見川町、見川
鎌倉時代は箕川(河)と書かれていたそうですが、箕川は今の桜川のことだったそうです。大掾氏の一族だった箕川氏という在地領主もいたそうです。その後地名の箕川は、見川という書き方になったそうです。川の箕川を桜川と改称したのは、桜川市磯部神社から山桜をこの地に移植した徳川光圀だそうです。写真は光圀が移植をおこなったあたりの桜川団地橋児童公園で見た、桜川と復活した桜の満開風景です。
赤沼町
通八町目木戸から川岸通りに通じる通りで、城東2-3丁目と東台2丁目あたりだそうです。低湿地で、鉄分を含んだ赤い水の沼があったようです。この町には獄舎があり、幕末の暗い歴史の中で、舞台の一つになっていたようです。
立浪町(たつなみちょう)
今の城東4丁目あたりのようです。花畑、川岸通り、那珂川に面していたそうです。洪水の常襲地帯だったようで、こうした名前の付くのも納得できます。
水門町(みずもんちょう)
水門見付を出て桜川にかかった橋を渡って南に向かい、本一町目に至る町だったそうです。下市側の水戸城西側に、桜川に面した水門御門があって、それが元禄3年(1690)、光圀のときに、水門ノ見付と改められ、町名は水門町となったそうです。市道浜田3号線のあたりのようです。