て紹介していくつもりです。

というわけで、一気に“現在”に飛びます。

まず1998年のクリスマスシーズンに作成された、かなり有名なムービーの挿入曲。曲自体も結構よく知られているらしく、you-tubeにも幾通りものバージョンが紹介されています。興味深いのは、そのうちの大半が、純粋に“映画の挿入曲”としての紹介。もちろん、“3人の伝説的(笑)歌手”のコンボとして取り上げているバージョンも2~3あるのですが、そうでないものについては、コメントから思うに非常に評価はされてはいても、誰が歌っているかについては視聴者は無関心なのだと思います。というよりも、パフォーマーの“3人”が、かつての大スター(一応そう言ってもいいでしょう)であることを知らない世代なのだろうと。

We Can Make It Together TOMMY ROE/BRIAN HYLAND/JOHNNY TILLOTSON 1998


最後に、数年前にリリースされた、それぞれの“新曲”を聴いて貰いましょう。「ベビー・フェイス」や「キューティー・パイ」から50年かけて築きあげた、力強い自分自身の主張です。

It‘s Important For Me BRIAN HYLAND 2009


Not Enough JOHNNY TILLOTSON 2010



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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【復活第4回】

2013-05-22 21:36:13 | アメリカン・ポップスearly60’s
You-tube再生回数ベスト5(+α)の紹介

しんどい話題が続いたので、久しぶりにノー天気な話題で行きます。

ベトナムにいるメリットは、中国と違ってYou-tubeが開けることです。Johnny Tillotsonやアメリカンポップスの新たな話題は山ほど発見したのですが、まずは気楽に、ごく一般的なテーマで。

Johnnyのyou-tube再生回数は、他の同時代の歌手と比べて、かなり少ないように思います。原因はいろいろあるでしょうが、リアルタイムでの動画がほとんどないということも一因かも知れません。

もっとも、ここのところチェックし続けている、個人的には大変に興味がある1970年~80年代の楽曲に至っては、再生10回とか100回の単位なので、それに比べれば60年代のヒット曲群は、何万~何十万回と圧倒的に多いのですが。

数少ない全盛期の動画としては、1963年の「Judy Judy Judy」、1964年の「Talk Back Trembling Lips」などがあり、ことに後者は溌剌とした若いジョニーの魅力が溢れていて、以前にアップされていたものは、たしか100万回近くまで再生されていたはずです。それがなぜか数年前に突然消されてしまい、現在も同じ動画が数パターン貼り付けられてはいるのですが、どれも画質がまるっきり悪い(消された動画はずっと良かった)のです。

というわけで、再生回数トップ争いは30万回前後で、おなじみの5曲(アメリカン大ヒット3曲と、第三国?大ヒットの2曲)が踵を接した争いとなっています。5曲とも数多くのヴァージョンが貼り付けられているので、トータルではどの曲がトップになるのか、微妙なところだと思います

次点は意外なことに本人のヒット曲ではなく、アルバムカットの「悲しき雨音」。ジョニーの「悲しき雨音」は2バージョン貼り付けられていて、もうひとつのほうも21万回再生されています。
再生220579回 Johnny Tillotson - Rhythm Of The Rain

5位は、アメリカンノンヒットで東南アジアなどで大ヒットしたらしい「ジュディ、ジュディ、ジュディ」。数多くのバージョンが貼り付けられているも、芸術的完成度の最も高いと思われる「ジュディー・ガーランド・イメージ」の画像、音質も非常によいこのバージョンがトップなのは、妥当なところでしょう。
再生276611回 Johnny Tillotson - Judy Judy Judy

4位は「ポエトリーインモーション」。これも多くのバージョンがあり、ほかに音質も動画もずっと良いのがあるのに、回数トップが余り音質が良いとは言い難いこのバージョンというのは解せません。
再生358611回 Johnny Tillotson - Poetry In Motion


3位は、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」と並ぶ“第三国ヒット曲”「こんなに愛して」。「ポエトリー」同様、数多くのバージョンのうち、なぜか最も音質が悪そうな当バージョンがトップ。
再生365472回 Johnny Tillotson - Why Do I Love You So


2位は、これまでずっと1位を続けてきた「涙ながらに」。
再生374379回 Johnny Tillotson - It Keeps Right On A Hurtin'


そして今週逆転1位となったのが「夢の枕を」。多数のバージョンが貼り付けられている2~5位の各曲と異なり、やや少なめなのが功を奏したのかも知れません。
再生377511回 Johnny Tillotson - Send me the pillow you dream on


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いつものごとく、“謎の第三国ヒット”「ジュディ、ジュディ、ジュディ」と「こんなに愛して」の検索をしていたら、また多くの不思議カバーが新たに貼り付けられていました。そのうち2曲を紹介します。

Johnny Tillotson(注:実際は現地女性歌手)- Why Do I Love You So (Bossa Chill Version)これは素敵ですね! 東南アジアのみでなくラテン圏でもヒットしたようです。

羅銘偉 护老院敬老义唱 - Judy Judy Judy(Johnny Tillotson) Law Michael Charity
東南アジアに於ける“ラインダンス”の定番曲(別題「ジョニーズ・ガール」)ではあるのですが、“養老院”でも唄われている(他にも数バージョンがありました)とは知らなかった。日本限定の大ヒット曲「キューティー・パイ」が、「伊東ゆかり」をはじめとした女性シンガー専用?の曲となっている(「内田裕也」盤あり、笑)のに対し、この「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、アジア系の男性歌手のカバーがほとんどです。日本人女性歌手に於ける「キューティー・パイ」同様に、どのカバー盤もまるで下手糞で聞いていられないのですが、そのなかでこの歌手のものは、かなり出来が良い方だと思います。

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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代【再開第3回】

2013-04-30 09:46:12 | アメリカン・ポップスearly60’s


Judy Yancey interview by Jonny Tillotson

「Judy, Judy, Judy」の謎(仮草稿・箇条書き)

●アメリカでは「You Can Never Stop Me Loving You」のB面。
●イギリスでは「Out Of My Mind」のB面。
●A面は、それぞれの国でかなりのヒットとなったのだが、B面のこの曲は全くヒットしなかった。
●Johnnyの人気の絶頂期。イギリスで彼を主人公の一人とした音楽映画が製作され、かなりの評判を呼び、その映画のなかでこの歌を歌った。、、、にも関わらず、A面としての発売はされなかった。
●日本では、アメリカ盤のA/B面をひっくり返し、A面で発売。その直前「キューティー・パイ」で大ブレイク。同系列の、いかにも日本で受けそうな曲。そのタイミングといい、ヒットの条件は完璧に揃っていた。しかし、なぜか全くヒットしなかった。次に出した「プリンセス・プリンセス」が大ヒットし、その後の「素敵なガールハント」「ポエトリー」「カムソフトリートゥーミー」「うつろなハート」と、「キューティー・パイ」でブレイクして以降のCadenceレーベルの曲は全てヒットしたというのに、、、、。

■しかるに、アメリカ・イギリス・日本以外の各国では、軒並み大ヒット(したらしい)。中国では、「ポエトリー」「こんなに愛して」とともに、カラオケの定番。
■フィリッピンをはじめとした東南アジアでは、オールデイズポップスの代表曲となっていて、現地歌手による数多くのカバーが成されている。
■また、東南アジアに於ける“ラインダンス”の定番曲ともなっている。
■ミャンマー?では、TVドラマの挿入曲に使われたりもしている。
■しかし、東南アジアのどの国で、いつ、どの程度ヒットしたのかといった具体的な記録は全く残っていない。
■中南米でもかなりのヒットをしたらしい。
■オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは、ベスト10入りの記録が残っている。

◆そもそも、いつ作られて、いつ録音されたのか?正式には1963年のはずだが、1962年録音のものもかなり出回っている。発売シングルはモノラル。しかし現在では様々なステレオ録音音源が出回っている。
◆有名作詞作曲チームの、ドグ・ポーマス/モート・シューマン(ジョニーよりかなり年上のベテランコンビ)と、ジョニー本人の、3人による作詞作曲。非常に珍しい取り合わせ。誰がどこを分担したのか(記録を見ると、作詞作曲の分担はされていず、3者がそれぞれ作詞作曲に携わった?)。なぜこのような変則トリオで曲が作られたのか?
◆原曲は、デビュー以前(1957年?)にジョニー本人の手で作られていた可能性大。それにポーマス、シューマンコンビが手を加え整えた?
◆他のジョニーの曲と違って、バイオリンによるバックのストリングスが非常に生かされている。非常に特殊なアレンジである。
◆ぺトゥラ・クラークによるフランス語版が成された訳は?

それらの“謎”の幾つかを解くキーが、このインタビューから得られるかも知れません。

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Dick Clark interviews Johnny Tillotson

2013-04-29 14:34:25 | アメリカン・ポップスearly60’s


Dick Clark interviews Johnny Tillotson







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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代 【再開第2回】

2013-04-20 08:32:07 | アメリカン・ポップスearly60’s

今日はジョニー・ティロットソン74歳の誕生日です。Happy Birthday Johnny !!

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昨日とりあげた、Bobby Vinton「Halfway to Paradice」と、Johnny Tillotsonの「I Love Loving You」の2曲を紹介しておきます。


■Halfway to Paradise (Carol King/Gelly Gofin)

Tony Orland(1944年生まれ)
1961年 Billboard Hot100第38位
Billy Fury(1940年生まれ)
1961年 英Melody maker 第3位
Bobby Vinton(1935年生まれ)
1968年 Billboard Hot100第23位/Adult-contemporary第8位

客観的にみればBobby Vinton盤が最もヒットしたと言えそうなのだが、、、、一般的には前2者のヒット曲としての印象が強いのだと思う。ただし僕はBobby Vinton盤を聴いてきた。Bobby Vintonは、実績から言えばこの時代のナンバーワン男性歌手だろう。50年代後半はエルヴィス、60年代はヴィントン。実は2人は同じ年で、上記2人やジョニーより4~9歳年上である。初ヒットは逆に3~4年後。後年、しばしば“3ボビー”の一人として認識されているようだが、本当の“3ボビー”(Bobby Darin/Bobby Vee/Bobby Rydel)より1~8歳上、逆に3ボビーやジョニーよりも数年遅れてブレイクし、第一線での活躍は、ずっと後まで続いた。

60年前半の“Pops黄金期”に全盛期を迎えた「狭間の世代」の歌手たちは、60年代後半以降、軒並み表舞台からフェイド・アウトして行ったのだが、(70年代中期になって突然復活したポール・アンカとニール・セダカはともかく)60年代~70年代を通じて第一線で活躍したのは、御大エルヴィスを別とすれば、Bobby Vintonただ一人である。日本では余りに知名度が低いのだが、大物中の大物であることには間違いない。

その大物歌手の謎。放ったヒット曲に、他人のヒット曲の焼き直しが実に多いのである。それも直近の、格下年下歌手の持ち歌。普通カバーの場合は何らかの工夫を凝らすものなのだろうが、ボビーの焼き直し盤はオリジナルよりシンプルで、おおむねチャートポジションもオリジナルに及んでいない。

その嚆矢がジョニー1964年秋~65年春のヒット曲(Billboard Hot100第31位、同・Adult-contemporary 第4位)「シー・アンダースタンズ・ミー」のカバー。ボビー盤は何故かタイトルを「ダム・デ・ダ」と変え、1年半後の66年夏にヒットしている(Billboard Hot100第40位、同・Adult-contemporary 第20位)。ちなみに本当のオリジンは、ジョニー盤の1年前、ベテラン女性歌手Teresa Brewerによる「ヒー・アンダースタンズ・ミー」(Billboard Bubbling-under第130位)。日本ではテレサ盤はむろん、ジョニー盤も(前後の大ヒット曲「恋のウルトラC」と「涙くんさよなら」に挟まれて発売されたこともあり)まるでヒットしなかった。しかし、ボビー盤は「恋する2人」の邦題で、彼の曲としては珍しく日本でも結構ヒットように覚えている。

その後、同様に「格下年少歌手のヒット曲のカバー」を繰り返し発表し続け、そのひとつが前曲に似た曲調の「Halfway to Paradise」(邦題「虹のパラダイス」)。珍しく米オリジナル盤より上位チャートにランクインしている。トニー・オーランド(ボビーの9歳下の親友)とビリー・ヒューリー(イギリスに於けるクリフのライバル)については、別の機会に紹介する予定。




■I Love Loving You(Johnny Tillotson/Lucille Cosenza)


1982年、Buddahよりリリースされた、Johnny通算20枚目のアルバム「スクラップ・ブック」(録音は1972年、15枚目のアルバムとして準備されるもノンリリース)収録。

ヒットを連発していた65年まで(せいぜい68年のC&Wヒット「ユアー・ザ・リーズン」まで)の曲は、同じ 曲をいろいろな組み合わせで、何10種類もの編集盤が組まれているのだが、以降の10数年にリリースした30枚近くのシングル盤は全てハズレ(良くて下記2曲のような情けない成績)、従ってアルバム収録曲を含めた70~80年代の100曲以上が、現在に至るまでどの編集盤にも再収録されないままでいる。

上に通算20枚目、と記したけれど、それぞれ5年間在籍したケイデンス・MGMの両レーベルを離れてからの15枚目以降は、1~2年ごとに移籍を繰り返したそれぞれのレーベルから、過去のヒット曲を再収録してお茶を濁した3枚も含まれる。

しかし、72年(リリースは82年)のBuddahからの「Scrapbook」(71年のPop128位「Apple Bend」を含む)と、77年のUnited Artistsからの「Johnny Tillotson」(同年C&W99位「Toy Hearts」を含む)に関しては、完全オリジナル楽曲。自作曲を含む意欲作が目白押しで、最近になって、そのほとんどをユーチュブで聴くことが出来るようになったのは、嬉しい限りである(残念ながら中国ではYou tubeを開くことが出来ない)。

前者のA面2曲目に収録されている「I love loving you」は、ジョニーと最初の奥さんのルシルの作品。同じ世代 のキャロル・キング&(キャロルの最初のご主人)ゲリー・ゴーフィン組や、ボビー・ヴィントンらと比べれば、才能の差は余りに歴然としているのだが、平凡極まりないメロディーや歌詞といい、以前の伸びのある高音とは違った絞り出すような苦しげな声といい、それはそれでジョニーの魅力となっているような気がする。

ちなみに、この曲の歌詞紹介はYou tube上に見当たらない(「Johnny Tillotson~I Love Loving You」で検索すると、彼の代表的ヒット曲「Why Do I Love You So」と「You Can Never Stop Me Loving You」ばかりがドサッと出てくる)ので、リスニングによる記述が正しいかどうかは自信なし。でもまあ、前曲の“your friend is all I’ve stayed”と言ったような、僕の貧弱な語学力では到底解読出来そうもない言い回し(「your friend」とは自分のこと?)とは対照的な、小学生でも分かりそうな単語やセンテンスのみで構成されているので、おおむね当たっているとは思うけれど(笑)。

Bobby Vinton の声色は「7色の虹」。Johnny Tillotsonの声色は「春の霞」。歌詞内容も歌声も、余りに差のある2曲だが、まあ、そういったところで了解して頂き、ご勘弁(?)願いたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日4月20日はジョニーの誕生日ということで、、、、。フランスのMr.Migandさんにより多数アップされている70~80年代のJohnnyの曲のうち、2曲を追加紹介。

●Big Ole Jean(written by John E. Beland & Johnny Tilotson:song by Johnny Tillotson)


1975年、米Columbiaよりリリースされたシングル盤で、ジョン・エドワード・べランドとの共作による、コミカルなカントリー・ナンバー。ブランドは70年代にジョニーのバックミュージシャン(ギタリスト)としてツアーなどに帯同するほか、幾つかの曲を共同制作するなど、相棒的な存在でもあった(その後、リック・ネルソンのバックミュージシャンとしても活躍)。ジョニーとは、この「ビッグ・オレ・ジーン」の他にも、「A song for Hank William」などを競作している。べランド本人のヒット曲としては、「Baby You Come Rolling Close My Mind」(68年Billboard Bubbling-under第115位)がある。この曲のオリジナルは「Peppermint Trolley Company」というグループで、こちらも彼ら唯一のヒット曲(68年Billboard Hot100第59位)。なお、ジョニーの親友Bryan Hylandによるカバーもあり、ジョニー自作のデビュー曲「夢見る瞳」をカバー(ノンヒットシングル)フィチャーしたアルバム「Stay and Love Me All Summer」(69年)に収録されている。ブライアン・ハイランドのレパートリー中、僕が最も好きな曲。

ジョニーの持ち味は、コミカルなカントリー・ナンバーを歌ったときに、最も良く出ていると思う。ヒット曲「トーク・バック・トレンブリング・リップス」「ハートエイクス・バイ・ザ・ナンバー」「ユアー・ザ・リーズン」も、ノベルティー・ソングまでは行かなくとも、コミカルな曲。自作の曲としては、ビートルズやローリングストーンズをからかった「Long Hair Committee」(67年、僕は勝手に「ビートルズなんて怖くない!」という邦題をつけています)、C&W界の大御所Ernest TubbとLoretta Lynnのデュエットに提供した「Who’s Gonna Take Your Garbage Out」(69年、Billboard C&Wチャート第18位)などがあり、このあたりはノベルティー・ソングと呼んでも良いだろう。

この「ビッグ・オレ・ジェーン」も完全なノベルティー・ソンでグ、曲中に“ナッシュビルのスーパースター”として、コンウエイ・トゥエッティ、ウエィロン・ジェニングス、ウィリー・ネルソン、メル・ティリス、マール・ハガード、トム・T・ホール、デビッド・ヒューストン等々、C&Wのビッグネームが次々登場する、実に楽しい歌。ちなみにC&W界で“Jean”といえば、女性歌手のジェーン・シェパード。ジョニーの「涙ながらに」は数多くのC&Wシンガーに取り上げられているが、僕が最も出来が良いと思っているのは、このSheperdのバージョン。

70年代以降、ヒットチャート的には、ほとんど全く実績を残せないでいたジョニーの経歴だが、どうして、この時期の活動は、純粋に内容面だけを見れば、ある意味60年代前半の全盛期以上に充実しているように思う。


●Freckles(written by S.Whipple:song by Johnny Tillotson)

1977年、United Artistsよりリリースされたアルバム「Johnny Tillotson」収録。“Freckles”は“そばかす”の意。クリフ・リチャード英ヒットチェーンのカバー「Wind Me Up, Let Me Go」や自作の「Country Boy, Country Boy」 (共に66年)、77年ジョニーの小ヒット曲で、「Freckles」と同じアルバムに収録された「Toy Hearts」など、詩情溢れるカントリー・バラードも、ジョニーの得意分野。これらの曲では、伸びを欠いた掠れ気味の声が、むしろ効果的に現れているように思う。4分を超す曲中、幾度か繰り返される“Special”という語が、実に優しく、かつ大きな意味を含んで胸に伝わってくる。



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朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey 【再開第1回】

2013-04-19 10:21:12 | アメリカン・ポップスearly60’s


I want to be your lover.
But your friend is all I’ve stayed.
I’m only halfway to paradise.
So near, yet so far away……

■Halfway to Paradise (Carole King/Gelly Goffin:song by Tony Orland, Billy Fury, Bobby Vinton)



“おやすみ”の挨拶
“I love Monica!goodnight sweet-heart!”

ちょっと待って! 今なんて言ったの?
ジュンゾウは大好き、私のベストフレンド、とても大切な人、、、。
でも“ラヴァー”じゃないんだから、金輪際そんなフレーズは使わないで!

そんなわけで、I want to be your lover….
これは僕のファボリートソングのひとつ。歌を口ずさんでいるだけなんだから文句の言いっこなし!

I long for your lips to kiss my lips.
But just when I think the may.
You lead me halfway to paradise.
So near, yet so far away.


モニカと一緒に暮し始めてから、3ヶ月が経った。普段は離島や僻地や山の中を駆け巡っている。東京に戻ってくると、ダンボールの山に埋もれて、ワンルームマンションでの一人暮らし。この10年、、、いや、よく考えたら、物心ついてから後、人と一緒に生活したことは皆無のような気がする。

正月明けに一度日本に帰り、とんぼ返りで中国に戻ってきた。いくら暖かい雲南とは言っても、まだ花や蝶のシーズンにはだいぶ間がある。なにもすぐに戻ってくることは無かったのだけれど、物価の高い日本でうろうろしていると、すぐに資金が尽きてしまう。中国ならば、日本の5分の1程度の支出で済むから、、、、というのが表向きの理由。正直のところは、モニカの顔を見たいが為に、急いで戻ってきたわけである。

以前からそうなのだが、彼女からはメールを滅多に寄こさない。それを愚痴ると、「そんな暇はない」と。一行や二行の返信ぐらいくれても良さそうに思うし、帰宅時の大半はパソコンに向かっているわけだから(それに携帯電話でもメールは受信出来るはず)、僕のメールを見ていないのではなく、単に面倒で返事をしない、ということだろう。僕はその程度の存在なのか、と思うと、落ち込んでしまう。

緊急の要件を送った際は、すぐにメールが返ってくる。といって、いつもいつも“緊急”というわけにはいかないから、勢い、僕のほうからのメールがモニカからのメールの数を、大きく上回ってしまう。すると、何回分かに一度、返信が遅れたことについての、弁解と謝罪のメールが届く。でも、それは離れて暮していたときのこと。一緒に住む様になってからは、メールの遣り取り自体ほとんど無くなった。モニカとすれば、毎日顔を合わせているのだから、いまさらメールなんて、というところだろう。

モニカの仕事と勉強への取り組みの態度は、尊敬に値する。雲南理工大学を出て2年目、大手電気メーカーの昆明支店勤務。毎日判で押したように、朝7時半出社、夜6時半帰宅。僕の朝食と昼食は出かける前に作り置き。帰宅後、すぐさま台所に向かって2人分の夕食。向かい合って黙々と食べる。8時から10時までは自室に篭ってネット授業。「税法」という難しそうな勉強をしていて(年末に試験があるのだそうな)、それが終わって11時になれば、どんなことがあっても就寝(例外は去年のクリスマスイブの夜と、その少し前、僕が急病になった際、病院で付き添っていてくれたときぐらい)。

いずれにしてもホテル暮らしの丸1年の間、あれだけ毎日のように訪ねて来てくれて、食事に行ったり、カフェでおしゃべりをしたり、日本語のレッスンをしたりと、バラエティーに富んだ日々を過ごしていたのに、今年に入ってモニカのアパートに移り住んでから以降の3ヶ月は、ほとんど会話も無く、毎日毎日黙々と向かい合って食事をするだけで、味気ないことこの上もない。「釣った魚には餌を与えない」という言葉を、ふと思い浮かべるが、まさか、僕が「釣られた魚」というわけではあるまい(笑)。

僕はといえば、、、、なんにもしていない。食事も作らなければ、掃除もしない。させてくれないのである。部屋は中国スタイルで、ひとつのフロアにモニカの小部屋と僕の小部屋、それぞれの部屋に鍵はなく、通常開けっぱなし、終日その自室に閉じこもって、ひたすら写真の整理と原稿執筆の毎日。

あとは何から何まで、モニカ任せ。
ジュンゾウ!食事!!
ジュンゾウ!散歩!!
言われるままに従うだけ。

毎日モニカと顔を合わせることができて、幸せと言えば幸せなのだろうけれど、“ラヴァー”ではないとならば、つまらないことこの上もない。

僕はともかく、モニカの側には何のメリットがあるのだろうか? こんな貧乏な日本人など、見たことはないと思う。一応月一万円の家賃は支払ってはいるのだが、食事そのほかの経費は全てモニカ持ち、必要なときは、モニカから小使いを貰っての生活だ。

モニカの日本嫌いは徹底していて、日本製品不買運動に参加中。僕が何かをあげようとしても、日本製品だと断じて受け取らない。夢は世界旅行なのだが、日本には絶対に行きたくない由。

男女の交際は、結婚が前提でなければしてはいけない。「そのあたり日本人はいい加減で大嫌い!」と。自分に関しては、仕事と勉強が忙しくて、とても相手を見つける余裕なんて無い。ちなみに、恋人の条件は「正直」な人、嫌いなのはプレイボーイとデブ。

というわけで、まだ“恋人”の募集は始まっていないのだが、その際、僕は欲を言わず「No.9 love potion」(by「Poetry in Motion」)ならぬ「No.9 love position」で充分。でも、たぶんノミネートさえされないんだろうな。

それにしても、どうしてこんなにも、モニカを愛してしまったのか? モニカに申し訳ないという思い。一体、僕は、どうすれば良いのだろう?

I love you, I love loving you.
I would die if I had to live without you.
You make my day begin.
You put sunshine in my life.
I love loving you….

■I Love Loving You(Johnny Tillotson/Lucille Cosenza:song by Johnny Tillotson)





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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代  2012.12.16

2012-12-16 09:03:55 | アメリカン・ポップスearly60’s


雲南昆明在住の40歳下の彼女(37歳下の千明さんで懲りたので、もう一人の彼女44歳下の“テンテン”ともども手は出していませんよ!)モニカのほか、やはり昆明の大学に通う28歳のニュージーランド人青年(日本とレバノンの血が入っている)ルイスに手伝ってもらって、今後、中国がらみの題材については、中国(あるいは台湾)のメディアを拠点に活動を行おうと考えています。

そのルイスと話していた時に、驚愕の事実が明かされました。彼はビートルズのファンで、ことにジョージ・ハリソンの大ファンとか。もちろん、ローリング・ストーンズやビーチ・ボーイズにも理解があって、話が弾みます。今の日本の若い世代には「ビーチ・ボーイズを知らない」という人も多く、その都度ガッカリしているのですが、リアルタイム(60年代当時)ではビートルズの人気が突出し、かつビーチ・ボーイズの人気が徹底的になかった日本のことですから、それも仕方がない、と自分を慰めています。

でも、、、、なんと、旧大英帝国の一員ニュージーランド人のルイスが、“クリフ・リチャードを知らない!!!(名前も聞いたことがない!)”。そんなことってあるのでしょうか? 信じられない!! もっとも、今の日本の若者が、日本の国民的歌手「美空ひばり」を知らなくても不思議ではないような気もするので、、、、イギリスの国民的歌手「クリフ・リチャード」を知らないことも有り得るのかも知れませんが。

クリフ・リチャードCliff Richard のリアルタイム(60年代)のライバルに、ビリー・ヒューリーBilly Furyがいます。もちろん、クリフを知らない人が居る時代ですから、今の日本人の99.9パーセントは彼の名は知らないでしょう(もっともリアルタイムでも日本では全く無名だったので、ブリティッシュロック興隆の嚆矢の一人として再評価されている今のほうが日本では知名度があるかも)。僕は、当時日本キングレコードから出ていた彼のシングル盤を、ジョニーのそれと共に買い集めていたものです。

アメリカに於けるジョニー・ティロットソンと、イギリスに於けるビリー・ヒューリーの実績は、見事に重なります。ジョニー(1939年4月20日生まれ)のビルボード・チャートが1958年から1965年までに26曲、ビリー(1940年4月17日生まれ)のメロディーメーカー・チャートが1959年から1966年までに26曲、最高位2位、次いで3位、、、、と、ピタリ一致します(ジョニーはその後84年までにカントリーの小ヒット4曲、ビリーは没年の83年とその前年に58~59位の小ヒット3曲)。

リアルタイムでのクリフのライバルとしては、もう一人、アダム・フェイスAdam Faithがいます。彼もビリーと同じ(クリフも)1940年生まれ。実績も全く拮抗していて、イギリスのチャートはやはり1959年から1966年まで、2曲少ない24曲も、1曲目と2曲目がナンバーワンに。

前にも同じ事を書きましたが、たまにYou-tubeに素晴らしい画像が紹介されることがあります。Johnnyのリアルタイムの動画像は他の同時代歌手に比べて極端に少なく、もともと残っている画像が少ないのかも知れないけれど、本人が出し惜しみしている、という疑惑も少なからずあります。この間も、びっくりするようなインタビュー画像が突然現れたのですが、すぐに消されてしまいました。

それはともかく、今回you-tubeの検索をかけたら、季節柄興味あるオムニバスメドレーが見つかりました。
「Merry Christmas – Feliz Navidad Christmas Oldies」 Montse Antares    

メンバーのラインアップが素晴らしい!

まず、4シーズンスFour Seasonsから始まることになっていますが、なぜかこれは入っていない。最初に、ジョニー・バーネットJohnnyBurnette(1934年生まれ、64年ボート事故で死去、60年に「You are 16」「Dreaming」の2大ヒットあり)による「挨拶」が短く入ります。次いで、ダーレン・ラブDarlene Love(1938年生まれの黒人女性歌手、言わずと知れたフィル・スペクター組の中心人物で、自身名義のヒット曲は僅かですが、幾多の有名曲の実質ヴォーカルを担当していたり、バックコーラスのリードを取っていたりと、コニーやブレンダと並び、ポップス黄金期を代表する女性歌手)の「Christmas, Baby Please Come Home」。

続いて、同じ「ラブ」でもマイク・ラブMike Loveのリードボーカルによる、ビーチ・ボーイズBeach Boysの超有名クリスマスソング「リトル・セイント・ニックLittle Saint Nick」。マイクとブライアン・ウイルソンBrian Wilsonの作品で、1963年と64年のクリスマスシーズンにベスト3にチャートされていました。最初にリアルタイムで聞いたときの興奮は今もって忘れられません。でも、これほどの有名曲になるとは思わなかった。クリスマスソングのエッセンス満載、かつ録音の素晴らしさが抜群で、これがほぼ50年前のレコーディングであるとは、とても信じ難いほどの斬新さです。

“録音状態の良さ”ということでは定評のあるジョニー・ティロットソンJohnny Tillotson で、「Christmas Is The Best Of All」(自作曲)が続きます(ビーチ・ボーイズの後とは光栄極まりない)。しかし、このオムニバス収録トラックは、音の盛り上がりが他の曲と比べて平坦、もう少し声を強めにミキシングしてほしかった。

この後、アダム・フェイスの「Lonely Pub, In A Christmas Shop」、ボビー・ヴィントンBobby Vinton(1935年生まれ、経歴実績は省略、実質上1960年代のナンバーワン男性歌手)の「The Bell That Couldn’t Jingle」と、ジョニーの曲を含め、(たぶんオリジナルの)余り知られていない曲が続きます。

ディオンDion De Mucii(1939年生まれ、経歴実績は省略)の「ママがサンタにキッスした」。全盛期(58年~64年)よりずっと後年の録音ですが、いやもう圧倒的にパワフルですね。このオムニバス中の一押しの曲です。

最後が、ビリー・ヒューリーの「My Christmas Prayer」。最近、何かのブログで、「ビリーはエルヴィスのイミテーターの最高峰、完璧!」と褒め称えるコメントを見かけましたが、確かにその通り。でも当時は「メイビー・トゥモロー」「アイ・ウィル」「ハーフウエイ・トゥ・パラダイス」など、典型的な“ティーンポップスシンガー”として、アメリカのジョニーと並ぶ僕のフェブリットシンガーだったのです。ちなみに、同時期にアメリカでは、「アイ・ウィルI Will」はヴィック・ダナVic Dana盤で(後にディーン・マーチンDean Martin盤でも)、「ハーフウエイ・トゥ・パラダイスHalfway To Paradise 」はトニー・オーランドTony Orland盤で(後にボビー・ヴィントン盤でも)、それぞれヒットしています。

そのヴィック・ダナ(1942年生まれ、「ブルーレディに紅バラを」など)について。以前に、ヴィック・ダナのことを、「ボビー・ヴィントンのミニチュア版、ヴィントンから“個性を抜き取った”のがダナ」と記しました。7歳年上のヴィントン62年夏の初ヒットの半年前、61年の暮れに、クリスマスソングの「リトル・アルター・ボーイLittle Alter Boy」(Hot100第45位)でデビューを飾ります。前にも触れたように、新人の、クリスマスソングの、それも実に地味な曲が、よくぞまあポップチャート45位というポジションを確保し得たものです。この後「I Will」47位(アダルト12位)、「Danger」96位、「モアーMore」42位(アダルト10位)、「シャングリラShangli-La」27位(アダルト8位)と、爆発的ではなくとも、コンスタントにヒット曲が続きます。

「リトル・アルター・ボーイ」のリアルタイム映像があります。若々しく瑞々しく、そして謙虚なステージ。このストレートさが、彼の“個性”ですね。この曲の意外なヒットの理由が、分かるような気がします。


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Andy Williams

2012-09-28 22:05:56 | アメリカン・ポップスearly60’s
9月25日、Cadenceにおけるジョニーの大先輩Andy Williamsが亡くなりました(84歳)。



ケイデンス時代のアンディーの2大ヒットバラード(「Are You Sincere」 1958年Billboard Hot100第5位、「Lonely Street」1959年 Billboard Hot100第5位)、Cadenceの後輩2人の歌で、追悼します。



Lenny Welch Are You Sincere


Jonnny Tillotson Lonely Street




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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(40)

2012-09-15 21:53:12 | アメリカン・ポップスearly60’s
報告

50年前の1962年5月12日にBillboard hot100に初ランクインしたJohnny Tillotson「It Keeps Right On A-Hurting“涙ながらに”」、その後C&Wチャートに移行し、(次のシングル「Send Me Pillow That You Dream On“夢の枕を”」がヒット中の)今日、9月15日までチャートインを続けて来ました。「その間、僕も頑張らねば!」と記したので、報告です。

写真原版を収録したDVDを、中国から日本のメディアに郵送することが出来なかったり、単行本執筆を予定していた出版社が倒産してしまったり、いろいろと大変でした。でも、来年からの雑誌連載や単行本の刊行も、なんとか見通しがついて来ました。期待していてください。

今日、久しぶりに、You-tubeを開いて、新しく貼り付けられたJohnnyの曲をチェック。興味深いのが幾つも見つかりました。今春のライブ映像(Dreamy Eyes“夢見る瞳”)とか、これまで聞く機会に恵まれなかった60年代末~80年代のシングル~アルバム曲、「Cabaret/If I Were A Rich Men」(1968、イギリスのみの発売)、「Like The Orient Express“僕でいいなら”」(1967、日本製作曲の英語バージョン)、「I love loving you」(1970、Album-cut)、「Big Old Jean」(1975)、「A Thousand Miles From Home」(1977、Album-cut)、「Lay Back In The Arms Of Someone」(1984、最後のチャートヒット、以前JohnnyのH.P.で紹介されていたが、その後引っ込められた)等々です。

相変わらず、「Why Do I Love You So“こんなに愛して”」と「Judy, Judy, Judy,」は、どこの国か分からない(おおむね東南アジアと中南米?)バージョンが新たに幾つも貼り付けられています(オリジナルもカバーも)。中で収穫は、Petula Clarkのフランス語版「Judy, Judy, Judy,=Oublie, Oublie, Tout」これはなかなか素敵です。それと、東南アジアのどこかの国のT.V.ドラマ(女子学園が舞台の青春ドラマシリーズ?)の一場面に流れてくる「Judy, Judy, Judy,」(Johnnyのオリジナル盤)、これもなかなかいい雰囲気です(一昨日の9月13日に貼り付けられたばかりですが、放送は数年前にされているようです)。それと、2009年のミス・アメリカのコンテストを紹介したYou-tubeに「Why Do I Love You So」と「Judy, Judy, Judy」(ともにJohnnyのオリジナル盤)が使われています。

アジア各国での「Jud, Judy, Judy,」と「Why Do I Love You So」のリアルタイムでのヒット状況を、ぜひ知りたいものです。僕の今後のライフワークになるかも知れません(笑)。

*(青山自身で作成していく予定の)「“New”あや子版」は、来春を目処に再開を目指します。しばらくお待ち下さい。


นางอาย Ep.17

52 Beautiful in Miss America 2009 Contest

Johnny Tillotson - Judy Judy Judy - Petula Clark - Oublie oublie tout


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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(39)

2012-05-12 09:11:15 | アメリカン・ポップスearly60’s




今日5月12日は何の日でしょうか? ちょうど50年前の1962年5月12日、Johnny Tillotson最大のヒット曲「It keeps right on a-hurting(涙ながらに)」がBillboard Hot100に初ランクインした日です。その後R&B、C&Wとクロスオーバーヒットを続け、9月15日までチャートイン(C&W)を続けていました。と言うことで、何の脈絡も無いのですが(笑)、6月、7月、8月と、僕も目いっぱい頑張らねばと思っている次第です。

ちなみに次週5月19日付けのHot100には、Bert Kaempfert楽団の「That Happy Feeling(素敵なフィーリング)」が初チャートインしています。ランク上の最高位は67位ですが、その後ケンプフェルト楽団のテーマミュージックのように扱われている超有名曲です。ラジオから流れてくるこの曲を、当時14歳だった僕は夢中になって聞き続けたものです。

体の具合も、パソコンも、(詳細は略します~それはもう大変な苦難の連続でしたが)何とか最悪の窮地を脱することが出来ました。「あや子版」の記事が、3月3日の終了時の状態で、アップされたままになっています。先日、読者が心配するので何らかのコメントを入れておいたほうがいいのでは?とあや子さんに打診したのですが、「少し心配させておいたほうがいいんじゃない?」と言う意見だったので、僕も「なるほど、そのほうがいいかも」とそのままにしておいたのです。

でも、読者の皆様方に心配をおかけするのは良くないと思いますし、終了時に通達したように「あや子版」自体(ことに、僕の“職業”に関わる「生物・自然・中国関係」の記事)を続けるつもりは無いのですが、、、、一応、現状の報告を行っておくことにします。

あや子さんの手によるあや子版でのブログ紹介はここで終了とし、新たなブログの掲載は、将来可能かどうかはともかく、期を改めて行えればと考えています(今までの分は引き続きアップしたままの状態にしておきます)。

ちなみに、目下の最大の関心は、「小沢一郎裁判」と「中国重慶事件」の行方。検察と小沢一郎と日本の市民、中国共産党執行部と薄煕来と中国人民、その相関関係についてです。中国人民はともかく、日本の市民の大多数(たぶん90パーセント以上)は、無意識のうちに権力者側の立場に位置している“善意の受益者”です。間違っても彼らは“弱者”などではありません。(むろん僕自身も含めてですが)上を見ればきりがない、でも目は上を向いている、決して下を見ようと(解ろうと)はしない、、、、。

今はとてもそんな余裕は無いのですが、いつか本当の「弱者」の人たちに、手を差し伸べることが出来れば、と願っているのです。



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