FBナビにある、ホーム コラム ライフ 「赤い」や「青い」はあるのに、なぜ「緑い」はないのか? というのが目についた。日本古来の色のとらえ方だというのだが、果たしてそうか。そのように解釈すると、あかし くらし しろし あをし となるのはいいが、いちしるし と、あをし の相関が気になる。ここにイメージをもってするなら、何ら根拠はないが、海に輝く光と、その海に吸い込まれる光の、そのありようが浮かぶ。するとやはり、陽が差すことと、陽が差さないことになる。日の出と日の入りに、島国にめぐる光の動きである。海に吸い込まれる光はまた、山に吸い込まれる光のありようでもある。日本にはこのほかに色名があったか、とするなら、そこには大陸から伝来した文字にあてた日本語読みが由来する。アオはその意味内容を持つ漢字に、読みを当てている。青とは、碧、藍、蒼、このそれぞれに、そして、みどり 緑 翠 には、若草の色を表した。さて、そこで、これは何と読むか。白馬の節会。 . . . 本文を読む
朝日デジタル、日曜に想う である。嶋聡氏のことを書く。選挙に出ようという話だ。どの党を選ぶかを語る。いきさつには氏の言葉、人生は回転扉というのがある。その語録を編集者の記事によると次のようである。>ベンチャーはニッチ(隙間)を狙えと言う人がよくいますが、それは間違い。メインにならないニッチに将来はない ここに見える、ニッチとは、生態的地位のことであるが、ニッチ産業というふうに使われることがある。隙間産業とも。壁龕 へきがん ともなると、優雅である。顧客の需要があるにもかかわらず規模が小さく、商品の供給・提供がなかった市場や潜在的需要を掘り起こす産業という。 . . . 本文を読む
この作戦名が有事の際のキーワードとなる。いかにもおどろどろしい。朝鮮半島の米韓合同演習に用いる言葉である。これが、もとは米軍による、米軍の作戦概念、decapitation strike(strategy)を翻訳したものという。decapitationとは、主な意味に、断頭、斬首、頭切除術がある。米軍は精密先端兵器を動員し、イラクのサダム・フセイン、リビアのカダフィなど、反米政権の最高権力者を除去する作戦を展開したことがあり、状況下、合同訓練に参加した、米第1空輸特戦団と米75レンジャー連隊所属特殊戦兵力は、特殊戦部隊の任務に、敵要人の暗殺などが含まれるので、北朝鮮の首脳を標的にしたものとみられている。 . . . 本文を読む
やおら の語義については、>1 静かに身を動かすさま、また、徐々に事を行なうさまを表わす語。そろそろと。おもむろに。やわら。現代では悠然としたさまをいうことが多い。2 時間の経過とともに変化、進展し、ようやくその状態になるさま、事態が変わるさまを表わす語。 日本国語大辞典より と見える。 . . . 本文を読む
芥川賞作品、第154回受賞 死んでいない者 を読んだ。葬儀に集う親族の通夜を描いている。死んでいないものが誰で、死んだものが誰か、遺族と故人に、この語りをするものは誰なのか。その死に同居したもが作者を重ねあわせられるような作品である。読んで文体の特徴に気づく。芥川作品の饒舌体の文章である。そこには文章上の区切り符号が用いられていない。正確には句読点のみである。この技法は新奇なものか。いま、このブログの文章に、筆者は句読点のみ、それを書き続けてきている。同じような文体を作り出している作者は、ほかの文章においてどうなのだろうかと、興味を抱く。 >滝口悠生さんは1982年、東京都八丈町生まれ。2011年に『楽器』で第43回新潮新人賞小説部門を受賞し、デビュー。2014年には『寝相』で第36回野間文芸新人賞候補となり、2015年は『愛と人生』で第28回三島由紀夫賞候補、第37回野間文芸新人賞を受賞。同年、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』が第153回芥川龍之介賞候補となっている。 . . . 本文を読む
ゆるんだ寒さが気をしめる。春の季語である。青空が広がって澄み渡る。春らしからぬ空である。ふと、さえかえると思ってしまった。しかしこれは、あたらない。まぶしいほどの日差しが出て、気温があがる。もう少し寒さが強い気候だから、2月だろうかと、いうところで、三寒四温の語を思い出した。これまた、2月あるいはそれより以前のころの語である。語感のずれはわたしにあるが、冴え返るのは、気候だけでなく、さまざま用いるので、あたまの働きの冴え返りがないのはいかんともしがたいか。えっ、この青空のもと、きょうの気温は真冬並みですか、冴え返っているんですか・・・ . . . 本文を読む
文化論の文化の定義が捉えられて、文化の価値が文化そのものをあらわす議論となり、文化の相対性が明らかになるにつれ、その文化特有の議論はステレオタイプに帰せられ、文化を語ることは文化そのものの実践をさすようになる。言語教育に言語と文化が議論されると、それは日本語とその文化にも影響し、文化そのものを語ることが変容する。そこには文化講座の意味をもってカルチャーセンタの時代がある。生涯教育に連動するものであったが、文化は街へと繰り出し、サブカルチャーが盛んとなる。 . . . 本文を読む
夏目漱石、夢十夜、1908年の7月から8月にかけて朝日新聞紙上で10回連載されたそうだ。それを、現代によみがえらせる、小説本文は現代仮名遣いの岩波文庫版に準拠ということである。
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人のためならず この語法が、解釈のもとになる。情けは というときの、言い方も、情けをかけることは、というふうには受け取られなくなってしまったのだろう。情けをかけることと、情けをもって人助けすることとは相いれない。人に親切にすることは、などの、言い回しがすでにおかしいのである。情けをかけることはそうそう、たやすいことではない。人のためならず は、打消しの語法として、情けは人のためなり を、打ち消したものであるから、情けは情けはひとのためにある、その情けを人のためにあるとしなければ、それをうち消して、つまるところ、情けはひとのためにあるのではなくて、情けは誰のためにあるか、それは、情けをかけることの行為を自らの行為としてとらえる言葉であるから、そこに現れた人のために情けをかけることの重要性を認識している。人に情けをかけてもらった思いがあるかどうか。この頃の世知辛い世相ではない、厳しく生きる人々の倫理には、恩を感じる時代のあったことである。 . . . 本文を読む
夏目漱石、夢十夜、1908年の7月から8月にかけて朝日新聞紙上で10回連載されたそうだ。それを、現代によみがえらせる、小説本文は現代仮名遣いの岩波文庫版に準拠ということである。 . . . 本文を読む