懐かしいです、、、、「ブルームフィールド」「藤田平」
「日馬富士問題」貴乃花親方に対する風向き変わってきましたね。書きたいことが山程あるのだけれど、どうも力が入りすぎて(笑)、なかなか上手く纏めれません。で、少々緩い話を書きたくなったので、、、同じスポーツ絡みで、今日開幕したプロ野球の話題です。
さっき、インターネットのニュースをチェックしていたら、ジャック・ブルームフィールド(通称ブルーム)についての記事を見つけました。これはもう、懐かしい、、、。
僕が、最初にファンになった野球選手です。1960-1964年近鉄、1965-1966年南海(ジョニー・ティロットソンの全盛期と、ぴたり一致します、笑)。
ちなみに、最初に生で見た野球選手は、阪急のエース梶本と「黒い稲妻」ロベルト・バルボン(もう一人いたはず、米田だったか足立だったか、、、なぜか思い出せない)。甲南中学の何かのイベントにやってきていました(1960年代初頭)。
バルボンさんは、引退してから神戸の三ノ宮でステーキ料理屋を経営していて、何度か食事をしに訪れたことがあります(本人も厨房に立っていた)。故郷のキューバに帰りたいのだけれど帰れないと覚悟している、と当時言っていましたが、85才になる今も、関西住まいのようです。
バルボンは58-60年に二年連続盗塁王、ブルームフィールド(以下ブルームと表記)は年を3つサバを読んでいて、バルボンより3つ上(バルボンもサバを読んでそう、笑)だとのこと、今年88才です。バルボンよりやや遅れて日本のプロ野球に参戦(大リーグ所属歴なし)、62-63年に二年連続首位打者を獲得しています。65年、バルボンは阪急から近鉄に、ブルームは近鉄から南海に移籍したので、すれ違いです。
ブルームについて良く知られているのは、観客乱打事件(別に「日馬富士問題」を意識して書いているのではないです、笑)。2年目の1961年、「ヤンキー・ゴー・ホーム」(この言葉は、アメリカ人にとっては最大の侮辱らしいですね)のヤジを受け、観客席に飛び込んでヤジった観客を殴りつけた事件。罰金と出場停止7日間、それだけでなく逮捕寸前まで行ったそうですが、その観客が悪質ヤジの常習犯とのことで容赦を受け、最悪の自体は免れたとか(今とは時代が違いますし)。
同じ1961年には、もう一つの出来事も知られています。たまたま訪れた病院で、生まれたばかりの赤ちゃんが大きな手術をせねばならず、しかし特殊な血液型のため、家族も医師も頭を抱えていた、それを聞いた同じ血液型のブルームが、輸血を申し出た。
30年後、お母さんになったその時の赤ちゃんが、自分の赤ちゃんを連れて、命の恩人ブルームに会いに行った、、、文字通り心の温まるエピソードです。
7年間の日本球歴の、2年目からずっと3割前後(最低打率でさえ.294)を打ち続け、平均打率は.315。結構凄い数字です。あのノムさんや張本が、ヒットの打ち方などの教えを請うた、と言われています。
今年88才。是非もう一度、日本に遊びに来てほしいですね。
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プロ野球絡みでネットを検索していたら、藤田平の記事が目につきました。(一年余前)藤田平が21年ぶりに阪神のO.B.会に出席したという。
藤田平は、僕より半年上(1947年10月生まれ)。高卒初年度の66年からレギュラーとなり、67年から球界を代表する好打者となりました。僕と同じ世代で、打者としては(投手はこの年に近鉄鈴木啓示、読売堀内恒夫、翌年に阪神江夏豊がブレイク)最初の大物です。
やがて、江夏、田淵とともに阿修羅の活躍をしだした頃です。当時僕は天地真理ちゃん(71年にデビュー、今は赤貧の状態で老人ホーム在住由)のファンで(笑)、藤田平にだったか天地真理にだったかどちらかは忘れたけれど、ファンレターを書こうと思いたったのです(もちろん出してなどいない、笑)。それで、そのファンレターに何を書こうと思った(もちろん思っただけ)かというと「僕は藤田平さん(天地真理さん)の大ファンです、もう一人歌手(野球選手)にもファンがいて、それは天地真理(藤田平)さんです、お二人は似合いのカップルだと思うので、ぜひ結婚してください」という、超々お節介な、、、、もちろん一瞬チラッと思っただけですが、それだけでも今思えば、ドン引きです(笑)。
この時点で2000本安打に達していた打者は、「打撃の神様」川上哲治だけでした。15年ほど経ったなら、藤田平も2000安打を放っているに違いない、と思いました。でも15年というと、彼も僕も30歳代半ば、そんなとてつもない未来は、想像もできない、、、とその時は思っていました。
あっという間ですね。15年後、ちゃんと2000本を達成し、引退。18歳の僕の頭にあった「遥かな未来」など、今から振り返れば、その何倍もの「遥かな過去」でもあるわけです。
そのまた10数年後、阪神の監督に。ご存知のごとく、最悪の成績で、阪神暗黒期のどん底へと突入します。退団後は、球団との間に巨大な確執を生じてしまい、どのイベントにも呼ばれなくなってしまいます。
そして、21年ぶりに、阪神O.B.会に参加した、という次第。
70年代の阪神タイガースは、江夏・田淵・藤田平の三枚看板でした。なにかと派手な話題を提供する江夏と田淵の2人と異なり、(野球通はともかく一般的には)藤田平は地味な存在です。
江夏と田淵は、やがて阪神を追い出されます。一方、藤田平は阪神一筋の野球人生を全うします。しかし、監督として最悪の成績、典型的な無能監督のレッテルを張られてしまい、球団との確執はハンパない後半生を過ごすことと相成ります。でも考えてみれば、江夏と田淵は、監督としても(正式な形のコーチとしても)お呼びがかからなかった。それを思えば「無能監督」としてファンや球団幹部から罵倒し続けられたとはいえ、現場トップを経験できたのは、僥倖だったと言えなくもありません。
ついでに、「江夏豊の世界」というブログ(本人がどの程度関与しているかは不明)を見つけました。江夏は、あまたの団塊世代有名人中、僕と最も誕生日が近い一人(僕の半月後)です。ちなみに田淵は2才上ですが、大卒なので阪神入団は江夏よりも2年後です。
そのブログに「自分が選んだプロ野球ベスト9」というのがありました。
さすが江夏!
つい最近、どこかのテレビ番組で「歴代プロ野球最強メンバーを選ぶ」という企画があって、それがとんでもない偏った結果になってしまっている(ちなみに、江夏は選ばれたのに「犯罪者」ゆえ?紹介をスルーされてしまっている、番組のゲストに迎えられた「世界の盗塁王」福本豊は名前さえも挙げられなかった)、という憤慨物の話を覚えていると思います。それとは対照的な、100%納得の選択。繰り返し、、、さすがに江夏です。
「現役選手は外す」「一緒にプレーして、その技術も人間性も肌でわかっている人」という条件下で、恩師のノムさんや親友の衣笠も敢えて外すという、一切「忖度」無しのベストメンバー。
コメントも素晴らしいので短く要約して付け加えておきます。
投手(左)鈴木啓示
投手(右)山田久志
「彼らと競ってきたのは自分の誇り」
捕手 田淵幸一
「日本の野球を変えた」
一塁 王貞治
三塁 長嶋茂雄
「O.N.は外せない」
二塁 高木守道
「攻守走すばらしい」
遊撃 藤田平
「自分にとってはこの人」
外野 張本勲
外野 山本浩二
外野 若松勉
「日本球界唯一の3000本安打の張本、全てにおいてバランスの良い山本、若松」
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追記1
ギリシャ在住の友人のチエコさんが、ブログをはじめました。僕も本名で登場しています(「ジョージ」は「ジョニー」になっている、笑)。興味のある方は、ぜひご覧ください。
ギリシャのエーゲ海の島に移住!ゲストハウスしたり猫と戯れて適当に生きてます!
追記2
「日馬富士(貴乃花)問題」は、書きたいことだらけなのですが、風向きが変わってきつつある今は、(「モリカケ安倍問題」共々)しばらく様子見です。