参加して思うこと
本当に「待つ」のは難しい
石井嘉寿絵
私たちは、エンジンがかからない車がバッテリー切れだと気づいたら、バッテリーに充電します。それは少し時間がかかる作業ですが、どれ位で終わると分かっていれば、充電中に車を動かそうとしたりはしないで、多分、楽しいおしゃべりでもしながら待つと思います。
不登校の子ども達も、こんなふうに待ってもらえれば、わりと短期間にエネルギーの充電が終わると思うのですけど、不登校の場合、この「待つ」という作業がそう簡単ではありません。色々な人が、充電を待ちきれず動かそうと試みます。直接関係ない人まで心配していじくりまわします。その度に無駄にエネルギーを使って、時間ばかり掛かってしまうことがあると思います。
不登校の子どもが元気を取り戻すのに時間がかかるのは、実は「ゆったりと待つ」ことができなくて、時間がかかっているのではないでしょうか。「待ってばかりいても」と心配される多くの場合、どんな風に待っているのか振り返ってみる必要があるかもしれません。でも、この辺のことは、なかなか分かりづらいようです。一応頭で分かる人はあるのですけど、心底理解して、実践できる人は稀だと思います。
では、どんな人がそうできるのかと考えると、不登校と同じような経験のある人、あるいは、子どもが死にそうになったりして、命の尊さを骨身にしみて感じたことのある人、などではないでしょうか。愛情があるとか、優しいとかだけでは、とても難しいのだと思います。
だから、本当の意味で「待つ」ことなんて、なかなか、誰もすぐにはできないのです。「ゆったりと待つ」のは、とても難しいことだということを知って、待てない自分を責めないようにして欲しいと思います。
不登校の苦しみから早く脱しようとするより、失敗を繰り返しながら、少しずつでも親として成長できたら、子どもはそんな親の変化を敏感に感じ取り、親を尊敬し、自信を取り戻すかもしれません。
もし腹をすえて、子どもを信じて穏やかな気持ちで「待つ」ことができ、それを周りも認めてくだされば、ほどなく子どものエネルギーも充電できて、「何かしたい」というサインを出すと思います。
子どもがサインを出した時に、それをしっかり受け止めて、適切に次の手を打てばいいのではないでしょうか。
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