2010.11.21(11.25アップ)
そうか、そういうことなのか。
真実は一つ。それで戦争が起こる。
僕が、これまでずっと(正確に言えば“ある時”以降)、日本人の“何”に対して疑問を感じてきたのか、分かったような気がします。
このブログは、11月21に記述しました。もちろんメインの作業は本来の原稿書きや写真の整理ですから、ブログに専念しているわけにもいかずに、全体を整えるのに時間がかかり、アップが今日(25日)になってしまいました。ということで、24日時点での追記。
様々なインターネットニュースのコメントを見て判断するに、“悪役”は、横綱日馬富士⇒貴乃花親方⇒日馬富士に移り変わってきているようです。現時点では「日馬富士」にほぼ集約されています。理由は「暴力を振るい逮捕されたから」。
暴行傷害事件・逮捕・罪人・横綱失格・引退追放、それ以外は付属的問題、差別などは関係ない。大多数のコメントが、その流れで一致しているようです。国際問題などにして、安部さんに迷惑をかけるな、と。
僕は、モンゴル人は好きではないし(そのことについては後述します)、日馬富士も好きではない。
でも、一貫して日馬富士の庇護に当たります。
心から日本を愛する日本人の一人として、日本の行く末が心配だから、、、。
以下、21日記述分に戻ります。
資金は調達出来ず、痛風がまた復活の兆し、パソコンはどうしようも無い状態で、おまけにメガネを無くしてしまった。終日、窓のないベッドと机だけの部屋に閉じこもり、ひたすら、パソコン画面(予備のメガネが劣悪で疲れる)を見つめて日本からの連絡待ちです。
もっとも、昨日18回来たメールは、全てモニカから。17日からの計45回も、モニカ以外は3人8通(うち5回はあや子さんとのブログ作成打ち合わせ)だけ。肝心の仕事がらみの編集U氏からは一通も来ない。実質、モニカからの指示待ち(食事の準備など)のためだけに、画面を見続けている現状です。
Mr. Lonely(Bobby Vinton)の心境です。
今の僕のパソコンが壊滅状態にあるからか、あるいは中国独自の問題に因るのか、パソコン画面に表示されているヤフーニュースは開くことが出来るのですが、自分で検索したものを開くことは、一切出来ません。
そんなわけで、ひたすらヤフーニュースの日馬富士問題をチェックしている次第です。そして時折コメントを書き込んで、反応を見ています。ネトウヨ及びネットを見る一般市民の考えの傾向を知るために。
赤が賛同、青が否定ですね。僕としては初めから青狙いで、でも気持ちとしては、青ばかりだと淋しいし、ひとつでも赤があれば、やっぱり嬉しい、というところでしょう。
「日馬富士問題」は、スタートの時点で違和感があったのです。それで、当日の11月14日以来、ずっとコメントを投稿し続けています。
初めに言っておくと、僕はモンゴルは好きではありません。日馬富士も好きでも嫌いでもない。
問題を公平に見なくてはならない。非常に複雑で、推移を見守る必要があります。
それが分かっている前提で、あえて日馬富士を全面擁護するのです。
僕にとっての敵は、貴ノ岩でも貴乃花親方でも相撲協会でもマスコミでもなく、ネットユーザーの一般市民です。
「日馬富士問題」がネットニュースにアップされるごとに、コメントを入れていきました。おおむね同じ内容を、様々に書き分けながら。
僕の言いたいことを一言で表すなら、「真実(正義)は一つではない」ということ。それはひとまず置いて、、、、。
●貴乃花親方は、相撲界から「イジメに繋がるシゴキ(可愛がり)」と「八百長の温床」を完全排除しようと考えているのかも知れない。それは素晴らしいことだと思う。
●日馬富士は、貴ノ岩を酒席で殴った、と自ら証言している。
●その行為は、単純に「悪」なのだろうか?
●大多数のコメントは、日馬富士が「暴力を振るったのは確か」だから「追放されて当然」と言っている。それらは本当に「確か」で「当然」なのだろうか?
●大相撲の世界では、良かれ悪しかれ、上位番付の力士、あるいは兄弟子が、若い力士を「可愛がる」という風習(ほとんど仕来たりと言っても良い)がある。
●良く言えば「愛の鞭」、悪く言えば「シゴキ」、さらに見方によれば「イジメ」ともとれる。
●おそらく、99%の力士が、それを行っているであろう。
●稽古の中だけでなく、私生活にも及ぶ。「無理偏にゲンコツと書いて兄弟子と読む」。この社会は、(良いか悪いかは別にして)そのような前提の上に成り立っている。
●酒席などで、後輩に対して、何らかの形(ビール瓶はともかくゲンコツなど)で手をあげている関取は、枚挙にいとまないはずだ。
●日馬富士を角界から追放するならば、それらの力士に対しても、全て同様の処置を採らねばならない。
●そうなれば、角界から、現在の上位陣や相撲協会上層部は、全員消えてしまうことにも成りかねない。
●土俵上の「シゴキ」(おそらくは酒席でのゲンコツなどより遙かに大きなダメージを与える行為だと思う)も考慮すれば、ある意味、稽古自体が成り立たなくなる可能性があると思う。
●本番の土俵上なら、もっと深刻である。ある意味「殺し合い」だ。実際、本番の取り組みで怪我をする力士も多数いる(おそらく、そのような点に関しては、日馬富士は、最も“優しさ”に溢れた関取の一人だと思う)。
●見方によっては、大相撲という「格闘技」自体が「合法的暴力」の延長であり、あってはならない、弾圧されるべき存在なのかも知れない。
●事実、キリスト教の(一教派の)信者だという、かつての名関脇・明歩谷は、格闘技は人としての教義に反する、と言って、相撲界と決別してしまった。
●「八百長」についても同じようなことが言える。
●一年6場所90取り組みを全て全力で対すれば、体が持たない、と言うことは自明の理である。
●何らかの形で「調節」を行わねばならない。
●それを「無気力相撲」さらには「八百長」と取るかは、その場その場に於いて判断されるべきものと思われる。
●もし「無気力相撲」完全排除となったならば、早晩、全力士が早期引退に追い込まれてしまうだろう。
●「愛の鞭・可愛がり・シゴキ・暴力」の問題にしろ、「健康の維持・調節・手抜き・八百長」の問題にしろ、多面的に考えねば、答えは出ないのではないかと思う。
●「暴力」を振るった日馬富士を一方的に責めるのは、違和感を覚える。
●貴乃花親方の理念(シゴキと八百長の完全排除)は、否定すべきではないと思う。共感すべきところも、少なからずある。
●しかし「シゴキ・暴力」「無気力相撲・八百長」とは何なのか? その本質は、複雑多様だ。該当の言葉の上では、負の意味あいを強く著わしているが、それが全てなのではない。
●貴乃花親方は、物事を一方(見栄えの良い“正義”の立場)だけから見ていて、本質に深く考えを及ぼさないまま、敢えて言えば思いつきの信念だけで、行動しているように思える。
●僕は、そのことを良しとはしない。
以上が、僕が考えている、「問題」に対する「答え」です。
実際に投稿したコメントを並べてみました。これまでは月に1~2度、たまに気になるニュースが会った際、コメントを投稿してきたのですが、今回の事件では意識的に投稿を続けているのです。
太文字数字の左が赤(コメントに賛同)、右が青(反対)です。
貴乃花親方、、、、何か腑に落ちない。
[11.14(事件直後)] 6 1
貴乃花親方、、、、何か変。
[11.18(以降は中国に着いてから)] 85 47
ネトウヨの皆さんは、貴乃花親方の言のみを信じて、白鵬や当事者2人の証言を無視しようとしているのですね。貴乃花親方が、どれだけ腹黒い人間なのか、あなたたちは知っているのですか?
[11.18] 3 3
貴乃花親方と相撲協会の、モンゴル勢に対するいじめ。
[11.18] 0 1
これは、ほとんど(日馬富士に対する)イジメに近い。貴乃花親方と相撲協会のほうに、より大きな問題があると思う。
[11.18] 1 1
日馬富士が逮捕なら「可愛がり」は全て暴行容疑で逮捕ね(それも一つの見解だと思うけれど)。相撲界から関取は一人もいなくなっちゃうよ(それはそれで良い)。
[11.18] 198 52
「要は暴力で犯罪だ」というコメントが多いようです。ならば、いわゆる「可愛がり」も暴力です。日馬富士だけでなく、全力士に当てはまるはず。貴乃花親方が(力士全員犯罪者になって大相撲は滅亡しかねないことを承知の上で)相撲界からそれを根絶しようとしているのなら、一定の評価は出来るでしょう。でも、日馬富士だけを狙い撃ちにしている現状は、なんだかなあ、と思います。
[11.19] 79 27
仮に、貴乃花親方が、相撲界から「可愛がり」の仕来たりを完全排除しようとしているならば、それはそれで立派なことだと思う、しかし日馬富士一人に罪を被せるのは、どうにもおかしい。大なり小なり(善意の行動も含めて)ほかの力士も(見方によれば暴力とも取れる「可愛がり」を)行っている。ほぼすべての力士が逮捕されなくてはならない。その覚悟(大相撲は一度消滅する)での決意ならばいいのだが、、、、僕には、そうは思えない。
[11.19] 1 0
日馬富士を擁護する気持ちはサラサラないのだけれど、、、。「この騒動で何の罪もない他の力士が可哀想」と言う意見には違和感をかんじるなあ。だって、同じこと「例えば拳骨での気合い入れ」は、みんな日常的にやっているんだよ!(それは良くないことと思うけれど)告発されて捕まった日馬富士だけが極悪人で、逃げおおせている他の力士たちは可哀想、、、、なんだかなぁ~。
[11.19] 22 18
【元コメント】<こう言う記事が話をぐちゃぐちゃにしてしまう。黒幕は、日本人の島国根性ではないですか?私は日本人として、余りにも差別的な話ばかりが飛び交う事に悲しく思います。暴力を振るった日馬富士が絶対に悪くて、後はその度合いに似合う罰を受ける事が大事で、モンゴル人、日本人で度合いが変わる事はあってはいけないと思う。31 37>
⇒ 僕もそう思う。「愛国心」とか「日本人なら」とか言うけれど、本当に日本人としての誇りを持っているならば、謙虚になって、事態を客観的に見るべきだと思います。
[11.19] 6 2
【元コメント】<日馬富士が殴ったのは事実!とか言ってる人が何人かいますけど…貴ノ岩⇔日馬富士で何か手をあげるようなことがあったにせよ翌日にはお互いに謝ってて…日常生活で稀にあるいざこざっていうか喧嘩にすぎず、その後でどちらも「ごめんなさい」してるんだったらそれで終わってた話なのに。親方だからといってその場にいなかった当事者でもない貴乃花が勝手に被害届出してここまで事を大きくしたんじゃないんですか? アウトレイジは,貴乃花だけ、だと思います! 日馬富士の処分は引退か解雇っていう声も…それを貴ノ岩が心から望んでいると思いますか? 137 51>
⇒ その通りだと思います。昔、貴乃花が、兄弟子の安芸乃島に対し、聞くに堪えかねるような罵倒を繰り返して週刊誌にリークしました。安芸乃島は一切反論せず、二所ノ関一門から破門同然の扱いで立田川部屋に移った、といったような経緯もあります。人として、、、、、。あと、「可愛がり」と「暴力」の線引きをどこでするのか、という問題。相撲界の根底に関わることです。
[11.19] 17 1
貴乃花親方は
八百長を無くそうとしている
イジメを無くそうとしている
しかし
「八百長」ととるか「力の配分」ととるか
「イジメ」ととるか「愛の鞭」ととるか
年6場所ガチンコ勝負だと体が持たない
激しい稽古や叱咤が無ければ相撲が成り立たない
それらを総合して考える必要がある
彼には、それが出来ない
[11.20] 82 17
日馬富士の行動がとった行動が「暴力」なのか「スパルタ教育」の一環なのか、、、後者が犯罪で逮捕なら、力士ほぼ全員逮捕されなければならないでしょう。それと「警察や司法の裁きの結果を待て」という意見が多いけれど、、、警察や司法もどこまで信用できるか、、、。
[11.21] 22 3
意図的な暴行と、叱咤・愛の鞭は違うと思う。後者が良いとは言わないよ!でも、現段階では、ほとんど全ての力士がやっているはず。訴えられて逮捕されれば悪人、そうでなければセーフ、というのもおかしい。たしかに、たとえ愛の鞭であろうとも暴力は無くすべき。でも、貴乃花親方のやり方には疑問だらけ。
[11.21] 14 18
息子と貴ノ岩は洗脳されちまった。
お兄ちゃんとおかあちゃんは上手く逃げれたね!
[11.21] 64 3
【元コメント】<貴ノ岩は非常識...日馬富士は乱暴が過ぎた...世の中 暴力を振るった方が負け、法治国家の日本では正義感を振りかざしても 暴力を振るった方が負けです。30 15>
⇒ それを合法的にやろうとしているのが安部さんね?
[11.21] 1 4
どれくらい僕の意見が受け入れられるか。おそらく青ばかりになるだろう、と予想していたのが、ほとんどが赤(賛成)優勢で、青(反対)の倍以上の数です。正直、かなり意外な結果でした。
(*24日注:この時点では「貴乃花悪人節」に流れが傾きかけていた、という背景もありますが)
ところが、明らかに青が一方的に勝るコメントが、ひとつだけありました。
「真実は一つ」じゃないよ。立場や状況によって、様々な解釈が出来る。「日馬富士が暴行を働いたのは事実、だから犯罪」と言うのだって、短絡的。力士たちの通常の「可愛がり」(それを「イジメ」とみるのか「愛の鞭」とみるのかで違ってくるけれど)の延長と考えれば、そうも言えないと思う。光の当て方で「真実」は違ってくる。「真実はひとつ」「正義はひとつ」と思い込んでいるもの同士がぶつかるから、戦争が起こるのではないでしょうか?
[11.20] 1 13
そうか そういうことなのか。はっきり分かったような気がします。僕が何を言おうとしている のか。何を言い続けてきたのか(生物学的な分野に於いても)。
僕が言おうとしていることは、真実は一つではない、正義は一つではない。それに尽きます。
ちなみに、最後の一つは、ネトウヨのコメントへの返信。このような、余りにストレートな(でも、これが事実です、笑)意見は無視されてしまう傾向があって、思ったよりも反論が少ない(赤が一つあったのは、ご愛敬です)。
*21日以降のコメントを追記しておきます。白鵬の「待った」問題に対して。
私は日本人ですが、白鵬や日馬富士がどれだけ悔しい思いをしているか、身に染みて分かります。「正義」や「真実」は一つではない。立場や見る角度によって違ってくるものです。(すでに朝青龍の時からだけれど)余りにも日本人から見た「正義」を押し付けすぎる。スケールの大きな村八分だと思います。
[11.23] 2 9
二つ前の、赤14/青18と、青が勝っているコメントにも、「訴えられて逮捕されれば悪人、そうでなければセーフ、というのもおかしい」という意見に反応しているのでしょう。
ついでに、この事件の前、11月に入って投稿したのは次の2つ。
≪ゴルフの石川遼の現状にたいして、受け狙いで、笑≫
漫才コンビ「W王子」
[11.3] 18 0
≪「シラサギ」と言う和名の鳥は存在しない、というニュースに対して≫
和名に「正式名称」はありません。権力者の力関係と、それを受ける一般市民の空気の状態で決まり(?)ます。
[11.3] 1 8
多くの市民は、僕が思っていたよりも、意外に健全な思考を持っているのだと思います。いわゆる「ネトウヨ」とは一線を画していて、僕の意見に賛同してくれているのです。
しかし、「真実は一つではなく多様」「権威(司法や学会)による決定事項が必ずしも全てであるとは限らない」といった意見を述べると、非常な反発を受ける。
貴乃花親方のやり方はおかしい、でも日馬富士の暴行は事実、その(基礎・逮捕された)時点でアウト。それが衆目の一致するようなところだと思います。
一方、僕の意見。貴乃花の考え自体は決して間違ってはいない。問題は彼が、それだけを「正義」と思っていること。日馬富士の「暴行」は必ずしも「事実」ではない。「暴行」とは何なのか?「事実」とは何なのか?「起訴・逮捕」されれば本当にアウトなのか?
人々は、(殊に日本人は)「真実」や「正義」を、表層的な視点からのみ捉え、安易に「司法」とか「学会」という権威に委ねてしまう。社会に対しての疑問や不満があるにも関わらず、お上の言うことには、なぜか素直に従っているのです。
今の日本にあって「大衆の空気によって形成された権力」、あるいは「権力によって形成された大衆の空気」は、絶対的なものなのでしょう。
「逮捕されれば悪人」。やっていることは50歩100歩であっても、濠の中に落ちればアウト、逃げおおせればセーフ、それが今の日本に於ける「真実」なわけです。
日本人の持つ問題は、「本質」に対する自覚の追及が欠けていること。「真実」や「正義」が、余りにも表層的で軽すぎます。
ダルヴィシュは、あの清原(僕は大嫌い、笑)に対して、真っ先に救いの手を述べました。「清原さん、僕に出来ることがあれば何でもします、遠慮なく言ってください」(要旨)。
バリバリ現役の大リーガーです。発言に対するリスクの大きさを考えれば、そうそう思い切りよく言えることではない。しかし彼はきっぱりと言い切ります。一度裁きを受けた人間を、再び受け入れようとしない日本の社会の構造は、間違っている、と。
その姿勢は、貴乃花の表層的な正義とは、対極に位置づけられるように思います。(歳は僕よりずっと若いけれど)彼こそが、尊敬に値する、本当の日本人です。
最初に記した“ある時”について。
いつだったか、、、日本に帰国中、たまたまホテルの部屋でテレビを見ていた時です(僕は69年の人生で、自分のテレビを持ったことがない、笑)。
ごく簡単に記します。秋田で、女性が、隣家の子供と、自分の子供を殺害した事件。
レポーターと称する、テレビ関係者たちの、悪人を断罪する正義の叫び。その余りの醜さに、目を疑いました。これが、本当に日本人なのだろうか? 残念ながら、彼らこそ、多くの日本人の想いを代弁する、メディアの使者なのです。
僕には、彼女の哀しみが、痛いほど分かります。彼女が、心の闇のただ中で、間違って(あえてそう表現します)殺めてしまった、最愛の我が子に対する懺悔。それに耐えられずに、隣家の子供を殺害してしまうという、絶対にやってはならない行動に至ってしまった。
我々に出来ることは、彼女を弾圧し罪を科すことではなく、心に寄り添うことです。
僕は、「真実は一つ」と信じている、多くの(善良な)日本の国民に対して、真っ向から挑戦を続けます。
「善良な市民」こそが、戦争を引き起こすのです。
「日馬富士問題」については、ここまで。
ところで僕も、現実的には人畜無害な「善良な市民」の一人であることには違いありません(笑)。言い換えれば、僕の姿勢は、優柔不断で、一貫性がない、ということです。何が正しくて、何が間違っているか、さっぱり分からない(もしかするとIQが低いのでしょうか?)。
例えば「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問にも応えられません。言い切れることは、僕は間違っても人を殺さない、そして(法の許での)死刑制度には絶対反対。それだけは言い切れます。
付け加えれば、あらゆる差別はしてはいけない、と信じています。といって、じゃあ差別とはなに?
と問われれば、上手く答えることは出来ない。敢えて言えば「真実・正義は一つではない」ということに繋がるのだと思います。
僕は、韓国人は基本的に嫌いです(モンゴル人も余り好きになれない)。黒人は好きなのだけれど、黒人音楽の多くは、(感性が会わず)好きになれない。ホモは、非常に気持ち悪く感じる、、、これは生理的なものだから、仕方がありません。
はっきりと言えることは、自分がそのような感情を持っていることを、非常に残念に思っていること。幾ら、思想、感性、生理的側面で相いれることが出来なくとも、彼らを非難することは、絶対にしてはいけない。なんとか、受け入れたいと、努力を続けているつもりです。
ただ、性同一障害に対しては、思うところがあります。自分が理解出来なくても、彼らが苦しんでいるという事実があるのですから、それ自体を理解する、あるいはそれに向けて努力をする、という姿勢は、絶対的に必要です。
でも、どこかに釈然としない所があります。本人の自覚が他人に認識して貰えない「同一障害的少数者」は、彼らだけなのだろうか?と。
これは半分冗談で、とんでもなく場違いな意見かも知れないけれど、例えば、僕が日本の文化や社会にどうしても溶け込むことが出来ず、自分の本当の感性はアメリカ人なのであって、アメリカ人として生まれたかった、と常に思っていたとしましょう。それに対して(もちろん冗談ですが)「祖国同一障害」は、認めて貰えないのでしょうか?
理解出来ないことは、無視される。それは仕方がないことです。
でも、人間は多様です。余りにも多様です。人間が他の生物と最も異なる点は、知能とか言ったことではなく、その多様性にあるのではないか、と思ったりもします。
残念なことに、多様性の自覚の可否に関わらず、多くの人が(殊におそらくは知能が高くなればなるほど)、自己や社会の価値観が鮮明になり、その枠の外が分からなくなって、ひいては否定に繋がっていくように思えてなりません。
唯一の「真実」「正義」の構築です。
この話は、他の(未発表)記事に書いたことと重複しますが、ここでも記しておきます。
今後「現代ビジネス」で、僕をプッシュしてくれることになっています。それに際して、懸念材料があれば、今のうちに払拭しておかねばならないと。まず第一に行わねばならないのは、以前のブログに掲載した、ベトナム・サパの渓流で裸で水遊びをしている子供たちの写真を、削除しておかねばならない。
世間の趨勢はよく分かっているので、むろん従います。あや子さんに頼んで、早速削除して貰ったのです。
でも、正直、非常に理不尽な思いがあります。
既に掲載時に「ガキとの闘い」として掲載した一連のコラムに対し、ある異変が起こっていたのです。編集プログラムとかいう機能を通して、毎日、何人の訪問者があり、閲覧数がどれくらいあるかを、チェックできるようになっています。さらに、閲覧者が、どのようなキーワードで訪れたかなども分かります。
「ガキとの闘い」をアップしたとたん、「訪問者」「閲覧数」が、極端に跳ね上がったのです。そして検索キーワードには「男の子裸」「女児裸」といった、おぞましい文字が、、、。恐ろしくなって、その話題は以降凍結することにしました。
田舎の子供たちの、健康の象徴、として取り上げたのです。僕の自信作の一つでした。健全さということで言えば、これほど「健全」な話題は、そうは無いだろう、と自負していました。
それが、全く正反対の方向から眺められていたわけです。変質者が基本。それに沿って規則を構築する。こんな理不尽なことがあって良いのでしょうか?
「後ろめたい」目で見るのが当然。なぜなら、みんなが内心、同じような気持ちでいるから。
それは違うでしょう!
あなたたち(多くの一般市民や権力者)はそうかも知れない。そうでない人々も数多く居るのです。福田康夫元首相の退陣時の記者に対するコメント「貴方とは違うんです」は名言だと思っています。
知らない子供に親切にしてはいけない。倒れている女性を介抱してはいけない、、、、。見て見ぬふり、面倒なことには関わらない、それを良しとする社会は、早晩、破綻をきたしてしまうのではないかと。このままでは、人類はどんどんあらぬ方向に進んで行くのではないでしょうか?
今話題の「セクハラ」とか「ストーカー」とか「不倫」とか言った問題も、表層的な「正義はひとつ」というような綺麗ごとで考えるのではなく、もっと本質を掘り下げて熟考すべき問題だと思っています。
人々は、どうして、自分や周りの社会の中での物差しだけでしか、物事を捉えることが出来ないのでしょうか? 悲しくなってきます。
ご存じのように、僕はこの30年間、日本と中国や東南アジアの国々を行き来しています。それを知ったある日本のご老人曰く、「君が頻繁に国外に行くのは“女”が目的に違いない、いや、そうとしか考えられない」。
残念ながら、みんなが貴方のような助平ジジイではないのです。一緒にしないでほしいです。
もっとも、元婚約者のスーリン(年に一度ほどしか会わないけれど、今でも仲が良い)や、唯一の弟子(実質マネージャー、笑)のモニカは、天涯孤独と言って良い僕にとって、家族に等しい、かけがえのない存在です。最愛の(笑)小七も女の子だし、彼女たちに会いに行くのが、どこがいけないのでしょうか?
先日ネットニュースを見ていたら、元大阪市長の橋下さん(この人の思想は僕とは正反対ですが、そのストレートで斬新な姿勢には好感を持っています)のコメントに出会いました。
行政が中学生の茶髪を禁止する指導についての、反論(自主性の排除、イジメに繋がる懸念)への反論です。
現実的に(荒廃している学校では)茶髪の子供ほど、入れ墨を入れたりして、ワルになって行く確率が高い。人生、そんな無駄な時間を過ごすのはもったいない。自分も損するし、他人にも迷惑をかける。見てみぬふりをするのではなく、そうならないように指導することこそ、大人の愛情であり、行政の使命ではないだろうか、という要旨だったと思います。ある程度分かるし、ある程度は賛同します。
でも、ほんとうに、入れ墨、ヤンキー、そうなっちゃいけないのでしょうか?
入れ墨やヤンキーが無駄で排除されるべき存在ならば、僕からすれば、今一般に普及しているファッションとか様々なカルチャーとかも、まるっきり無駄で目障りでしかない。
入れ墨はダメで、ファッションに時間やお金を割くのは良い。なんで? 社会の中のポジションがそのようになっているからでしょうか。
入れ墨のある人は入浴を断る、今の日本の銭湯の主流です。合法的(一般市民合意の)差別。これほど悲しく、残念なことはありません。
皆(一般市民)が嫌がるから、というのがその理由です。
大企業でも大金持ちでも、政治家でも宗教者でも科学者でも芸術家でもなく、一般市民が最大の権力者なのです。
政治家は小間使い、いかに多くの一般市民の要望に応えるか。そのような意味では、安部さんは最高の首相なのかも知れません。主人公は一般市民に集約され、そこに「正義」が司る。
ちなみに、僕は風呂が大好きで、帰国するといの一番に銭湯に行きます。で、その理不尽な差別に思いを馳せます。
外国での評価は、必ずしも良くないですよ。むろん日本の銭湯は大人気で、特に富裕層の中国人にとって、郊外(例えば東北地方)の観光旅館の露天風呂は人気の的です。
その一方、よく真っ裸で、不特定多数が入る不衛生なところに浸れるもの、と思っている外国人も、結構います。実際、街中にある銭湯では、どう考えても不潔だとしか言えない湯船に、少なからず出会っています。
早い話、人前で裸になることを強制されるわけで、セクハラと受け取られても仕方がないでしょう。
不衛生、セクハラ、差別。そんなところに行く人間は最低と、風呂文化自体を野蛮な存在と否定されても、文句は言えません。
こっちだって、海外の多くの国では、日常的カルチャーとして成り立っている、入れ墨の文化を否定しているわけですから。
僕は、日本では、福生のスタバを事務所代わりに使っています。302円のドリップコーヒー一杯で、開店の朝9時から、閉店の夜11時まで、そこでパソコンを打ち続けているので、お店にとってはさぞ迷惑な存在と思われますが(笑、、、一応了解は得ています)。
そのような現実的な問題とは別に、福生のスタバを拠点としているのには、副次的な理由があります。米軍基地があることから、外国人の利用者が多いのです。欧米人、アフリカ系やヒスパニック、
ロシア、インド、中国、東南アジア、、、(一階のスーパー共々)様々な国の言葉が入り乱れて飛び交っています。そのごちゃごちゃ感が、僕にはとても心地よく、なにかホッとするのです。
中国人は、そりゃあマナーが悪いですよ(笑)。スタバの中でも電車の中でも、当たり構わず大きな声で携帯電話をかけていたりします。スタバと電車内で、それぞれ一度、見かねて注意したことがあります。自分や他の乗客が迷惑する、と言うことではありません。中国人が、悪く思われるのが忍びないから。
凄くびっくりし、かつ嬉しかったのは、どちらも物凄く素直に聞き入れてくれたこと。少しは嫌な顔をされると思ったのだけれど、全くそういうことはなく、非常にストレートに、「悪かった、今後改めます、注意してくれて感謝する」と。
最後に、これまでの話の流れとは全く無関係なのですが、中国絡みの話題の報告。
驚いたのと同時に、正直怖くなっています。
中国から、お金が消えつつあるのです。実質消えてしまったといっても良いのかも知れない。すでに指摘していた人もいるし、僕自身も感じていたのですが、まさかこんなにも急激に、という思いです。
近い将来の可能性を指摘、とかいう段階ではなく、すでに使っていない!
深圳の下町です。中流の下、あるいはそれ以下のレベルの庶民が暮らしています。典型的な下町の商店、飲食店、市場などで、ほとんど全ての人が、スマホというのでしたっけ(ごめん、その方面の知識が全然ない)、携帯電話のようなものの画面を翳して支払いをしている。
現金を使って買い物をしているのは僕ぐらい。もちろんお札やコインも使えるわけだけれど、僕以外にお札やコイン利用している人は見たことが無い。なんだか、SF小説の世界に迷い込んだような、不思議な気がしてくる。
以前から感じていたことではあります。モニカにお金を借りようとすると、貸せない、何となれば 持っていないから。そんな薄情な、そっちが困っている時には助けてあげているじゃないか。飛行機のチケットなら気前よく購入してくれるのに、500円や1000円を貸してくれないとは、なんと薄情で恩知らずでケチなのか、と。でも、(今分かったのですが)本当に持っていないのです。
日本でも同一傾向にあると思います、でも、そこまで急速に徹底して進まない。ステップ・バイ・ステップ。
中国は、何事も一気ですね。「日進月歩」というのは大袈裟な例えであって、実際は早くても年単位でないと、進歩は見えてはこない。しかし中国では、比喩ではなく実際に「日進月歩」なのです。比喩ならば「秒進分歩」と言わざるを得ない。今年は、ほぼ毎月ごとに中国を訪れているのだけれど、本当にその月毎に、様々な状況が急速に移り変わっているのです。
それで思い出すのは、しばらく前に香港で出会った光景。
今は、ほとんど全ての日本人が携帯電話を持っています(僕は持っていないので様々な局面で困ることがある)。でも、最初の普及は、そんな大昔のことではないのですね。
僕が最初に携帯電話(の原型)に出会ったのは香港の街。多くの市民が、見たこともない(今より遥かに大きなサイズの)携帯電話を持ち歩いていました。香港は日本に比べて進んでいる、でも物好きの新しがり屋だろうから、そのうち消えてしまうだろう、と思っていたら、あっという間に広がり、日本でも普及するようになったのです(ただしずっとコンパクトな形で)。
僕が中国に行き出したのが80年代の後半、最初の頃は上海インで、香港インに変わったのが90年代中頃、考えてみれば、20年ほどしか経っていないのです。
屋久島には、70年代半ばから本格的に行き始めました。80年前後、地元の高校の先生と焼酎を飲みながらバカ話をしていた時、新しい儲け口を探そう、という話題になりました。
自動販売機のペットボトルには、当時からコーヒーやコーラはあったのですが、お茶はなかった。ペットボトルのお茶を作れば儲かるのではなかろうか。でも、わざわざお茶を自販機で発売しても、コストの面でも需要の面でも、成り立ちはしないだろう、、、と言っていたら、それが実際に行われて、あっという間に普及してしまった。
今、空飛ぶタクシーとか、AIロボットとか、ちらほら噂を聞きます。もしかしたら、普及に至るのは、あっという間なのかも知れません。
中国で現金使わなくなっている、と言う話の余録。今回、2度支払い間違いがありました。大抵は多く取られるのですが、今回は逆。弁当屋で弁当を買ったら、実際より遥かに多いお釣りが来た。帰りながら数えたら、明らかに間違っていた(面倒なので結局そのままにしました、笑)。
商店でリプトンティーバックを買いました。中国では高級品で、間違いなく500円以上します。それが120円、まずあり得ないのですが、、、そんなものかな?と思って、そのまま支払いました。しかし、どう考えても安すぎる。
中国人にとって最大の得意種目である「お金の勘定」が出来なくなってしまう日が、すぐ目の前にやってくるのでしょうか?
もう一度「日馬富士“暴行”問題」に戻ります。今度は「前代未聞の白鵬の“待った”不服騒動」が加わりました。
当然のことながら「だからモンゴル人は、、、」という声が噴出してきます。
日本の文化に基づく正義・真実、モンゴルの文化に基づく正義・真実。互いに異なる双方がぶつかり合ってしまっている、というのが現状です。最初から敵対するつもりならば、それはそれで仕方がない。でも、互いに友好関係を望んでいるのです。ならば、いくら理不尽な部分があろうとも、互いに譲歩しつつ受け入れる必要があると思います。
ここのところ、モニカはご機嫌斜めです。何とならば、ジュンゾウはトラブルを起こしてばかりいるから、けしからぬ、と。でも、べつに僕がトラブルを起こしているわけではない。ある意味、中国に滞在していること自体が、トラブルに繋がってしまうのです。
前に書いた、上海のY.H.のフロントからニセ札を渡され、交換を要求したら、一度受け取ったのだからと拒否をされてしまった話。理不尽極まりないので、電話でモニカに伝えたら、それが中国のカルチャーなのだから仕方がない、と一喝されました。訴える方が悪者になるわけです。ここは中国なので。
今回のトラブル?も、悪いのはホテルのスタッフとモニカなのであって、僕には全く落ち度はないはず。僕のほうから主体的にトラブルになるような行動は、一切行っていません。
夜にホテルに着き、モニカからは2泊分支払い済みなのでそのまま泊まるようにと指示されていました。しかしフロントは、支払ってない、と言います。手持ちのお金はない。押し問答が続きます。
実は、翌日になって、やはり支払っていることが判明。フロント間での伝達が成されていなかったのです。伝達が成されないのは、中国では当たり前。それがカルチャーなのだから、彼らにとっては落ち度でも何でもなく、責任の所在は全く感じていません(だから、翌日自分たちの不手際が分かっても、絶対に謝らない)。
友達のところに行って、確かめて、お金を持ってこい、と言うので、しかたなく、近くのモニカのアパートを訪ねました。
ゲートを開ける暗証番号を忘れてしまった。僕の唯一の失敗です。これを責められたなら(事実モニカはそれを責める)反論のしようがないのだけれど、誰にでもあることだと思う(これまで閉まっている時に一人で行ったことなかったし、僕が何回聞いても電話番号などの数字を忘れるというのはモニカも充分承知済みのはず)。
で、入り口の隣のお店の人に、電話をかけてもらった。モニカの「ワァー!」「ギャー~!」「なんてこった!」「もうお終いだ(注:やっと寝た小七が起きてしまった)」「この馬鹿野郎めが!」。それを聞いてお店の人が警察を呼んだ。僕は何もトラブルは起こしていない。電話口で叫び声をあげたモニカが悪いのです。
後日、そのお店前を通りかかった時、モニカに「顔を出して一言謝っておけ」と言ったら、「嫌だ」と言う。モニカ曰く、中国の一般市民の大半は、(本心では)外国人strangerに対して快く思っていない。自分もそうである。よほどの注意が成されていないことには、トラブルに繋がってしまう。余計なことはするな、と。
幾ら理不尽でも、「正義」の在りどころが違うわけで、、、。
今回の「白鵬審判不服事件」に際しての、「だからモンゴルは、、、、、、」というコラム。象徴的なコメントをひとつ。
[コメント] 相撲って日本の国技であり、日本独自の風習や仕来りみたいなのを尊重している世界なんだから、外人力士をきちんと教育できなくて揉めるなら日本人だけでやればいいのに。外国人力士を入れない事は人種差別って言う人いるけど、別に世界チャンピオン決めたい訳じゃないんだし、国技としてやってるんだから身内の日本人だけでやっても人種差別でも何でもないでしょ。
[それに対する別の人の返信] ならば最初から外国人を入れなければいい。日本人だけの、日本人だけによる、日本人だけのための相撲だと宣言すればいい。
僕は、この問題について、当分コメントはしないことにしました。
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