狭間のシンガーの選定条件は、エルヴィスよりデビューが後、となっているので、彼より前のデビューの、例えばパット・ブーンやチャック・ベリーやレイチャールスは、加わりません。また、ビートルズ米デビューより前としているので、彼らより後に初ヒットを放った、例えばジョニー・リバースやトリニ・ロペスらも割愛。62-63年度のヒット曲の一定の比重も条件に入っているものだから、60~61年頃までにしか主要ヒットを持たない、例えば、ジミー・ロジャースなども選に漏れます。逆に、例えばクリフ・リチャードやスティービー・ワンダーのように、一応この当時にヒット曲があっても、60年代より70年代、80年代に(アメリカでの)活動の中心を持つ歌手は、選外、他ジャンルとの関係では、例えばボビー・ゴールスボローはCWへのチャートインが、ジャック・ジョーンズはACへのチャートインが、ポップチャートへのランク曲数よりも多いのでアウト。仮にそれらの条件を満たしていたとしても、Popチャートへのランクイン曲数が10曲以上、または20世紀ランク500位内、の条件をクリアしていなくてはなりません。
レニー・ウエルチも、ぎりぎりで選に漏れた一人。Popヒット(Hot00入り)は、確か9曲で(ビートルズ登場以前には3曲、もっともうち一曲は、62年のリリースで、チャートインはビートルズ登場後の64年初夏)一曲足りません。
最後に、ケイデンスにおけるジョニーのライバルでもある、彼のことを書かせて下さい。
ケイデンスは、ニューヨーク・マンハッタンのマイナー・レーベルです。しかし、ジュリアス・ラローサ、コーデッツ、アンディー・ウイリアムス、ジ・エヴァリー・ブラザース、ジョニー・ティロットソンと、数多のスター歌手を輩出した、有名レーベルでもあります
小企業ゆえの資金繰りのためか、それともポリシーに沿っての結果なのか、、、、。それぞれのアーチストは、ヒット曲も多く、その名が知られている割には、ケイデンスから発表されたアルバムは、余り数多くはありません。選りすぐりのアルバムだけを、リリースしてきたのです。アンディーは8枚、エヴァリーは6枚(3枚は移籍後、在籍時の一枚は、ヒット性を全く無視したオールド・ソング集「Songs Our Daddy Taught Us」で、これがまた素晴らしい)、彼らのネームバリューからすれば、意外に少ないのではないかと思われます。ジョニーは3枚(例えば同時期のティーン・アイドル歌手ボビー・ヴィーは、60年から63年までに12枚のアルバムをリリースしています)、うち一枚はNGM移籍決定後の寄せ集めですが、62年に相次いでリリースされた2枚(「ベスト集」と「涙ながらに」)は文句なしに素晴らしいです。曲の配置にしても、最善の曲順を考慮して組まれていて、アルバム自体に一貫した芸術性を感じとれるのです。
当時は、ティーン・アイドル花盛り。“歌の上手い下手などどうでも良い、ルックスさえ良ければ、スターとして売り出して見せる”と豪語して憚らない、レコード・レーベルやプロダクションがあった中、正反対の姿勢を貫きました。所属する各アーテイストに対してはもとより、「ケイデンス・レーベル」自体のファンが今でも少なからずいることが、納得出来ます。
アーチ・ブレイヤー(60年代初頭には50歳を過ぎていました)は、ケイデンスの創始者、オーナーであるとともに、プロデューサーであり、アレンジャーであり、コンダクターであり、実質的に配下歌手たちのマネージャーであり、自ら専属アーテイストでもありました。レーベル自体が、家族のようでもあったのです(実際、夫人は配下アーテイスト「コーデッツ」のメンバーで、お嬢さんは後に「エヴァリー・ブラザース」フィルの夫人となっている)。
しかし、“個人経営”とも言うべきケイデンスの枠に収まりきらないほどメジャーな存在になってしまった、エバリー兄弟とアンデイ・ウイリアムスは、やがて、それぞれメジャーレーベルの、ワーナー、コロンビアに移籍してしまいます。そして、62年、ジョニーの「涙ながらに」が、ケイデンス初のBest 10チャート・アルバムに。ジョニーが、アンディー&エヴァリー移籍後の、ケイデンスの屋台骨を、(年少の「エディー・ホッジス」を伴って)支えていたわけです。
翌63年、ジョン・F・ケネディー大統領の私生活を(コメディーにして?)収めたドキュメント?・アルバム「ファースト・ファミリー」がチャートNo.1に。その直後のケネディー暗殺。そして、時を置かずして、ケイデンスは解散(倒産?)してしまいます(その辺りの因果関係は、僕はよく把握していません)。
そしてその直前、最後に残った“スター歌手”ジョニーも、メジャーレーベルMGMに移籍(ジョニーの移籍がレーベル消滅の最後のひと押しになったのか、消滅を悟って逃げ出したのか)。消滅直前ただ一人となった配下アーティストが、レニー・ウエルクというわけです。
Lenny Welch。1938年生まれ(ジョニーより一歳上)。ニューヨーク出身の(白人スターたちの中に唯一人混じった)黒人シンガー。ジュリアスやアンディーや(年齢はともかく実績上)エヴァリーは大先輩ですし、ホッジスはずっと後輩です。同世代は、Johnny Tillotson一人。
60年初頭「ユー・ドント・ノー・ミー」(Pop 45位、R&B 27位)で、幸先よいデビューを果たします(Cadence1373、ちなみにCadence1372がジョニーの「こんなに愛して」(Pop 42位)。しかし、ジョニーがその後の3年間にリリースした、9枚のシングルを、全てチャートイン(両面ヒットを含めHot 100に11曲、Top 40に8曲、Best 10に3曲)させたのに対し、レニーのほうはと言えば、ジョニーとほぼ交互にリリースを重ねた7枚が、全てハズレ。
そして、63年暮れ、消滅が決まったケイデンスにただ一人残ったアーティスト、それまで“連続はずれ”のレニーの通算9枚目の「シンス・アイ・フォル・フォー・ユー」がチャートを駆け上がります。例の(ビートルズ来襲直前の)64年1月第1週のHot 100チャートで、第4位にランクされるのです。メジャーレーベルMGAに移ったジョニーも、移籍初シングル「トーク・バック・トレンブリング・リップス」が大ヒット、時を同じくしてBest10入りします。
近年CDで復刻発売された、Cadence時代のレニーのBest Albumには、その64年1月第1週のBillboardのBest 10が印刷されていて、「シンス~」の堂々の第4位が、(意識的にかどうなのか)ジョニーのMGM移籍第1弾「トーク~」の7位の上に、誇らしげに示されています。
最近のインタヴューで、「ジョニーとは、今、仲の良い友達」と、ことさら“今”を強調しているように思えるのは、穿ち過ぎでしょうか?当時は、悔しい思いをし続けてきたに違いありません。
くじけずに頑張り続けてきたレニーは偉いと思うし、まるでヒットしない彼のレコードを出し続けてきたアーチ・ブレイヤーにも、頭が下がります。最後の最後で“恩返し”が叶った、この物語を思うたびに、胸が熱くなるのです。
(Johnny TillotsonのH.P.の“メモリー&フォト”の項をご覧になって下さい。一番下に、アーチ・ブレイヤーと若き日のジョニー、および最近のレニーとジョニーの2ショットが紹介されています。)
63年から64年にかけての「シンス~」のあと、62年にリリースされた「引き潮」(オリジナル・ヒットは、ロバート・マックスウェルのハープ・ヴァージョン)がチャート・イン(Pop 25位、AC 7位)し、70年前後までに、ニール・セダカのカヴァー「悲しき慕情」や、
カントリー・ナンバーの「サンデー・カインド・オブ・ラブ」など数曲を、チャートに送り込んでいます。
しかし今回、ネットで“レニー・ウェルク”を検索したところ、意外な(僕からすればちょっと残念な)事実に出会いました。レニーに関する話題でネット上に出てくるのは、大ヒット曲“シンス~”でも、“ユー・ドント・ノー・ミー”でも、“引き潮”でも、“悲しき慕情”でもなく、5枚目のシングルA面、ノン・ヒット曲の“蜜の味”の話ばかり。後にハーブ・アルバートのインスト盤が大ヒットしますが、それよりも後年は、ビートルズが初期にカヴァーした曲、というところが共通認識になっているようなのです。そして、そのオリジナル演者がレニー・ウエルクであり、ビートルズ(ポール・マッカトニー)は、レニー盤を参考にして、この曲を唄ったのだと。
今(ことに日本に於いて)、レニー・ウエルクは、ビートルズのレパートリーの一つ「蜜の味」を最初に録音リリースした歌手で、ポール・マッカトニーは彼の盤を手本にこの曲を唄った、その1点で認識され評価されているわけです。
ちょうど、ジョニーの「涙ながらに」が、エルヴィスのレパートリーとして、突出して知られているように(ひどいのになると、ジョニー・ティロットソンとは、“元々はエルヴィスに曲を提供していたC&Wのソングライターで、後にポップ音楽に転向して、自分でも唄うようになった”という紹介が成されていたりします)、何もかも、エルヴィスやビートルズが基準となって、全ての評価が定められているのです。
数年前、スキーター・デイヴィスが無くなった時の(日本の)新聞記事には、「エルヴィスと一緒の舞台に立ったことがある」と紹介されていたり、やはり数年前の、フィル・スペクターが殺人容疑で逮捕された(されかかった?)時の(日本の)新聞記事には、「ビートルズとも交流があった」と紹介されていたりしました。“だから、みんなは知らないだろうけれど、その世界では結構有名な人なのです”という趣向なのは分からなくもありませんが、本人たちの実績にはほとんど触れずして、それだけをことさらに強調するのは、失礼にも程がありゃあしないだろうか、と思ってしまうのです。
ということで、「ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代」の、締め括りとさせていただきます。